10. 懸念
「お疲れ様です。リヴィア殿」
訓練場の隅の方で倒れていた私の側に寄ってきたのは、服を着直したクスティナだ。
彼女は落ち着いた笑みを浮かべていたが、その耳は赤いままだった。
「ありがとうございます。騎士殿」
「それほど固い呼び方でなくて結構ですよ。クスティナで構いません」
「……」
軽く告げられた彼女の言葉は、常識で言えばありえない提案だった。
私は貧民街出身の従者であり、由緒正しい侯爵家の長女を渾名で呼んでいい訳がない。
「それは、流石に……」
「では、二人だけの時だけでも」
笑顔のまま条件を変える彼女に、私は苦笑する。
私は自分に、侯爵家の人間からの命令だから、という苦しい言い訳をしながら頷いた。
侯爵家の人間とお近づきになっておけば、何かあっても便宜を図ってくれるかもしれない。
本当は、彼女と親しくなれることが嬉しかっただけかもしれないけれど。
「ありがとうございます!」
心底嬉しそうに破顔するクスティナに、私も思わず笑顔になる。
何というか、犬みたいな人だ。
勿論、貴族に飼われているような躾の行き届いた犬にだが。
「仲良くなったようですね、二人とも」
クスティナと二人で笑い合っていると、爽やかな顔でレオナが近づいてくる。
私は慌てて立ち上がった。
「申し訳ありません!殿下を放っておいてお喋りに興じるなど……!」
「いえ、気にしていませんよ」
物凄く面白い状況だな、と思っているであろうレオナは快く許してくれる。
しかし、私の脳内には鬼教師の凄まじい恐怖の笑顔が浮かんでいた。
従者が主よりも早く、訓練で起動不能になっていてはどうするのですかという声さえ再生される。
私は一人、冷や汗を流した。
そんな私とは反対に、レオナは運動による気持ちのいい汗をかいている。
はっと私は、急いで彼女に手ぬぐいを渡した。
レオナは礼を言ってそれを受け取ると、顔の汗を拭き取る。
よく水を吸う上質な亜麻製の手ぬぐいに、次々と汗が吸い込まれていった。
「リヴィアはこれから、私のお供として毎日のようにここへ来ることになります。是非、仲良くしてやって下さい」
「はっ。御心のままに」
レオナが、ずっと礼の姿勢を取っていたクスティナに話しかける。
クスティナは光栄そうに返事をしていた。
いつも顔を合わせていても、緊張するものは緊張するらしい。
私があまりレオナに対して緊張しないのは、普段の雑なレオナを知っているからこそかもしれない。
もしそう感じさせようとレオナが意図的に行動しているのだとしたら、彼女は相当に策士だ。
というか、さらっと私がこれからも訓練に参加することが決まってしまった。
私は、敵わないなと首の後ろを搔いた。
***
「レオナの、その人間離れした動きの理由がようやく分かってきました」
「そうか?」
レオナの執務室に戻った私は、休憩中のレオナに話しかける。
すっかり口調の戻ったレオナは、楽し気な光を瞳に浮かべ、こちらを見てきた。
ちなみに、私が彼女のことをレオナと呼んでいるのは彼女の命令だ。
レオナと私、ユリアとフィデナとその他の信用できる近衛兵だけの時にはそう呼んで欲しいと。
どこかで聞いたような命令だが、王女の命には逆らえない。
ということで私は彼女を呼び捨てにしている。
お偉い人達は呼び捨てで呼ばれるのが好きなのだろうか。
まあいいか、と私は諦めている。
ちなみに、私の方から事務連絡でもなくレオナに話しかけているのも、彼女の指示だった。
「私はあの騎士団との訓練の他に、諜報部の訓練も受けていたことがあるからな。その影響は大きいかもしれない」
「一体貴方は何者なんですか」
「グラディア王国第一王女だよ」
私が呆れて聞くと、レオナは分かり切った返事をくれる。
騎士団では木を登ったり壁を登る訓練もするのかと思っていたが、違うらしい。
諜報部の訓練を受けていたとは、本当に規格外な王女様だ。
他の王族について詳しいわけではないが、全員が全員こうではないことだけは分かる。
もしかしてこの、あっけらかんとした王女にも何か暗い過去があったりするのだろうか。
というか、あの城壁を登る訓練を受けている諜報部って何者なんだ。
私はこの国に対して、若干の呆れと恐れを抱いた。
「とにかく、お前が騎士団の人間と仲良くなれてよかったよ。少し心配もしてたからさ」
―——本当に、唐突な人だ。
つい先ほどまで悪戯っ子のように笑っていたレオナが、優しい瞳でこちらを見ていた。
彼女は心の底から安心して、喜んでいる。
あまりにもころころと変わり過ぎる彼女には、こちらの感情の整理が間に合わない。
もしかして何か洗脳されているのではないかと疑ってしまうほどだ。
でも、この人になら洗脳されてもいいかもしれない。
「……ご心配、ありがとうございます」
「私にはお前を連れてきてしまった責任があるからな。心配はする。……それに、お前は私の庇護下にはあるが、今後は私以外の居場所も必要になるはずだ。無理する必要はないが、騎士団の他の奴らとも交流するといい。身分のことで差別されるようであれば、遠慮なく言ってくれ。」
「……はい」
私がこの城に来てから一週間と少ししか経っていないのが信じられない。
「よし、そろそろメディクスが来る時間だ。やはり父上達とは違い、執務室で食事ができる関係は楽でありがたいな」
「……弟君と、仲がよろしいのですね」
「ああ、あいつはなかなか癖が強いぞ。楽しみにしておけ」
私はそう感じるほどに、レオナの行く先を見てみたいと思ってしまっていた。
この時代、犬は人々の生活にがっつり関係していました。
貴族の狩猟犬や小型の愛玩犬だったり、騎士も飼っていることがあったそうです。
庶民も家畜の番や鼠退治の為に飼っていることがありました。




