第二十七話 音音の音
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【――終わりは、
いつも静かな顔をしています。
けれど本当は、
始まりの音を隠しているだけです。】
大奥の夜は、息を潜めていた。
灯りは低く、
障子の向こうで風が止まり、
遠い江戸のざわめきさえ、壁の厚みの中で薄まっている。
市松は、綾女の手を握ったまま、
まだ離せずにいた。
鈴の余韻が、畳の目に沈み、
沈んだ音が、また胸へ戻ってくる。
そこに――
もう一度。
ちりん、と。
鈴が鳴った。
今度は、
音が「鳴った」のではない。
音が「開いた」。
綾女の目が見開かれる。
市松の喉が、声になる前に詰まる。
部屋の空気が、すう、と引き伸ばされて――
次の瞬間。
江戸の夜が、
二人の前に現れた。
⸻
炎の匂いの音。
木が割れる音。
人が走る音。
叫び声が夜を裂く音。
倉の中。
煙が低くたまっている。
火の息が板を舐め、
熱が皮膚の表に押し出してくる。
息を吸えば焼ける。
目を開ければ涙が出る。
それでも――
音音は、叫ばない。
叫ぶかわりに、聞いていた。
火が走る速さ。
風が押す方向。
外の足音の数。
鍵をかけた者が去る歩幅。
(……高い)
視界の上。
倉の壁の、はるか上。
小さな高窓。
そこだけ、煙が薄い音がする。
夜の外気が細く差し込む音。
音音は、棚を蹴った。
箱を踏み、
縄をつかみ、
爪が木を削る音を一度だけ出して――
高窓へ。
腕を伸ばし、
肩が擦れ、
膝が引っかかる。
痛みの音が鳴る。
でも、止まらない。
音音は、外へ抜けた。
夜の江戸。
炎に照らされた町。
空が赤い。
道を挟んで反対側には――
常盤座。
芝居小屋は、暗い。
火の赤に染まりきれず、
黒く残っている。
(……ここなら)
音音は、走った。
草履が石を打つ。
息が鳴る。
煙が喉に刺さる。
常盤座の戸を押す。
ぎ、と木が鳴る。
中へ転がり込むと、
芝居小屋の空気が、外より少しだけ冷たい音を奏でる。
客席。
舞台。
柱。
そして――あの柱の裏。
夜の記憶が、同じ高さで重なる。
押す。
開く。
音が消える。
隠し扉。
音音は迷わず入る。
階段。
湿り。
闇。
火の音が、急に遠ざかる。
降りる。
降りるほど、町の叫びが薄くなる。
地下通路。
そこには、静けさがあった。
静けさが、古い息をしている。
音音は走った。
壁が近い。
天井が低い。
湿った音がまとわりつく。
川の音が近づく。
水の返りの音が、地下に滲む。
最後の階段。
上。
そして――
川向こうの倉庫へ。
暗い。
外は燃える音。
けれどここは、火の舌が届ききっていない。
音音は、倉庫の影へ滑り込んだ。
息を殺し、
耳を澄ませる。
追う足音。
探す足音。
狐面の気配――ではない。
もっと静かな、役目の足音。
(……来ない)
それでも、音音は立ち上がらない。
立ち上がれば、
命が鳴る。
だから――
音音は、消えるように動き、
その夜の江戸から姿を消した。
火の光の届かないところへ。
声の届かないところへ。
それでも。
鈴だけは、
鳴ることをやめなかった。
⸻
景色が、すう、と引いていく。
大奥の部屋に、灯りが戻る。
畳の匂いが戻る。
呼吸の音が戻る。
市松は、しばらく息ができなかった。
涙が落ちる音だけが、先に出た。
「……生きてる」
言葉は小さい。
けれど、部屋いっぱいに届く強さがあった。
綾女の肩が震える。
震えは、崩れではない。
母が、ずっと抱えてきた重い音が、
いま初めてほどける震えだ。
「……音音」
綾女は、声を押し殺そうとして、できなかった。
涙は音を持つ。
堪えたぶんだけ、深く鳴る。
「生きてるのね……あの子……」
市松の喉が鳴った。
嬉しさと、悔しさと、
悔恨が一度に混ざって、
胸の中でひとつの波になる。
篝が、唇を噛んだ。
噛む音が、痛い。
「……にひひひひ、って……」
篝は、笑いに見せようとして、声が震えた。
「あの子……生きてるなら……」
言葉が続かない。
朔之介は、顔を伏せたまま、
拳を握りしめていた。
刀を握る手の形。
けれど今握っているのは、怒りではない。
守れなかった音と、
守れるかもしれない音。
その二つが、同じ手の中でぶつかっている。
市松は、鈴を握り直した。
冷たい金属が、今は温かい。
「……音音は、どこかで生きてる」
市松は言った。
「命を狙われてると分かったから、隠れたんだ」
綾女が頷く。
その頷きは、母の決意の音だった。
「ええ……きっと」
市松は、綾女の手を見た。
この手が鳴らせば、届く。
もう片道じゃない。
「探しましょう」
市松の声が、少し強くなる。
「今度は……間に合う」
綾女は、ゆっくり息を吸って――
そして、頷いた。
「……一族の男の役目を果たしなさい、と言ったのはあなたのお父上ね」
市松は、涙のまま笑った。
「はい」
綾女の目に、光が宿る。
「なら、わたしも母の役目を果たします」
⸻
夜が明けかけていた。
大奥の庭先。
まだ冷たい空気。
けれど、どこかで鳥が一羽鳴いた。
江戸の朝は、
いつもより静かだった。
大火の爪痕は、まだ町に残り、
焼けた木の匂いが、川風に混じっている。
それでも、川は流れている。
水面は、昨日のことを知らないふりをして、
淡い光を細かく揺らして返す。
行き交う舟の櫂が、
水を切る。
その音は、
戦でも、火でもない。
ただ、暮らしの音。
市松は、川向こうの屋根の列を見た。
黒く焦げた家並みの向こうに、
新しい板を運ぶ人の影がある。
壊れた町が、
もう一度、立ち上がろうとしている。
――江戸は、そういう町だ。
焼けても、
また音を並べ直す。
ひとの息。
木の軋み。
釘が沈む音。
新しい暮らしの準備の音。
その中に、
ひとつだけ、見えない音がある。
音音。
姿は見えない。
けれど、音は消えない。
市松は、鈴を握り、
胸の奥でそっと誓った。
(……待ってて)
(……今度は、守る)
朝の光が、川面に筋を引く。
その筋は、
道に見えた。
水の上の道。
音の道。
江戸の空は、
薄い藍から、淡い金へ変わっていく。
火の赤ではない、
生きるための朝の色。
鈴が、最後にもう一度だけ、
ちりん、と鳴った。
それは、別れではなく――
合図だった。
【――火は、
真実まで焼き尽くしたわけではありません。
灰の下には、
まだ名を持たぬ痕跡が残り、
沈黙の奥で、音だけが続いています。
消えた少女は、
どこに消えたのか。
断たれたはずの血は、
どこへ流れたのか。
そして――
すべてを見下ろす影は、
いまも静かに動いています。
終わったはずの夜は、
形を変え、
次の謎として目を覚ましました。
江戸の朝は、光ではなく――
さらなる闇の、入口です。】
――第二幕 巫女編・完
ここまで音音の物語にお付き合いいただき、本当に有難うございました!
第二幕が無事終わり、音音の物語もひと段落ついたので、一旦、ここで休憩を取りたいと思います。第三幕は今のところ未定です。
宜しければ、ブクマ/★で応援いただけると第三幕の励みになります。




