第二十六話 届かない音、届く音
【――後悔は、
音になりません。
だから人は、
同じ場所で、
何度も立ち止まります。】
大奥の静けさは、
夜になっても変わらなかった。
灯りは柔らかい。
風は入らない。
外の江戸の気配は、
厚い壁の向こうで沈んでいる。
市松は、畳の上に座ったまま、
動けずにいた。
胸の奥だけが、
止まらず鳴っている。
(……遅かった)
その言葉が、
何度も同じ場所を回る。
音音は、もういない。
一年前に、消えた。
それなのに――
自分は、
今になってここにいる。
拳を握る。
力が入らない。
悔しさは、
音にならない。
ただ、
胸の奥で重く沈むだけだ。
(……鈴)
市松は、懐から印の鈴を取り出した。
小さな鈴。
冷たい金属。
けれど――
確かに、
ここまで導いたもの。
「どうして……」
声が、かすれる。
「どうして、
俺にだけ――
音音の音が届いたんだ」
問いは、
誰にも届かない。
畳は沈黙し、
灯りも揺れない。
そのときだった。
――ちりん。
鈴が、
ひとりでに鳴った。
市松の指は、
まだ触れていない。
それでも、鳴った。
胸の奥が、
強く引かれる。
(……来る)
次の瞬間――
音が、
流れ込んだ。
⸻
夜。
戸が早く閉まる町。
乾いた笑い声。
花叢座の裏手。
結び直す衣の紐。
幽霊。
月白菫。
片桐右京。
無口な侍。
濡れた金属。
川。
怖さを隠す音。
覚悟の音。
小袋。
銀の簪。
乾かない血。
脅し。
守ろうとした嘘。
戻ってきた月。
切られた夜。
十字傷。
狐面。
命令。
老中。
松平宗景。
つながる影。
消えない名前。
――篝。
友。
にひひひひ。
……静かな残響。
⸻
音は、
そこで途切れた。
市松は、
息を吸えなかった。
胸が痛い。
苦しい。
それでも――
(……生きてる)
消えたはずの音が、
まだ届く。
涙が、
遅れて落ちた。
「……音音」
呼んでも、
返事はない。
それでも、
確かに今――
そこに、
いた。
綾女が、
静かに市松を見ていた。
「……届いたのね」
市松は、
震えながら頷く。
「はい……
今も、届きます」
綾女の目が、
わずかに揺れた。
悲しみではない。
驚きでもない。
――希望に近い揺れ。
「理由が、あるはずね」
市松は、
鈴を握りしめた。
指先が白くなる。
「俺ひとりじゃ……
何も届かなかった」
これまで何度も、
鈴を鳴らした。
けれど――
音音へは、
何も返せなかった。
届くのは、
いつも自分だけ。
片道の音。
それでも今、
はっきり分かる。
(……足りない)
何かが、
決定的に足りない。
市松は、
顔を上げた。
「綾女さま」
「……なに」
「力を、貸してください」
部屋の空気が、
わずかに止まる。
「俺ひとりじゃ、
届かない」
「でも――
音の巫女の力があれば」
市松の声が、
震えながらも続く。
「音音に……
届くかもしれない」
綾女の瞳が、
大きく揺れた。
母の揺れ方だった。
「……届くと、思うの?」
「分かりません」
市松は、
正直に言った。
「でも――
今も音が届く理由が、
きっとある」
「なら、
やらない理由はありません」
沈黙。
長い。
けれど、冷たくない沈黙。
綾女は、
ゆっくり息を吸った。
その呼吸は――
覚悟の音だった。
「……いいでしょう」
市松の胸が、
強く鳴る。
「わたしは、
母ですから」
その言葉は、
静かで、
何より強かった。
⸻
二人は、
向かい合って座った。
灯りは低い。
夜は深い。
市松は、
震える手を差し出す。
綾女が、
その手を取った。
触れた瞬間――
音が、
変わった。
静けさの奥に、
もう一つの響きが生まれる。
深い。
遠い。
けれど――
確かに、
同じ高さの音。
血の音。
巫女の音。
母の音。
綾女が、
もう片方の手で鈴を包む。
そして――
鳴らした。
ちりん。
小さな音。
けれど今度は、
広がり方が違う。
波紋のように。
闇の奥へ。
時間の向こうへ。
市松の胸が、
一瞬、無音になる。
次の瞬間――
届いた。
言葉ではない。
声でもない。
ただ――
いる、
という感覚。
遠い。
暗い。
けれど確かに。
そこに。
市松と綾女、
二人の呼吸が重なる。
涙が、
同時に落ちた。
「……届いた」
市松が、
かすれた声で言う。
「ええ……」
綾女も、
同じ震えで頷いた。
母は、
感じ取っていた。
消えていない音を。
まだ、
終わっていない命を。
鈴の余韻が、
静かに部屋を満たす。
その余韻は――
もう、片道ではなかった。
【――音は、
消えません。
届かないだけです。
けれど、
ふたつの音が重なったとき――
止まっていた道は、
もう一度、
動き出します。】




