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第二十五話 鳥籠の鈴

【――大奥は、

 声を閉じ込める場所です。


 けれど、

 閉じ込めた声ほど、

 よく響きます。】


 門が閉まる音は、

 町の木戸とは違った。


 重い。

 音が、深い。


 閉まった瞬間、

 外の江戸が――遠ざかった。


 市松は、思わず息を止めた。

 篝も、言葉を落とす。


 ここは江戸城。

 その奥。

 女だけの世界。


 大奥。


 畳の匂いがする。

 香の匂いがする。

 磨かれた木の匂いがする。


 どれも上等なのに、

 どれも息苦しい。


(……音が、少ない)


 少ないというより、

 余計な音が消されている。


 足音は柔らかい。

 衣擦れは薄い。

 襖が動いても、鳴らない。


 静かに作られた静けさ。


 それが、

 市松には――鳥籠の内側の音に聞こえた。


 案内する女中が、

 声を抑えて言う。


「こちらへ」


 朔之介は、前を歩く。

 いつもの芝居小屋の背中ではない。

 ここでは背中が、役目の形になっている。


 廊下は長い。

 曲がる。

 また曲がる。


 障子の向こうに、

 別の障子。

 さらに向こうに、

 もっと深い影。


 市松は、懐の鈴に触れた。


 印の鈴。


 冷たさが、指に残る。


(……音音)


 呼びたい名を、胸でだけ呼ぶ。


 そのとき、朔之介が足を止めた。


「――ここだ」


 障子が、音もなく開いた。


 部屋の中に、ひとり。


 女が座っていた。


 白い肌。

 墨のように黒い髪。

 背筋は細いのに、折れていない。


 目だけが、静かに強い。


 その強さは、

 怒りではなく――決まりの強さだった。


 市松は、理由もなく膝をつきそうになった。

 篝も、息をひとつ飲む。


 女は、二人を見た。


 見た瞬間、

 声が落ちる。


「……その鈴を、持っているのね」


 市松の胸が、鳴った。


 声は柔らかい。

 だが、柔らかいほど刃に近い。


 朔之介が、低く名を告げる。


「この者が、市松。

 京より来た巫女の血筋の男です」


「……そう」


 女は、目を細めた。


 そして、篝を見る。


「あなたは」


 篝が、口を開いた。


「篝です。

 ……江戸で、音音と」


 女の表情が、ほんの少し揺れる。


 女は、静かに名を名乗った。


「わたしは――月白つきしろ 綾女あやめ


 綾女の声は、部屋の隅の闇まで届いた。

 届くのに、鳴らない。


「音音の母です」


 その一言で、

 市松の胸の奥が――崩れそうになる。


 篝が、口元を押さえた。


「……生きて、いらしたの」


 綾女は、笑わなかった。


「生きているのではないわ」

「――ここに、置かれているだけ」


 言葉が淡いのに、

 部屋の空気が重くなる。


 綾女は、ゆっくりと語り始めた。



 月白の一族は、

 代々、特別な女を出した。


 音の巫女。


 五感で感じた些細なものを、

 音として聞き取る女。


 人の嘘。

 空気の歪み。

 隠された気配。

 近づく災い。


 ――それらを、音として拾う。


「わたしたちは、

 国の繁栄を支える道具として生きてきた」


 綾女の声が、少しだけ低くなる。


「飢饉の兆しを、風の鳴りで読む」

「謀反の気配を、笑い声の割れで知る」

「毒を、匂いの裏の音で聞き分ける」


 市松は、息を止めた。


 それは――音音の力そのものだ。


「徳川の世は、長い」

「長い世には、

 見えない危機が、いくつもある」


「その“見えない”を、

 わたしたちの耳が支えてきた」


 綾女は、畳に指を置いた。


 指先が触れた畳が、

 鳴らないふりをする。


「待遇は良い」

「衣も、食も、住まいも」

「この世の女の誰より、整っている」


 そこで、綾女はわずかに笑った。


 笑いは、灯りより冷たい。


「――けれど、自由はない」


 市松の背中に、汗が浮く。


「外へ出ることもできない」

「家を選ぶこともできない」

「子を抱いて歩くこともできない」


 綾女の目が、少し遠くを見る。


「鳥籠よ」

「金で飾られた、鳥籠」


 篝が、きつく唇を噛んだ。


 綾女は続ける。


「そして、命も狙われる」


「……誰に」


 市松が、ようやく声を出す。


 綾女は、答えを名にしなかった。


「徳川を倒したい者たち」

「徳川の繁栄を支える“音”を断ちたい者たち」


 音。


 支える音。


 断つ音。


 部屋の静けさが、

 その言葉の重さを吸い込んでいく。


「江戸や京で、

 印を持つ女ばかりが殺されているのは――」


 綾女は、そこで一度息を吐いた。


「“音”を断つためよ」


 市松の胸が、強く鳴る。


 だから、狙われる。

 だから、殺される。


 あの連続殺人。

 狐面。

 印。


 線が、一本に寄っていく。


 綾女は、視線を落とし、

 言った。


「わたしは、

 ここに閉じ込められたままでも構わなかった」


「……けれど」


 声が、ほんの少しだけ揺れた。


「音音は、違う」


 市松は、息を呑む。

 篝は、目を伏せた。


「音音は、将軍との間に生まれた子」


 その言葉が、

 部屋の空気を変える。


 将軍の子。

 大奥の子。

 そして、音の巫女の血。


「その子が、ここに残れば」

「わたしと同じ運命になる」


 綾女の指先が、畳を押す。


「一生、鳥籠」

「一生、命を狙われ続ける」


 綾女は、静かに目を閉じた。


「だから――」


 目を開く。


「音音は、死産だったことにした」


 市松が、目を見開く。


 篝が、息を止める。


 綾女は、淡々と続けた。


「江戸城に花叢座(はなむらざ)が公演に来たとき」

「わたしは、一座の長老と親しくなった」


「芝居の人は、

 嘘をつくのが上手い」

「けれど、嘘をつく前に、

 本当の悲しみを知っている」


 綾女の声が、少しだけ柔らかくなる。


「わたしは、その長老に――音音を託した」


 市松は、胸の奥が鳴るのを感じた。


 音音は、

 死んだことにされた。


 だから、花叢座にいた。


 だから、外を歩けた。


 だから、

 音を聞いて、笑えた。


「朔之介」


 綾女が、朔之介を呼ぶ。


 朔之介は、微かに頷いた。


「あなたには、音音のそばにいてもらった」


「看板役者として」

「――そして、家臣として」


 市松の背筋が、冷える。


 朔之介の“二つの顔”。


 芝居の顔。

 黒い覆面の顔。


「守る役目」

「そして……」


 綾女の声が、さらに低くなる。


「巫女の血を狙う者たちを、

 逆に――消す役目」


 篝が、震える声で言う。


「……暗殺」


 綾女は、否定しない。


「それでも足りなかった」

「敵は、ひとりではない」


 綾女の目が、闇を見据える。


「狐面を使う者たちがいる」

「役人を使う者も」

「金を使う者も」

「火を使う者も」


 火。


 市松の胸が、ぎゅ、と縮む。


 一年前の大火事。

 音音が消えた夜。


 綾女は、ゆっくり言った。


「……それでも、音音だけは守りたかった」


 声が、割れそうになるのを

 必死で抑える。


「朔之介が、守ってくれた」

「花叢座の者たちが、包んでくれた」


 綾女は、ほんの一瞬だけ、目を伏せた。


「――でも」


 その一言が、落ちた瞬間、

 部屋の空気が沈んだ。


「音音は、一年前」

「江戸の大火事で――殺された」


 篝が、両手で口元を押さえる。


 市松は、立っていられなかった。

 膝が、畳に落ちる。


 畳が、柔らかく鳴った。


 綾女の目から、涙が落ちた。


 泣き声は出さない。

 大奥の女は、声を奪われている。


 けれど、涙の落ちる音は、

 止められない。


 ぽと。


 ぽと。


 小さな音が、

 部屋の隅まで響いた。


「……わたしが、外へ出したせいで」

「わたしが、守ろうとしたせいで」


 篝が、首を振る。


「違う……」

「綾女さま、それは……」


 綾女は、ただ泣いた。

 泣き方が、声を殺している。

 それが、余計に痛い。


 朔之介は、頭を下げたまま動かない。

 動けないのではない。

 動けば、自分が壊れるからだ。


 市松は、懐から鈴を出した。


 印の鈴。


 音音が残したもの。


 冷たいのに、

 なぜか温かい。


(……ようやく、繋がった)


 市松の胸の中で、

 ばらばらだった音が、

 一本の道になっていく。


 徳川家。


 音の巫女の力を利用してきた政権。


 その政権に敵対し、

 音を断とうとする権力者たち。


 狐面を使って、

 印を持つ女を狙う者たち。


 そして――

 黒い覆面たち。


 巫女の血を守りながら、

 敵を消してきた影。


 朔之介は、その一味。

 音音を側で見守ってきた。


 だから――

 あの夜、倉庫で助けた。


 だから――

 振り返らなかった。


 守る者は、

 名を持てない。


 綾女は、涙を拭い、

 市松を見た。


 目に、命令はない。

 あるのは、願いだけ。


「市松」


 名を呼ぶ声が、

 鈴みたいに細く鳴った。


「あなたは、鈴を持っている」

「それは偶然じゃない」


 市松は、頷いた。

 言葉より先に、頷きが落ちる。


「……音音の音が、届いていた」


「はい」


 市松は、鈴を握りしめた。


「届いて、

 ここまで来ました」


 綾女は、ほんの少しだけ目を閉じた。

 その閉じ方が、祈りだった。


「お願い」


「音音の代わりに」

「巫女の血の女たちを」


 市松の胸が、熱くなる。


 篝も、前へ出た。


「……あたしも」

「音音のために、やる」


 朔之介が、ようやく顔を上げた。

 その目は、闇の目だった。

 でも、闇の奥に、灯りが残っている。


「……これで、いい」

「繋がったなら、次は――動ける」


 綾女は、最後に言った。


「敵は、ひとりじゃない」

「名を急いで束ねないで」


「束ねれば、

 見えない者が、逃げる」


 市松は、深く頷いた。


「はい」


 市松は、印の鈴を胸に押し当てた。


 冷たい金属の芯が、

 自分の鼓動に重なる。


【遠く、江戸の町が鳴っています。


灰の上を歩く音。

 夜へ向かう音。


 そして、

 その底で――


 見えない敵の音が、

 静かに動いていました。】

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