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第二十三話 火の旋律

【――これは、

市松が京都から江戸へ来る、

一年前の夜のこと。


まだ、

誰もその名を知らず。

まだ、

すべては静かに、

動き始めたばかりの夜でした。】


 夜の部屋は、薄い灯りの下で静かだった。


 板の間の冷え。

 畳の縁の擦れ。

 遠くで犬が一度だけ鳴いて、すぐ黙る。


 静けさの中に、今日の音が、まだ沈まず残っている。


 細工師、久蔵の笑い。

 「知らねえな」と言いながら、喉の奥で揺れた震え。

 刃物の匂いの音。

 弟子が息を止めた、あの沈黙。


 音音は、布団に入る前に、手を膝に置き、目を閉じた。


(……集まってる)


 ひとつひとつは小さい。

 拾わなければ、消えてしまう程度の音。


 けれど、それが、今日は違う。


 板の上で、同じ糸に通されているように――

 同じ高さへ寄っていく。


 隠し扉の「鳴らない」音。

 地下の湿り。

 薬瓶の触れ。

 川向こうの倉の匂い。


 それらの底に、同じ手触りがある。


(……旋律に、なりかけてる)


 音音は懐から、小さな鈴を取り出した。


 印のついた鈴。


 指先で、そっと撫でる。

 金属は冷たい。

 冷たさの奥に、芯の硬い音が眠っている。


 音音は、鈴を鳴らした。


 ちりん、と。


 その一音は大きくない。

 けれど、部屋の隅の闇まで、きちんと届く。


(……届いた)


 ――そういう鳴り方だった。


 音音は、鳴らすことで「置く」。

 今日という日の音を、ひとつの形にして。


 鈴の余韻が消えるころ、

 胸の奥の旋律も、いったん静かになった。


 音音は、布団へ身を沈める。


 まぶたが落ちかけた、そのときだった。


 かすかな音。


 風の音ではない。

 雨の音でもない。


 紙が、擦れる音。


 そして――回る音。


(……風車)


 音音は起き上がった。


 花叢座の奥は暗い。

 役者も裏方も、もう寝息の音を揃えている。


 音音は、足音を立てないように廊下を渡った。

 畳の縁を踏まない。

 板の継ぎ目を避ける。


 裏口へ回る。


 木戸の前。


 柱の影。

 竹の節。


 そこに。


 一本。


 赤い紙風車が刺してあった。


 子どもの玩具のように小さく、安っぽい。

 けれど、夜の風を受けて、くるり、と一度だけ回る。


 その回り方は、朝よりも薄く見えた。

 光がないからではない。


 いつもと違う音が、混じっている。


(……夜に刺すなんて、珍しい)


 いつもは朝。

 町が動き始める前。

 人の目が少ない時間。


 それが、今日は――夜。


(……急ぎ?)


 迷いはなかった。

 体が先に、動いた。


 音音は、懐に風車を収め、静かに草履へ足を入れた。


 そのとき、背後で板が小さく鳴った。


「……音音?」


 振り向くと、弥吉が寝巻きのまま、目をこすりながら立っていた。

 まだ半分、夢の中の顔だ。


「どこ行くんだ、こんな夜に」


 心配の音が、声の奥に混じっている。


 音音は一瞬だけ考えて――

 にこりと、どうでもよさそうに笑った。


「……おなかが、すいた」


「は?」


「夜中の団子は、昼より三倍おいしい」


 弥吉は、しばらく黙ってから言った。


「そんな理由で出るやつがあるか。待て、俺も行く」


 くるりと背を向け、着替えを探し始める。

 布の擦れる音が、急に慌ただしくなる。


 その隙に。


 音音は、音を立てずに木戸を抜けた。


 外の夜気が、ひやりと頬に触れる。


(……ごめん)


 胸の奥でだけ、小さくつぶやいて――


 音音は、外へ出た。



 夜の江戸は、昼とは違う顔をしていた。


 行灯の光が、道の端を細く切り取る。

 屋台の火はもう少ない。

 遅い客を送る下駄の音が、ぽつぽつと残っている。


 川沿いへ向かう道は、暗い。

 暗いほど、音がよく聞こえる。


 戸が閉まる音。

 犬の首輪が擦れる音。

 遠い笑い声が、ふっと途切れる音。


 川の匂いが近づくと、空気がひやりとする。

 舟の腹が、きい、と軋む。

 (かじ)が水を切る。

 水面が、小さく笑う。


 祠。


 欠けた鈴がぶら下がり、古い縄が一筋垂れている。


 いつもなら、ここに――人影がある。


 けれど今夜は、いない。


 祠の影は、ただの影だった。


(……商い)


 音音は、祠の前に立ち、耳を澄ませた。


 川面の返り。

 遠くの橋の足音。

 風が草を撫でる音。


 それらの中に、異国の商いの音がない。


 あの男は、音が少ない。

 けれど、少ないからこそ分かる。


 いないときは、いない音がする。


 音音は、川越しに夜の町を見た。


 屋根の黒。

 行灯の列。

 低い空。


 江戸は夜でも生きている。

 息をしている。


 その息の中に、今夜は何かの音が混じっていた。


(……何かあった?)


 音音は、祠に背を向けた。


 待つのは嫌いではない。

 けれど、今夜の風車は、待てと言っていない。


 音音は、町中にある商いの倉へ向かった。


 表通りではない。

 板塀の裏を抜ける小道。

 灯りの少ない道。


 足音を小さくするほど、胸の奥が鳴る。


 鈴の芯の音が、じん、と硬くなる。



 倉は、町人地の外れにあった。


 表から見れば、ただの倉。

 木の扉。

 古い縄。

 鍵。


 いつもなら、扉はきっちり閉まっている。

 鍵の音が、ここは閉じていると告げる。


 だが今夜は――


(……開いてる)


 鍵が、かかっていない。


 扉の隙間から、冷えた空気が漏れていた。


 音音は、一度だけ周りを見た。

 人影はない。

 猫の鳴き声もない。


 音音は、息を置いてから、扉に指をかけた。


 木が、わずかに鳴る。


 中へ入ると、倉の空気が肌に触れた。


 ひやり。

 乾いた匂い。

 麻袋の匂い。

 縄の匂い。


 棚には、箱。

 (かめ)

 布包み。


 異国の布。

 乾物。

 香料。


 いつも通りの倉――に見える。


 けれど、音が違う。


 音が、整いすぎている。


(……誰かが、触った)


 そして。


 人の気配がないのに、

 誰かが「いる」音がする。


 息を止めた音。

 動かない音。


 音音は、奥へ一歩踏み出した。


 その瞬間だった。


 ――バタン!


 倉の扉が、外から閉められた。


 木が打ち合う、硬い音。

 続いて、鉄が鳴る音。


 鍵。


 外から、鍵をかけた音。


 音音は振り向いた。


 扉の隙間は消え、外の光が途切れている。

 倉は、ひとつの箱になった。


(……閉じ込められた)


 息が、ひとつ胸に引っかかる。


 けれど、叫ばない。


 叫ぶ音は、ここでは無駄だ。


 音音は、耳を澄ませた。


 外。


 足音が遠ざかる。


 軽い。

 逃げる足音ではない。


 仕事を終えた足音。


 その足音が、角を曲がった瞬間――


 別の音がした。


 火打石。


 カチ、と。

 乾いた、短い音。


 次に、紙が燃える音。


 ぱり、と。


 そして。


 油が、火を抱く音。


 ふっと、空気が変わった。


 匂い。


 焦げの匂いの音が、倉の中へ押し込まれてくる。


(……火)


 倉の外側で、火が走り始めた。


 木は乾いている。

 縄も乾いている。

 倉は、火のために作られた箱みたいに、乾いている。


 風が、今夜は強い。


 倉の隙間から、火の息が入り込む。


 ぱち、ぱち、と。


 小さな火の粉が、板の隅に落ちた。


 落ちた瞬間、木が吸い込む。


 吸い込んで、抱える。


 そして、赤い舌が、ふっと伸びる。


 火が、倉の中に咲いた。



 炎は、音を持っていた。


 ぱちぱちと弾ける音。

 木が割れる音。

 縄が縮む音。

 紙がほどけて消える音。


 倉は、一度燃え始めると早い。


 火は上へ走る。

 上へ走りながら、下へ影を落とす。


 煙が、低くたまる。


 息を吸うと、喉が焼けるような匂いの音がする。


 倉の中の空気は、みるみる乾き、熱くなる。


 外では、風が鳴った。


 強い風。

 火の粉を抱き上げる風。


 倉の隙間から飛び出した火の粉は、

 夜の江戸へ、ばらまかれていく。


 ひとつの火が、ふたつになる。

 ふたつが、四つになる。


 屋根の上に落ちた火の粉が、(わら)を舐める。


 藁は、待っていたみたいに燃える。


 最初は小さい。

 けれど江戸の家は、寄り添っている。


 隣の家へ、火が移るのに、距離は要らない。


 風が橋を渡る。

 火も一緒に渡る。


 川は、火を止めない。

 川面の上を、火の粉は飛ぶ。


 夜の町が、一箇所ずつ赤くなる。


 行灯の火とは違う赤。


 人の声が上がった。


「火事だ!」


 叫び声が、町を切り裂く。


 戸が開く音。

 桶が倒れる音。

 走る足音。

 赤子の泣き声。


 犬が吠える音。

 馬が暴れる音。


 夜の江戸の音が、一斉にひっくり返った。



 火は、速さを持っている。


 速いのに、乱れていない。


 ただ、食べる。


 木を食べる。

 布を食べる。

 油を食べる。

 息を食べる。


 火は、町の呼吸を奪いながら進む。


 火の前では、誰も同じ音を出せない。


 人は叫ぶ。

 人は泣く。

 人は怒鳴る。

 人は笑うように叫ぶ。


 混ざり合った声は、恐怖の音になる。


 火消しが駆けてくる音がした。


 鳶口(とびぐち)の金属。

 梯子(はしご)の軋み。

 (まとい)が風を切る音。


 「纏、纏だ!」


 町の者が、それを見て一瞬だけ息を吐く。


 けれど、風が強い。


 火の粉は纏の上も飛ぶ。


 桶の水が撒かれる。

 水が蒸気になる。


 じゅう、と鳴って、消える。

 消えたと思った場所で、また燃える。


 火は、夜通し町をなぞる。


 屋根が落ちる音。

 柱が折れる音。

 壁が倒れる音。


 火の中で、家が家ではなくなる。


 火の明るさは、昼より明るい。


 夜が、夜でなくなる。


 空が赤い。

 雲が赤い。

 川面が赤い。


 赤いものしか残らない。



 時刻がどれほど流れたのか、分からない。


 江戸の夜は、火によって引き伸ばされる。


 燃える家の影が、別の家へ伸びる。

 その影が、次の炎を呼ぶ。


 人は荷を抱える。

 泣きながら走る。

 転ぶ。

 立ち上がる。

 また走る。


 火消しは屋根を壊す。

 延焼を止めるために、家を壊す。


 壊れる音が、燃える音に混ざる。


 助けの声。

 怒号。

 祈り。


 江戸の音が、ひとつの渦になって、夜の空へ昇っていく。


 火は、渦を食べながら燃える。


 強い風が、火を煽る。


 火の粉が、夜の空に舞う。


 雪のように。

 けれど、それは冷たくない。


 落ちたところから、また赤くなる。



 やがて、空が白み始めた。


 朝の白み。

 けれど、朝の匂いではない。


 煙の匂い。

 焦げの匂い。

 濡れた灰の匂い。


 火消したちは、夜が明けても動く。

 声は枯れ、足は重い。

 それでも桶を運ぶ。

 鳶口を握る。


 火は、ようやく弱くなる。


 弱くなるが、死なない。


 赤い舌が、あちこちでまだ瞬く。


 けれど、夜明けの空気は冷たい。


 冷たい空気が、火の息を少しずつ削っていく。


 最後に残るのは、炭の音。


 ぱち、と小さく弾けて――

 しん、と静かになる。


 朝方。


 ようやく、消火に至った。


 江戸の町は、黒い骨だけを残していた。


 屋根のない家。

 折れた柱。

 炭になった梁。


 人の足音が、灰を踏む音がする。


 それは、いつもの江戸の足音ではない。


 灰の上を歩く音は、軽いのに重い。


 何もないのに、胸に刺さる音。


 やがて人々は、この夜を、ひとつの名で呼ぶことになる。


 江戸の大火事。


 そう呼ばれる大惨事だった。


【――燃えたのは、

家だけではありません。


夜が、

町そのものが、

ひとつの音になって、

空へ消えていきました。


そして――

音音もまた、

あの夜の中へ――】

物語はついにクライマックスへ。

もう少しお付き合いください。

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