第二十二話 届かなかった音
【――海の上では、
過去も未来も、
同じ揺れ方をします。
だから人は、
揺れの中でだけ、
本当の名を知るのかもしれません。】
船は、静かに進んでいた。
帆が風を受ける音。
木の軋む低い響き。
水を割る、ゆるやかな律動。
どれも大きくはない。
けれど、陸にはない揺れが、
足元から胸の奥へ、ゆっくりと伝わってくる。
江戸は、もう遠くない。
船頭の声が、先ほどから少しだけ高い。
水の匂いも、変わり始めている。
潮の重さの奥に、
町の気配が、わずかに混じっていた。
市松は、船縁に立っていた。
風は冷たい。
けれど、その冷たさは嫌ではない。
(……もうすぐ)
胸の奥で、
長く張りつめていた糸が、
少しだけ震える。
市松は、懐へ手を入れた。
指先に触れたのは――
小さな鈴。
印の鈴。
掌に乗せると、
金属の冷たさが、静かに伝わる。
光を受けて、
鈴は、わずかに揺れた。
(……音音)
名を呼ばなくても、
胸の奥では、
その名だけが、何度も響いていた。
そのときだった。
「……その鈴」
背後から、声がした。
やわらかいのに、
芯のある声。
市松は、振り返った。
そこに立っていたのは――
篝だった。
旅装のまま。
けれど、立っているだけで、
周囲の空気が整う。
花街の華やかさとは違う。
静かな光だけを残した姿。
市松は、言葉を失った。
「……どうして」
篝は、鈴を見つめていた。
「やっぱり」
小さく、息を吐く。
「その印、
あんたのとこに行ったんだね」
市松の胸が、強く鳴った。
「知っているんですか、この鈴を」
篝は、ゆっくり頷いた。
「ええ。
だって――」
一拍。
「それを京都へ運んだのは、
あたしだから」
風の音が、
一瞬だけ遠のいた。
市松は、息を止めた。
「……運んだ?」
「そう」
篝の目は、
遠い夜を見ていた。
「親友に、頼まれたの」
「もし自分に何かあったら、
この鈴を、
京都にある“この印の家”へ届けてほしいって」
市松の指が、
鈴を強く握る。
「……それで」
「約束通り探して、
お婆ちゃんに渡した」
静かな声だった。
けれど、その奥に、
消えない時間があった。
市松は、
ゆっくり口を開いた。
「……その親友は、
誰なんですか」
篝は、迷わなかった。
「音音」
世界が、止まった。
波の音も、
帆の音も、
何も聞こえない。
ただ、
その名だけが、
胸の奥で崩れた。
「……どうして」
声が、うまく出ない。
「どうして、
音音が鈴を手放したんですか」
篝のまなざしが、
わずかに揺れた。
「……気づいてたのよ」
「江戸で、
印を持つ女ばかりが、
殺されていくことに」
市松の視界が、
ゆっくり歪む。
「自分も、
その中に入ってるって」
風が吹いた。
冷たい風。
篝の声は、
さらに静かになった。
「だから言ったの」
「もし、あたしに何かあったら――
鈴を、京都へ」
市松の唇が震える。
「……何かあったら、って」
篝は、
目を閉じた。
そして。
「……一年前、江戸の大火事で」
短い沈黙。
「音音は、死んだ」
言葉は、
波よりも静かに落ちた。
けれど、
市松の中では――
雷みたいに響いた。
息が、
吸えない。
胸が、
動かない。
「……うそだ」
声にならない声。
「うそだ……」
膝から、
力が抜けた。
甲板に、
崩れる。
鈴が、
掌の中で震えた。
「……そんな」
涙が、
止まらない。
「……まだ、
何も……」
声が、
崩れる。
「まだ、
伝えてないのに……」
胸の奥に、
届かなかった言葉が、
あふれてくる。
守ると決めた。
助けに行くと決めた。
今、向かっているのに。
――もう、
いない。
涙が、
甲板へ落ちる。
海の水に混ざって、
どこへ行くのかも分からない。
篝は、
何も言わなかった。
ただ、
隣に立っていた。
慰めの言葉より、
静かな時間のほうが、
必要だと知っている人の立ち方で。
船が、
ゆっくり揺れる。
空が、
少しだけ明るくなる。
やがて――
「江戸だ!」
船頭の声が、
朝の空気を破った。
前方に、
町が見える。
無数の屋根。
白い煙。
川を行き交う船。
大きな、
生きている町。
市松は、
涙で滲む目を上げた。
そこにあるのは、
音音が生きていた場所。
そして――
死んだ場所。
船は、
ゆっくりと岸へ寄っていく。
止まらない水の音。
近づく人の声。
縄の投げられる音。
新しい一歩の、音。
市松は、
震える手で、
鈴を握り直した。
もう、
守る相手はいないのかもしれない。
それでも。
この音が、
ここまで導いた。
ならば――
進むしかない。
船が、
岸に触れた。
小さな衝撃。
けれど、
確かな到着。
市松と篝を乗せた船は、
ついに――
江戸へ着いた。
【――人は、
失ってから、
歩き出します。
それでも歩くのは、
終わりではなく、
続きがあると、
どこかで知っているからです。】




