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第二十一話 音の名

【――名は、

 ときどき、

 音より先に歪みます。


 けれど、

 歪んだ名の奥にも、

 本当の音は残っています。】


 神社の奥座は、昼でも薄暗かった。


 外では祭りの名残が続いている。

 屋台の呼び声。

 子どもの笑い。

 焼けた甘い匂い。


 けれど、ここだけは違う。


 紙の匂い。

 墨の匂い。

 長い年月が、静かに沈んだ空気。


 神主が差し出した古文書は、

 触れれば崩れそうなほど古かった。


 市松と幼馴染の三人――

 お夏、弥之助、凛は、

 息を詰めてそれを覗き込んでいる。


 文字は細く、かすれている。

 けれど、確かにそこにあった。


 巫女の記録。



 最初に声を上げたのは、お夏だった。


「……これ」


 指先が、ある一文字で止まる。


「“死”じゃない」


 市松が顔を上げる。


「どういうことだ」


 お夏は、古文書を少し傾けた。

 光の角度を変える。


「ほら……これ、縦に書いてあるでしょう」


 墨の流れ。

 線の形。

 かすれた払い。


「これ……“音”よ」


 沈黙が落ちた。


 神主の目が、わずかに細くなる。


「……読み違えか」


 神主が低く言う。


 お夏は頷いた。


「昔の文字は、形が似てるの。

 縦書きだと特に……」


「“音”が、

 “立日”に見える」


 弥之助が息を呑む。


 立日。

 命日。

 忌日。


 死を連想する言葉。


「だから……」


 お夏の声が震える。


「“音の巫女”が、

 “死の巫女”として伝わったのよ」


 誰も、すぐには言葉を返せなかった。


 長い年月。

 口伝。

 文字。

 解釈。


 そのすべてが、

 少しずつ、音を歪めていった。


【――伝承は、

 正しく残るとは限りません。


 けれど、

 歪み方には、

 必ず理由があります。】


 市松の胸の奥で、

 何かが、静かに繋がった。


 今まで鈴から届いていた音。

 遠く離れた声。

 言葉にならない気配。


 ――音音。


(……あれは)


 ただの不思議ではない。


「音の巫女の力……」


 市松は呟いた。


「五感で感じたものを、

 すべて“音”として聞き取る力……」


 凛が、はっと顔を上げる。


 神主は、ゆっくり頷いた。


「つまり」


「音の巫女は、

 国の歪みを音で知り、

 災いを未然に防いだ」


「ゆえに国は栄えた」


 だが。


 神主の声が、さらに低くなる。


「その力を恐れ、

 妬んだ者たちがいた」


 空気が、冷える。


「巫女は殺され、

 国は滅びた」


 誰も動かない。


 外の祭りの音だけが、

 遠い別の世界のように聞こえる。


「逃げ延びた血は、

 各地へ散った」


「女は“音を聞く力”を継ぎ、

 男は“鈴を通して声を聞く役目”を持った」


 市松の手の中の鈴が、

 わずかに震えた気がした。


(……だから)


 今、起きていること。


 印のある女ばかりが殺される。


 それは――


「巫女の血を、

 消そうとしてる……」


 お夏の声が、かすれる。


 市松の胸が、大きく鳴った。


(……音音が危ない)


 はっきりと、分かる。


 市松は、鈴を握った。


 強く。

 祈るように。


 そして――


 鳴らした。


 ちりん。


 静かな音。


 けれど、音音に届いた感覚はない。


 風の音だけ。

 祭りの残響だけ。

 世界の遠さだけ。


「……なんでだよ」


 市松の声が、初めて揺れた。


 もう一度、鳴らす。


 ちりん。

 ちりん。


(巫女の力は、女にしか宿らない)


(男は、その力を持たない)


 胸の奥が、

 ゆっくり冷えていく。


「届いてよ……」


 小さく呟く。


 それでも。


 音は、届かなかった。


市松は、鈴を握ったまま、長く動かなかった。


 返ってこない音。

 届かない気配。

 閉ざされた、遠い静けさ。


 それでも――

 胸の奥では、別の音が鳴り始めていた。


(……行かないと)


 待つだけでは、もう足りない。

 届かないなら、近づくしかない。


 音音に、伝えなければならない。

 知ったことを。

 迫っている危険を。

 そして――


 守るという、役目を。


 市松は、ゆっくりと顔を上げた。

 その目には、迷いがなかった。



 貴船から家に戻った、夜更け。

 市松は、父の部屋を訪ねた。


 灯りはまだ落ちていない。

 帳面の紙を繰る音が、静かに続いている。


「……父上」


 声をかけると、父は顔を上げた。

 驚きはない。

 来ることを、どこかで分かっていたような目だった。


「どうした、こんな時分に」


 市松は、言葉を選ばなかった。

 胸にあるままを、そのまま話した。


 巫女の伝承。

 音の力。

 狙われる血。

 そして――音音のこと。


 江戸へ行きたい、と。


 言い終えたあと、

 部屋は、しばらく静まり返った。


 父は、何も言わない。

 ただ、市松を見ている。


 やがて――


 ふっと、笑った。


 大きくではない。

 肩の力が抜けるような、静かな笑い。


「……馬鹿を言うと思ったか」


 市松は、息を止めた。


 父は、帳面を閉じた。

 紙の擦れる音が、夜に小さく響く。


「おまえの祖母を、長く見てきた」


「言葉にせずとも、分かることはある」


 市松の胸が、わずかに鳴る。


「不思議な力など、信じぬつもりでいたがな」


「……あれは、嘘ではなかった」


 父は、ゆっくり市松を見た。


「ならば」


 一拍。


「一族の男の役目を、果たしてこい」


 その言葉は、静かだった。

 けれど、重かった。


 市松は、深く頭を下げた。


 声は出なかった。

 出せば、何かがこぼれそうだった。



 夜明け前。

 港には、淡い霧がかかっていた。


 船の影が、水面に揺れている。

 櫂の触れる音が、まだ眠たげに広がる。


 荷を運ぶ人の足音。

 縄を引く音。

 低く交わされる声。


 朝は、すべての音が柔らかい。


 市松は、振り返った。


 関西の港町。

 屋根の重なり。

 白い土壁。

 遠くに霞む山の稜線。


 幼いころから見慣れた景色が、

 朝の光の中で、少しだけ違って見えた。


 ここには、守られてきた時間がある。

 穏やかな日々がある。


 けれど――


 今、向かう先には、音の先がある。



 船が、ゆっくりと岸を離れた。


 水が割れる音。

 縄が解ける音。

 人の声が、少しずつ遠ざかる。


 港の景色が、静かに後ろへ流れていく。


 白い壁が小さくなり、

 屋根の影が重なり、

 やがて、町はひとつの色になる。


 朝日が、水面に細く伸びた。

 その光が、船の跡を金色に縫っていく。


 風はまだ冷たい。

 けれど、東の空は、確かに明るい。


 新しい一日が、始まろうとしている。


 市松は、鈴を握った。


 今度は――

 自分が、行く番だった。


【――音が届かないなら、

 人は、歩き出します。


 それが、

 運命に向かう最初の一歩だと、

 知らなくても。】

物語はついに京都と江戸が出会う最終局面へと向かいます。もう少し"音音の音"にお付き合いください。


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