第十九話 貴船の水、死の巫女
【――山の水は、嘘をつきません。
濁るなら濁った理由があり、
澄むなら澄んだ理由があります。
けれど人の言葉は、澄んだふりをして濁ります。】
洛中を出る朝は、いつもより空が高かった。
市松は店の戸を閉める手つきが、どこかよそよそしい自分に気づいて、腹の底で小さく舌打ちした。
(……閉め方が、ばあさまみたいや)
考えた瞬間、胸が詰まる。
だから、考えないようにした。
表で待っていたのは、幼馴染の三人だった。
お夏は、腰に手を当てて、最初から機嫌がいい顔をしている。
源太は、荷を背負う紐を何度も締め直している。
弥乃は、本を一冊、袖に隠すように持ってきていて、もうそれだけで「置いていかれない気」満々だった。
「ほんまに貴船まで行くんやな」
お夏が言った。
「行く」
市松は短く返す。
「言い方が、奉行所みたいやで」
弥乃が笑う。
「『行く。以上』って顔や」
「顔で言うな」
市松が眉をしかめると、
「ほら、眉毛が先に困っとる」
お夏が即座に指摘して、にやりとした。
「言うなって!」
市松が声を上げると、源太が慌てて周囲を見る。
「おい、でかい声出すな。京は壁が耳や」
「お前が言うな。体が壁やろ」
お夏が切り返す。
「体言うな! 心は繊細や!」
源太が真顔で抗議するから、弥乃が肩を震わせる。
「繊細やのに荷は二人分背負ってるの、矛盾やな」
「これは……」
源太は言い淀み、ちらりと市松を見る。
「市松が変なもん拾うたら、すぐ倒れるやろ思て」
「誰が倒れるか」
市松は言い返しながら、懐にある布包みがひやりとするのを感じた。
鈴だ。
あれ以来、出していない。
けれど、そこにあるだけで、心の温度が変わる。
「で、貴船ってどんなとこや?」
お夏が前を向いたまま言う。
「水の神さんのとこやろ? 水飲んだら色白になるとか」
「それは鴨川でも飲んどけ」
市松が言うと、
「鴨川の水は、人の噂が混じって苦い」
弥乃が真顔で言って、源太が頷く。
「せや。貴船は水が真面目や」
「何を基準に真面目言うてんねん」
お夏が笑う。
四人は、洛中の音が薄れていく道を歩いた。
町の匂いが、商いの匂いから、土と杉の匂いに変わっていく。
川の音が近づく。
空気が冷える。
言葉が少しだけ軽くなる。
(……山は、京ほど口が回らん)
だからこそ、今日は山がありがたかった。
⸻
貴船の里に入る頃には、昼の光が水面に揺れていた。
川は近い。
石にぶつかって砕ける音が、ずっと続いている。
その音の規則正しさが、町の噂話の不規則さを、少しだけ洗ってくれる。
「ここや」
市松が言うと、源太が周囲を見回した。
「えらい静かやな」
「静かなのに、音が多い」
弥乃が言う。
「水と、葉っぱと、風だけで足りてる」
「京は音が多いのに、ほんまの音が少ない」
お夏が言って、珍しく真面目な顔をした。
すぐに顔を戻して、にっと笑う。
「ほな、挨拶しよ。市松の親戚、どんな顔してるか見たい」
「顔で遊ぶな」
「遊ぶで。うちは、顔で生きてる」
お夏は胸を張った。
格子戸の代わりに、木戸。
小さな庭。
水を引いた溝。
乾いた薪の匂い。
市松が戸を叩くと、すぐに中から足音が駆けてきた。
「いっちまつぅ!」
開いた戸から飛び出してきたのは、朔だった。
昔より背が伸びたのに、走り方が子どものままで、勢い余って市松の肩にぶつかりそうになる。
「おい、ぶつかるな!」
市松が身を引くと、
「うわ、避けた!」
朔が笑い、すぐ後ろから声が飛ぶ。
「避けるな市松! 抱き止めろ! 京の男は冷たいぞ!」
凛が奥から出てきた。
髪をきちんと結い、目だけが昔と同じく悪戯っぽい。
「久しぶりやな、凛」
市松が言うと、
「久しぶりやな、眉毛が困る人」
凛が即答して、お夏が腹を抱えた。
「ほら! 言われてる!」
「京都中で共有されてるんか、その情報!」
市松が叫ぶと、源太がまた周囲を見る。
「声!」
「お前が一番うるさいねん!」
お夏がツッコむ。
そこへ、家の奥から、ゆっくりと現れた男がいた。
水尾 清十郎。
ばあさまの弟――市松にとっては叔父だ。
背は高くない。
けれど、立ち方が落ち着いていて、川の流れみたいに無駄がない。
目元が、ばあさまに似ていた。
「来よったか、市松」
清十郎は、笑った。
「よう来たな。――そっちの三人も」
「初めまして!」
源太が妙に丁寧に頭を下げる。
「初めまして! 市松をいつも見張ってます!」
お夏が胸を張る。
「見張らんでええ」
市松が言うと、
「見張らんと何か拾うやろ」
弥乃が淡々と言って、凛が声を出して笑った。
「京の友達、ええなあ」
「ええやろ」
お夏が得意げだ。
清十郎は、四人を家へ通した。
座敷に入ると、外の水音が少し遠のく。
代わりに、湯の匂いがふわりと立った。
「茶、淹れたる」
凛が言いながら、手際よく湯呑みを並べる。
朔は、源太の荷を勝手に持ち上げて「重っ!」と叫び、源太が「だから繊細や言うたやろ!」と反論する。
弥乃は座敷の柱の古い札を見つけて、もう説明を求める顔になっている。
市松は、その賑やかさに、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった。
(……ばあさまの家にも、こんな音が戻ったらええのに)
思ってしまって、すぐに飲み込んだ。
清十郎が茶を置き、ゆっくり座る。
「で、何しに来た」
直球だった。
京の遠回しとは違う。
市松は、懐から布包みを出すまではしなかった。
けれど、言葉を隠すのはやめた。
「……ばあさまのこと」
「それと、これや」
市松は、丸い輪と一本の横線を、空に指で描く。
清十郎の目が、わずかに細くなる。
「……見つけたか」
凛も、朔も、笑いを止めた。
空気が一段、冷える。
「ばあさまの蔵から、絵本が出てきた」
市松は言った。
「巫女の話。鈴。印」
清十郎は、ため息をついた。
ため息というより、水が石を避けるような、静かな息。
「姉貴は、最後までそれを抱えて死んだんやな」
清十郎の声は、少しだけ掠れていた。
市松は喉の奥が痛くなった。
祖母を「姉貴」と呼ぶ声が、思ったより生々しい。
「ばあさま、子どもの頃、どんなやった」
市松が聞くと、清十郎は少し笑った。
「口が悪い」
「え」
「優しい顔して、言葉が刺さる」
お夏が「市松みたいや」と小声で言い、弥乃が頷く。
「ただな」
清十郎の目が真面目になる。
「姉貴は、昔から“音”に敏かった」
「音?」
市松が聞き返すと、清十郎は湯呑みを指で回した。
「川の音が変わると、雨を当てた」
「人の声の震えで、嘘を見抜いた」
「月の音が、普通と違う言うて――泣いた夜もあった」
市松は、息を止めた。
(……やっぱり)
清十郎が続ける。
「その絵本の話やろ」
「うちの里では、子どもに聞かせる昔話や」
弥乃が身を乗り出す。
「怖いやつですか」
「怖いで」
凛が即答して、にやりとする。
「泣いたら山に置いてくぞ」
「お前が泣け」
朔が即座に返して、源太が「仲ええな」と感心する。
清十郎は、茶をひと口飲んでから、静かに言った。
「――“死の巫女”の話や」
座敷の空気が、ぴんと張る。
「死の巫女……」
市松が呟くと、
「昔な」
清十郎は、絵本の文をなぞるように語り始めた。
「山が高く、川が若かったころ。
小さな国に、巫女がいた。
白い布と、細い紐と、小さな鈴を持ってた」
市松の胸に、絵本の文字がそのまま重なる。
「巫女が立つと、風が曲がり、川の流れがそろう。
巫女は短い言葉で、人を救った」
『あしたは みずを ふやしなさい』
『こんやは ひを たやさないで』
『しばらく ふねを ださないで』
「……その通りになるから、国は栄えた」
清十郎はそこで、目を伏せた。
「けど、外から人が来た」
『みこのちからだ』
『うばえば うちのものだ』
「――夜に襲われた。
剣の音と叫びで、国は消えた」
弥乃が唇を噛む。
お夏は、いつもの冗談の顔を消している。
源太は拳を膝の上で固めている。
「それで終わりやない」
清十郎の声が低くなる。
「殺された巫女はな、死んで終わらへん」
市松の背中がぞくりとした。
「巫女の国を襲った者。
その血を引く者。
その子孫を――今も探す」
清十郎は言った。
「見つかれば、呪い殺される」
「そういう伝承が残ってる」
凛が軽く笑おうとして、笑えずに口を閉じた。
「ほんま……なんですか」
源太が震える声で聞く。
清十郎は答えなかった。
代わりに、座敷の柱に掛かった小さな紋を指した。
丸い輪の中に、一本の横線。
「うちの家紋や」
「そして、死の巫女の印と同じや」
市松の頭の中で、糸がきしむ。
(……祖母も、自分も)
(死の巫女の子孫?)
瞬間、別の恐れが心臓を掴む。
(なら……自分らは、呪いで誰かを殺す側か?)
喉が乾く。
指先が冷える。
けれど、すぐ次の思いが打ち消す。
(違う)
一族は、誰も殺していない。
むしろ――
(印のついた物を持ってる者が、殺されてる)
狐堂。
紗夜。
奪われた鏡。
女ばかり。
(……死の巫女の呪いを恐れて)
(誰かが、逆に印を目印にして、末裔を殺してる?)
でも、なぜ女ばかりが?
市松は、息を整えた。
「叔父さん」
声が少し掠れた。
「この伝承、もっと詳しく知るには、どうしたらええ」
清十郎は、市松をまっすぐ見た。
「……今夜や」
「今夜?」
「年に一度だけ、死の巫女を祀る社で祭りがある」
清十郎は言った。
「社の名は――鈴折神社や」
鈴。
折れる。
嫌な言葉の重なりが胸に刺さる。
「祭りには、巫女行列が出る」
「今年の御児さまは――凛や」
凛が、あっけらかんと手を挙げた。
「はいはーい。うち、選ばれました」
言い方は軽いのに、目は軽くなかった。
「選ばれたって、何するん」
お夏が聞くと、
「白い衣、着る」
凛が指を折る。
「鈴、持つ」
「歩く」
「祈る」
「……見られる」
「最後、嫌やな」
弥乃がぼそっと言う。
「嫌やけど、決まりや」
凛は肩をすくめる。
「うちは水尾の家やからな」
市松の背が冷えた。
(……鈴)
(白い布)
(細い紐)
絵本と同じだ。
「朔も行列に出るんか」
市松が聞くと、朔が胸を張った。
「うちは提灯持ち!」
源太が感心して頷く。
「えらいな」
「提灯が重いから、えらいんや!」
朔が胸を張り直す。
市松は、凛を見た。
「……危ないんちゃうか」
「今さらや」
凛は笑った。
「うちの里で“死の巫女”祀ってるんやで?」
「危ない気がせんほうが鈍いわ」
お夏が口を尖らせる。
「祭りって、浮かれてる場合ちゃうやん」
「浮かれへん祭りほど、やる意味がある」
清十郎が静かに言う。
市松は、決めた。
「行く」
「祭り、見たい」
「伝承、確かめたい」
弥乃が即座に言う。
「行こ」
「怖いけど、行こ」
「怖い話は現場が一番よく分かる」
「お前、ほんまに本好きやな」
源太が呆れる。
「怖いの嫌や言うてたやん」
お夏が弥乃を小突くと、
「嫌やけど、知りたい」
弥乃は平然と言った。
「嫌やからこそ、知りたい」
市松は、朔を見る。
「朔も行く?」
「行く!」
朔が即答する。
「凛ひとりで歩かせたら、絶対なんか言うて喧嘩売る」
「売らへんわ」
凛が言いながら、すでに売りそうな顔をしている。
清十郎が立ち上がった。
「ほな、支度せえ」
「日が落ちたら、鈴折神社は人で埋まる」
「水の匂いと、火の匂いが混じる夜や」
市松は、懐の冷えを確かめた。
鈴が、そこにある。
(……今夜、何が鳴く)
(狐か。鈴か。人の嘘か)
答えはまだない。
けれど、足はもう止まらなかった。
【――伝承は、昔話の顔をして人の暮らしに紛れます。
そして年に一度、
その顔が“本物の目”になる夜があります。
貴船の祭りは、今夜でした。】




