第十八話 残された道
【――地図は、
線で嘘をつきません。
けれど、
線が示すものを、
人は都合よく忘れます。】
役所の奥は、昼でも薄暗かった。
紙の匂い。
墨の匂い。
人の息が、湿りを含んで沈んでいる。
帳面をめくる音が、遠くで続く。
筆先が紙を擦る音。
印を押す音。
どれも、同じ速さで鳴っているのに、
音音には、ひとつだけ違う音が聞こえた。
古い紙が、鳴らないふりをしている音。
音音は、机の上に広げられた地図を見下ろしていた。
紙は黄ばんでいる。
端が少し欠けている。
折り目が、何度も同じ場所で折られている。
使われた地図。
地図は、使われるほど、真実に近づく。
見たい者が、そこを何度も見たという証だから。
音音は、指を伸ばした。
常盤座の場所。
川。
裏手の小道。
そして――川向こう。
指先が、そこで止まる。
紙の上の線は、素直だった。
芝居小屋が建つ前の、この土地の名が、薄い墨で書かれている。
(……やっぱり)
音音の胸の奥で、鈴の芯みたいな音が鳴った。
常盤座の敷地は、昔――
「本多家別邸」となっていた。
線の角度。
塀の位置。
庭の余白。
裏口の配置。
芝居小屋のための土地ではない。
音音は、息を吐いた。
「……やはり」
声にした瞬間、紙がすこしだけ鳴った。
古い紙は、言葉を嫌う。
役所の役人が、ちらりとこちらを見る。
けれど、何も言わない。
同心がついているからだ。
音音は、顔を上げた。
「兵馬さんを呼んでください」
役人が、慌てて奥へ走る。
足音が、板を急かす。
しばらくして、同心・佐久間兵馬が現れた。
役所の空気をまとっているのに、歩き方はいつもと同じだ。
余計な音を立てない。
必要な音だけを落とす。
「呼んだか」
「はい」
音音は地図を指さした。
「常盤座の前――ここは、昔、本多様の別邸でした」
兵馬が眉をわずかに動かす。
驚きの音を、表に出さない驚き。
「本多正継、か」
「その屋敷です」
音音は、紙の上の川へ指を滑らせた。
川向こうの、倉庫がある辺り。
「この線の取り方」
「裏口の寄せ方」
言葉にすると、地図がほどけるように見える。
「……地下が、ある」
兵馬が低く言った。
音音は頷いた。
「地下が――“道”になっています」
兵馬の目が細くなる。
「本多の屋敷に、行くぞ」
「はい」
音音は地図を畳んだ。
紙が擦れる音が、役所の静けさに小さく刺さる。
【――古い紙は、
過去の息を閉じ込めています。
息は、出せば音になります。
音になれば、
もう戻せません。】
⸻
本多正継の屋敷跡に向かう道は、町の顔が違った。
大店の並ぶ通りを抜けると、
塀が高くなる。
門が重くなる。
人の声が低くなる。
ここでは、笑い声も、どこか遠慮して鳴る。
屋敷の門は、今は別の家の持ち物になっていた。
本多家は潰れてはいない。
けれど、正継の死で、屋敷の内側は変わった。
兵馬が名を告げる。
門番の返事が短い。
扉が開く音が、重い。
音音は、その音を聞いた瞬間、
胸の奥が、ひとつ昔へ滑った。
――羽衣。
あの日。
花叢座が、この屋敷で御前興行を打った。
客は権力者。
空気は刃物のように硬い。
舞台板が鳴るたび、命が削れる気がした。
そして――殺し。
朔之介が、本多正継を殺した日。
音音は、歩きながら、当時の音を拾ってしまう。
拾いたくなくても、音は勝手に寄ってくる。
座敷の畳が鳴らないように敷かれた重み。
奥座敷の屏風の擦れる音。
盃の置かれる音の、異様な遅さ。
そして。
あの瞬間の、命の音。
(……戻るな)
音音は、息を整えた。
今は、過去を見に来たのではない。
過去の“形”を確かめに来た。
案内されたのは、屋敷の奥。
小さな庭の向こうの、控えの座敷だった。
そこに、ひとりの老人が座っていた。
背は低い。
けれど背中の音が、折れていない。
本多正継の側近。
今は隠居の身。
兵馬が挨拶をする。
役所の言葉で、役所の音で。
老人は、音音を見た。
見方が、子どもを見る目ではない。
刃物を見る目だ。
「今日は、昔の屋敷の話を聞きたい」
老人は、すぐには答えなかった。
湯呑みを持ち上げる。
湯呑みの底が、畳に触れる直前で止まる。
音を出したくない仕草。
それが、屋敷の癖だ。
「屋敷の話とは」
兵馬が、地図を机の上に広げた。
老人の目が、地図の線をなぞる。
音音は、老人の喉の奥の音を聞いた。
思い出を出す前の、硬い音。
「常盤座が建った土地だ」
「昔、本多家の別邸だったな」
老人の指が、紙の上で止まる。
「……そうだ」
「その別邸に、地下の道があったか」
老人の呼吸が、一度だけ浅くなる。
誤魔化す浅さではない。
思い出した浅さ。
音音は、言葉を挟まなかった。
今、挟むと、老人の音が折れる。
老人は、ゆっくり言った。
「……あった」
兵馬の目が動く。
「避難のための道だな」
老人は頷いた。
「屋敷の一部の者しか知らぬ」
「外の者に見せるものではない」
音音は、そこで初めて口を開いた。
「川向こうへ抜けますか」
老人の目が、音音を見た。
驚きの音。
「……抜ける」
「倉へ出るようになっていた」
音音の胸の奥で、線が一本つながる音がした。
兵馬が、静かに問う。
「今も、その道は残っていると思うか」
老人は、しばらく黙った。
黙り方が、慎重だ。
言ってよいことと、言ってはいけないことの境を踏んでいる。
そして、ぽつりと言った。
「……屋敷が取り壊されたとき」
「地下の口は、閉じたと聞いた」
「誰が閉じた」
老人の喉が、きゅ、と鳴った。
言葉を飲む音。
ここで、何かがある。
けれど、老人はそれを表に出さない。
兵馬は、それ以上、追わなかった。
追えば、老人が口を閉じると分かっているからだ。
代わりに、別の問いを投げた。
「別邸の内装を手がけた職人は、誰だった」
老人は、わずかに息を吐いた。
出せる答えに切り替えた音。
「……細工師がいた」
「江戸でも腕の立つ男でな」
「名は――久蔵」
音音の胸の奥が、こつ、と鳴る。
「久蔵」
「その久蔵は」
兵馬が続けた。
「常盤座にも関わっているか」
老人は頷いた。
「関わっている」
「常盤座の内装に、あの男の手が入っていると聞いた」
音音は、静かに目を伏せた。
(……内装)
常盤座で、音音が感じた「同じ手」。
それが、名前を持った。
久蔵。
音音は、頭を下げた。
「お話、ありがとうございます」
老人は、何も言わなかった。
けれど湯呑みを置く音が、少しだけ柔らかくなった。
屋敷を出ると、空が低くなっていた。
雲が、古い灰色の音をしている。
兵馬が言う。
「久蔵、か」
音音は頷く。
「常盤座の音が、きれいすぎました」
「それを作ったのが、久蔵」
【――音は、
偶然では整いません。
整った音は、
誰かの指の跡です。】
⸻
次に向かったのは、常盤座の内装を請け負った細工の店だった。
看板には、墨で大きく――
久蔵細工方
鳳彩堂
と書いてある。
店先には、木屑が落ちていない。
掃いているのではない。
出していない。
木を削る場所と、客を迎える場所が、きっちり分けられている。
そういう店は、手が細かい。
中に入ると、香がした。
木の香。
漆の香。
油の香。
それから、刃物の匂いの音。
奥で、カン、という乾いた音が一度鳴った。
鑿が木に触れた音。
真っ直ぐで、迷いがない。
兵馬が名を告げる。
弟子らしい若い男が出てきて、奥へ引っ込む。
しばらくして、店の奥から男が現れた。
四十を過ぎた頃だろう。
背が高い。
肩が厚い。
手が大きいのに、指先がきれいだ。
目が笑っていない。
けれど、口元は笑える。
職人の顔。
「同心さまかい」
「で、こっちは子供か」
音音は頭を下げた。
「常盤座の内装が、とても美しかったです」
「舞台の音を邪魔しない作りに、感動しました」
久蔵の目が、一瞬だけ光る。
褒め言葉を、ちゃんと受け取る目。
「ほう」
「分かるんか」
「分かります」
音音は淡々と言った。
「音が、きれいでした」
久蔵は、鼻で小さく笑った。
「芝居小屋はな」
「客の息まで鳴る」
「邪魔したら終いよ」
音音は続けた。
「それと――」
「柱の裏の仕掛けも、見事でした」
久蔵の笑いが、止まる。
止まり方が、早い。
兵馬が、淡く言った。
「常盤座の柱の裏に、隠し扉があった」
「地下へ降りる階段もな」
久蔵は、肩をすくめた。
軽い動き。
けれど、喉の奥が硬い。
「……知らねえな」
だが、その声の奥で、
音が、わずかに震えていた。
音音は静かに言った。
「あの扉は、嘘をつかない音でした」
「あれほど静かな細工を作れる人を、
私は、もう一人知りません」
――沈黙。
店の奥で、弟子が息を止める音がした。
刃物の並ぶ棚が、空気を重くする。
やがて久蔵は、
小さく笑った。
「……そこまで聞き分けるか」
「なら、隠しても無駄だな」
その言葉が落ちた瞬間、
音音の胸の奥で、石が一つ、はまる音がした。
兵馬が言う。
「認めるのか」
久蔵は、椅子にどかりと腰を下ろした。
座る音が大きい。
わざと大きくしている。
「俺ぁ、細工師だ」
「“音を消す”のが商売よ」
そして、飄々(ひょうひょう)と続ける。
「地下へ続く扉と階段」
「あれは、俺が作った」
音音は、すぐには問い詰めなかった。
ここは、話させる場だ。
叩けば閉じる音を、この男は持っている。
音音は、褒める音で、扉を開ける。
「本当に、見事でした」
「芝居の音に溶けるのに、扉としては確かに開く」
「誰も真似できません」
久蔵の口元が、ほんの少しだけ持ち上がる。
職人は、褒められると弱い。
弱いというより、誇りが勝つ。
「だろうよ」
「俺以外に、あれをやれる奴は――いねえ」
兵馬が、静かに訊く。
「なぜ、そんなものを作った」
久蔵は、鼻で笑った。
「商売さ」
「誰の商売だ」
久蔵の笑いが、薄くなる。
刃物の匂いの音が、少し強くなる。
音音は、そこで一歩だけ踏み込んだ。
「久蔵さん」
「地下の取引部屋には、薬がありました」
「人が消えて、薬が動いた」
久蔵は、目を細めた。
「……見たのか」
「見ました」
久蔵は、舌打ちの一歩手前で止めた。
音を出さない舌打ち。
それが、いちばん苛立つ。
兵馬が言う。
「薬を動かすために作ったのか」
「それとも、逃げるためか」
久蔵は答えない。
答えない音が、頑固だ。
音音は、別の角度で問う。
「久蔵さん」
「地下の道は、川向こうへ伸びていました」
久蔵の指が、膝の上で一度だけ止まる。
止まり方が、知っている止まり方。
兵馬が、老人の言葉を思い出すように言った。
「本多正継の別邸に、地下の避難道があった」
「お前は、その別邸の内装もやっていたな」
久蔵は、黙ったまま笑った。
笑い声が出ない笑い。
つまり、そういうことだ。
音音は、胸の奥で静かに言葉を組み立てていく。
本多の別邸が取り壊されたとき。
久蔵は、内装の回収を頼まれた。
そのとき、地下への口を閉じた。
閉じた者は、閉じ方を知っている。
そして、常盤座の内装を任されたとき――
閉じた口を、別の形で開けた。
誰にも見つからないように。
芝居の音を邪魔しないように。
音まで消して。
久蔵は、肩をすくめた。
「……過去の道は、便利でな」
「埋めるのはもったいねえ」
兵馬が一歩近づく。
近づき方が、逃げ道を塞ぐ近づき方。
「誰に頼まれた」
久蔵の目が、わずかに泳ぐ。
泳ぎは、怖さの泳ぎではない。
商売の泳ぎだ。
「言えねえ」
兵馬が言う。
「言えない相手か」
「言ったらお前の“商売”が終わる相手か」
久蔵は、鼻で笑った。
「同心さまは、怖えな」
音音は、ここで初めて、別の音を拾った。
――布の擦れ。
店の奥から持ってこられた反物の包み。
上等な反物屋の匂い。
弟子が、久蔵に耳打ちする。
「例の方が昨日も――」と、言いかけて止める。
兵馬の目が、ほんの少しだけ鋭くなる。
「昨夜、常盤座で薬を買っていた客がいた」
「反物屋の店主だ」
久蔵の喉が鳴る。
飲み込む音。
兵馬は、淡く言った。
「老中、松平宗景が贔屓にしている反物屋だな」
久蔵は、答えない。
だが。
否定の音も、落ちなかった。
兵馬の声が低くなる。
「松平宗景だな」
久蔵は、黙ったままだった。
頷きもしない。
首も振らない。
ただ、息だけが一度、わずかに詰まる。
それで十分だった。
否定しない沈黙。
肯定もしない沈黙。
――名を口にした者が、ここで勝ったわけではない。
けれど、名を口にしたことで、久蔵の沈黙に形がついた。
兵馬は、それ以上は押さなかった。
押せば、沈黙が固くなる。
固くなれば、もう割れない。
兵馬は低く言う。
「雇い主は言わん、か」
久蔵は笑わない。
目だけが、少し細くなる。
「言えねえ」
久蔵の声は、短い。
短いぶん、重い。
音音は、その重さの音を拾った。
守っているのは、義理か。
怖さか。
それとも――商いか。
音音は結論を作らないまま、静かに息を置いた。
今はまだ、核を一本に束ねる時ではない。
束ねれば、見えない部分が見えなくなる。
音音ができるのは、問いを残すことだ。
兵馬が、息を置いた。
「よし」
「今日はここまでだ」
久蔵が笑う。
笑いは軽い。
けれど、喉の奥が乾いている。
音音は、店を出る前に、一度だけ常盤座のことを思った。
舞台の音を邪魔しない装飾。
役者の見得を支える余白。
客の息を受け止める梁。
その美しさの裏側に、
音を消す扉があった。
芝居のための技が、
闇のためにも使われていた。
外へ出ると、夕方の町の音が押し寄せた。
子どもの笑い声。
桶の音。
炭の匂い。
いつもの江戸。
けれど音音の胸の中だけが、別の音で鳴っている。
印を持つ女を狙う殺し。
狐面。
黒い覆面。
地下の薬。
久蔵。
反物屋。
老中・松平宗景。
音音は、歩きながら、ただ問いを置いた。
(……どうして)
(……なぜ、同じ名が、違う場所に出る)
兵馬が横で言う。
「動機は、まだ掴めん」
「掴むのは、あとだ」
「まずは――繋がりを押さえる」
音音は頷いた。
「はい」
繋がりは見えた。
でも、意味はまだ見えない。
音音は、夕暮れの空を見上げた。
雲が、薄く赤い。
灯りが一つずつ点く。
町が夜へ折れていく音。
その中で、音音の胸の奥だけが、まだ昼のまま鳴っていた。
【――地下は、
眠っていたのではありません。
眠らされていました。
そして今、
眠りのふたが、
外されました。】




