第十六話 無いはずの部屋
【――真実は、
声に出して言うものだけではありません。
隠す音と、
知らない音は、
似ているようで、まるで違います。】
夜明けの江戸は、まだ薄い息をしていました。
川霧が水面に寝転び、橋の板は冷えたまま。
早起きの棒手振りの桶が、遠くで一つ鳴る。
それだけで、町は「今日」を始めようとしている。
けれど――
常盤座の前だけは、音が硬かった。
提灯の残り香。
昨夜の人だかりの名残。
そして、まだ抜けきらない緊張の匂い。
同心・佐久間兵馬が、戸口に立っていました。
手の中の紙が、かすかに擦れる。
その音は、ただの書付ではない。
捕まえる音。
逃がさない音。
音音は、兵馬の半歩うしろで、常盤座を見上げます。
立派な小屋。
新しい木。
太い梁。
――けれど、その下には、昨夜見た闇がある。
(……地下で、薬が動いていた)
あの部屋。
棚に積まれた小瓶。
甘くて腐った音。
薬草のふりをした、痛みの音。
そして、逃げた売人の足音。
足音は、もう町のどこかに溶けてしまった。
捕まる音は、まだ届いていない。
「入るぞ」
兵馬の声は低い。
低いのに、薄くない。
踏む音がある。
戸が開く。
木が軋む。
人の気配が、奥で一斉に揺れる。
常盤座の座長が、すでに待っていました。
四十を越えたあたりの男。
背は高くない。
けれど、立ち方が舞台の人間のそれだった。
襟元がきちんとしている。
指先に墨が残っている。
台本を触る指だ。
目は鋭いのに、焦りを見せない。
――見せないようにしている。
名は、常盤屋 仁左衛門。
座長であり、役者であり、座をまとめる胴元でもある男。
兵馬は、余計な挨拶をしませんでした。
「昨夜の件だ」
仁左衛門は、深く頭を下げた。
頭を下げる音は、静か。
静かすぎて、逆に硬い。
「……昨夜の件と申しますと?」
その声に、芝居の調子はない。
舞台の声ではなく、座を守る声。
兵馬は言う。
「地下に薬があった」
「取引が行われていた」
仁左衛門の喉が、小さく鳴りました。
飲み込む音。
だが、隠す音ではない。
「……地下?」
言葉が遅れて出た。
遅れは、作ったものではない。
(……知らない音)
音音は、仁左衛門の胸の奥を聞きました。
驚き。
怖さ。
座の名が傷つく恐れ。
役者たちが巻き込まれる不安。
けれど、そこに――
罪を隠す、ねばついた音がない。
兵馬が続ける。
「柱の裏に隠し扉があった」
「そこから地下へ降りられる」
仁左衛門は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
閉じ方が、痛い。
「……私どもは、そのようなものは」
言いかけて、言葉が途切れました。
嘘なら、途切れない。
嘘は、滑る。
仁左衛門の言葉は、滑らなかった。
引っかかった。
引っかかるのは、困惑の音。
「……知りません」
座長は、そう言いました。
その後ろで、一座の者たちが並んでいます。
若衆。
囃子方。
衣装方。
大道具。
皆、顔色が悪い。
けれど、音はまっすぐだった。
(……怖いだけ)
(……知らないだけ)
音音は、兵馬の袖を小さく引きました。
「嘘は、ありません」
声は低く。
波のない声。
兵馬は、わずかに頷いた。
もう、音音の判断を「子どもの勘」だとは思っていない。
「座長」
兵馬は言う。
「今朝から、座は一時封鎖だ」
「出入りした者の名を書け」
仁左衛門の指先が、紙に触れました。
紙の擦れる音が、静かに震える。
「……承知いたしました」
その返事に、芝居の匂いはない。
座を守る覚悟の音。
兵馬は音音へ目を向けた。
「次だ」
音音は頷きます。
次は、建てた者たち。
常盤座は新しい。
ならば、作った者がいる。
隠し扉も、地下も、誰かが手を入れたはずだ。
そう、誰もが思う。
――だからこそ。
この次で、音がずれたときが怖い。
⸻
常盤座の裏手を抜け、町人地を少し歩くと、木の匂いが濃くなります。
削り屑。
樹脂。
湿った土。
大工の棟梁は、早くから働いていました。
名は、棟梁・梶原。
太い腕。
乾いた手。
爪の中に木屑が残る。
男の声は、木を叱る声のまま。
兵馬が名を名乗ると、梶原は眉をしかめました。
「また厄介ごとかい」
厄介の音。
でも、逃げの音ではない。
兵馬が言う。
「常盤座の地下に隠し部屋があった」
「柱の裏に隠し扉があった」
棟梁は、鼻で笑うでもなく、怒鳴るでもなく、
ただ一度、空を見ました。
空を見る音は、計算の音。
「図面どおりに建てた」
「余計なことはしてねえ」
短い。
兵馬は、さらに言う。
「建てたときには、なかったと言うのか」
棟梁は頷いた。
頷き方が、硬い。
「なかった」
「そもそも、そんなもん図面にねえ」
音音は、その言葉の奥を聞きました。
苛立ち。
役人への嫌気。
でも――
隠す音がない。
木を削る音が、そのまま胸の奥にもある。
揺れがない。
「棟梁」
音音は、小さく言いました。
「柱の裏、触りましたか」
棟梁が、音音を見た。
「おめえ、子どもが」
言いかけて、兵馬を見て、口を閉じる。
同心が連れている子どもは、ただの子どもではない。
その認識の音が、棟梁の中に芽を作る。
「……触ってねえ」
「触る必要がねえ」
兵馬が問う。
「柱の材はどこからだ」
「材木問屋から」
「節の少ねえのを入れた」
「誰が決めた」
「俺だ」
棟梁は即答した。
即答は、嘘の便利さではない。
自分の仕事への誇りの音。
「建築の差配は誰だ」
兵馬が問うたとき、
棟梁の目がわずかに細くなった。
嫌な音ではない。
覚えている音。
「普請奉行筋の口利きでな」
「“絵図面引き(えずめんひき)”がついた」
絵図面引き。
建物の割付と間取りを引く者。
町では「差図師」とも呼ばれる。
兵馬が言う。
「名は」
「与兵衛だ」
「絵図面引き・与兵衛」
音音の胸が、少し鳴りました。
(……次)
嘘がないなら、次へ進むしかない。
⸻
絵図面引き・与兵衛は、町の外れの小さな仕事場にいました。
紙。
墨。
定規。
糸。
机の上には、間取り図が何枚も重なっている。
線の音がする。
線は、嘘をつかない。
与兵衛は、五十に差しかかった細身の男でした。
背は曲がっていない。
目が細い。
指が長い。
紙の上に生きてきた指。
兵馬が事情を話すと、与兵衛は、ゆっくり息を吐きました。
「……常盤座で、そんなことが」
驚きはある。
でも、驚きの音が、正しい位置にある。
兵馬は問う。
「図面に、隠し扉はあるか」
与兵衛は首を振った。
「ございません」
「私が引いたものには、ありません」
兵馬が続ける。
「地下は」
与兵衛の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「地下の構えは……基礎として必要最小限です」
「部屋などは」
言い切った。
言い切りは、責任の音。
音音は与兵衛の胸の奥を聞きました。
困惑。
不快。
自分の線が汚されたような嫌さ。
でも――
やっぱり、隠す音はない。
「建てた時には無かった、と」
音音が言うと、与兵衛は頷く。
「無いはずです」
「図面にないものは、建ちません」
その言い方が、線の人の言い方でした。
現実より線を信じる人の音。
兵馬が、低く言う。
「だが、ある」
「実際にあった」
「薬もあった」
与兵衛の喉が鳴った。
飲み込む音。
ここで嘘をつく音ではない。
「……誰かが、あとから」
与兵衛が、そう言いかけたとき。
音音の耳に、別の音が混じりました。
仕事場の外。
足音。
ひとつ。
ふたつ。
軽くない。
急がない。
見回りの者の足ではない。
止まる。
戸の向こうで、誰かが息を置く。
与兵衛も、気づいたのか。
目だけが、ほんの少し戸へ向いた。
その目の動きに、怖さがない。
でも、慎重さが混じる。
(……話を聞かれている?)
兵馬は立ち上がる気配を見せませんでした。
同心の顔で、音だけを揃える。
しばらくして、その足音は離れました。
与兵衛は、何事もなかったように紙を整えます。
整える音が、きれいすぎる。
(……慣れてる)
音音の胸が、小さく鳴りました。
誰かに見られることに、与兵衛は慣れている。
それが役所の仕事だからか。
それとも――別の理由か。
兵馬が、問いを変えた。
「常盤座の内装の細工は、誰が請け負った」
与兵衛は少し考えた。
「……細工は、別口です」
「座の飾り、音の返りを調える者」
「棟梁の仕事ではない」
兵馬が言う。
「名は」
与兵衛は、墨の匂いの中で、静かに答えた。
「……細工方・久蔵」
その名を言ったとき、
与兵衛の胸の奥が、ほんの少しだけざらつきました。
ざらつきは、恐れではない。
厄介な人間を思い出した音。
兵馬は、音音へ目を向けた。
音音は、小さく頷く。
――次は、内装細工。
気づけば、空はすでに色を落とし、
町の輪郭が、ゆっくりと夜に溶けはじめています。
久蔵の元へ向かうには、
もう遅い刻でした。
無理に急げば、
本当に聞くべき音を、
聞き落としてしまうかもしれません。
だから――
今日は、ここまで。
久蔵のことは、
明日、改めて訪ねることにしました。
⸻
常盤座の前に戻ると、町はもう夕の音が響いています。
炭の煙。
味噌の湯気。
井戸端の笑い声。
江戸は、何事もなかったように暮れていく。
けれど、常盤座だけは違う。
封鎖の札が揺れ、
人が遠巻きに見ている。
噂の音が、先に歩いている。
兵馬が言いました。
「座長も一座も知らない」
「棟梁も絵図面引きも作っていない」
「図面にもない」
音音は、常盤座を見上げました。
新しい木。
新しい梁。
新しい提灯。
その「新しさ」の顔の下に、
昨夜確かにあった入口。
柱の裏の、音の消える扉。
地下の、薬の匂い。
嘘がないのに、隠し部屋がある。
音音の胸の奥で、拾った音がばらばらのまま鳴っていました。
(……どうして)
兵馬が、低く言う。
「では、なぜだ」
誰に言うでもない問い。
空へ落ちる問い。
音音は、答えられませんでした。
まだ、形にならない。
まだ、旋律にならない。
ただ、ひとつだけ確かなのは――
常盤座の床の下で、
誰かが「知られないように」動いたということ。
そして、その誰かは――
舞台の上にはいないということ。
【――知らない音が揃うとき、
そこに残るのは、
誰かの「知っている」だけです。
常盤座の沈黙は、
まだ、解けていません。】




