第十五話 柱の裏の刃
【――夕暮れは、
昼の出来事を、少しだけ優しく包みます。
けれど、
包まれたものが消えるわけではありません。】
江戸の空が、ゆっくりと色を落としていました。
西の雲は橙にほどけ、
川面は、その色を細かく揺らして返しています。
屋台の火が入り、
味噌の匂いと、焼けた魚の匂いが、
夕方の空気に静かに混じっていました。
昼の喧騒は、まだ残っています。
けれど音は、もう前へ進もうとはしていません。
帰る音。
閉じる音。
一日をしまう音。
その中を、音音は歩いていました。
(……見つけた)
昼に見た、柱の裏の暗闇。
下へ続く階段。
音を消す空間。
瓶の触れ合う、小さな取引の気配。
確かに、ありました。
地下で、薬が動いている場所。
音音は、川沿いの小さな祠へ向かいました。
祠の前には、
すでに人影がありました。
異国の商い。
夕方の光の中でも、
距離だけは、近づきません。
「……来たな」
短い声。
音音は頷きました。
「ありました」
それだけで、十分でした。
商いは、川面を一度見てから、
小さく息を落としました。
「……やっぱりな」
驚きはありません。
ただ、確かめが終わった音だけがありました。
しばらく沈黙が続きます。
舟の軋み。
水の返り。
遠くの笑い声。
やがて商いが言いました。
「同心に、知らせてほしい」
音音は、瞬きを一つしました。
「……私が?」
商いは頷きます。
「俺は、役人とは関わらん」
言葉は淡いのに、
決まりだけは動きません。
音音は少しだけ考えました。
兵馬の顔。
縄の音。
捕まる音。
――面倒です。
その空気を読んだのか、
商いは懐に手を入れました。
取り出したのは、小さな瓶。
夜の色を閉じ込めたような、
深い蜜。
「約束の《星蜜膏》や」
音音の目が、ほんの少しだけ光りました。
瓶の蓋を開けると、
甘い香りが、静かにほどけます。
舌に乗せる前から、
星が溶けるような予感の音。
音音の口元が、ゆるみました。
「……にひひひひ」
小さな笑いが、
夕暮れに転がります。
それでも、音音はまだ頷きません。
商いは、もう一つ取り出しました。
薄青い干果。
月の光を乾かしたような色。
「こっちは《月光干》」
噛めば、冷たい甘さ。
最後に、ほんの少しだけ塩の味。
涙みたいな後味。
音音は、完全に黙りました。
そして――
「通報します」
即答でした。
商いは、わずかに笑いました。
⸻
夜。
常盤座の前には、
すでに多くの人が集まっていました。
提灯の光。
ざわめき。
期待の息。
音音は、兵馬の隣に立っています。
「……中で動く」
兵馬の低い声。
音音は頷きました。
⸻
幕が上がります。
三味線が鳴る。
鼓が打つ。
足拍子が床を震わせる。
役者の見得。
客の掛け声。
衣擦れの波。
すべてが、
嘘を本当に見せるための音。
――その下で。
(……沈んでる)
音音は、柱の影を見ていました。
やがて、一人の男が立ちます。
自然すぎる動き。
誰も見ない歩き方。
柱の裏へ――消えました。
兵馬と音音の目が合います。
次の瞬間、
二人は立ち上がっていました。
⸻
柱の裏。
押す。
開く。
暗闇。
階段を降りる。
音が、消えます。
地下通路。
湿った空気。
遠い瓶の触れ。
進む。
そして――
取引部屋。
棚いっぱいの薬。
甘い匂い。
腐る匂い。
――そのとき、
人影が逃げました。
「止まれ!」
兵馬が追う。
音音も走ります。
通路。
階段。
上。
出た先は――
川向こうの倉庫でした。
売人は外へ飛び出します。
兵馬が追う。
足音が遠ざかる。
静寂。
息がきれた音音だけが、残りました。
――そのとき。
背後の気配。
振り向くより早く、
刀が振り下ろされます。
(……死ぬ)
――キィン!!
耳を裂く硬い音が、倉庫の闇を震わせました。
振り下ろされた刃を、
横から滑り込んだ一太刀が受け止めています。
火花が、闇の中で一瞬だけ咲きました。
黒い覆面。
低く沈んだ構え。
足は動かないのに、
体の芯だけが、静かに前へ出ています。
狐面が、間合いを測るように半歩引きました。
次の瞬間、床を蹴る音もなく踏み込みます。
速い。
刃は、一直線に喉を狙っていました。
――だが。
黒覆面の刀が、紙一枚ぶんだけ角度を変えます。
触れた。
流れた。
逸れた。
狐面の一撃は、
黒覆面の肩口をかすめて、空を切りました。
返す刃。
今度は黒覆面が踏み込みます。
重心が低い。
無駄がない。
横薙ぎ。
狐面が身を沈め、
床すれすれで避けました。
遅れた髪が、一本だけ切れて落ちます。
息がぶつかる距離。
互いに、動かない。
次に動いたほうが、死ぬ距離でした。
倉庫の外で、水が小さく鳴っています。
その音だけが、やけに遠い。
狐面の肩が、わずかに揺れました。
――来る。
踏み込みと同時に、連撃。
一。
二。
三。
速さではなく、角度を変える斬撃。
受ければ崩れる軌道。
黒覆面は、受けませんでした。
最小の動きで、
すべてを外します。
そして――
四撃目の終わり。
わずかに開いた胴。
そこへ。
黒覆面の刃が、
音もなく滑り込みました。
浅い。
だが、確実に届いた斬り。
狐面の肩口が裂け、
遅れて血が噴きました。
赤が、闇に滲みます。
狐面が大きく跳び退きました。
着地の音が、初めて荒れる。
呼吸が乱れている。
黒覆面は、追いません。
ただ、同じ高さのまま構え、
次を待っています。
静かな圧。
その沈黙に、
狐面の足が、さらに半歩下がりました。
勝てないと悟った動き。
次の瞬間、
狐面は背を翻し、
倉庫の闇へ走りました。
足音が遠ざかり、
やがて完全に消えます。
残ったのは、
まだ揺れている血の匂いだけでした。
黒覆面は、追いませんでした。
刀をわずかに下げ、
何事もなかったように背を向けます。
その背中。
(……知ってる)
音音の胸が鳴ります。
「……朔之介さん!」
黒覆面の足が、
一瞬だけ止まりました。
けれど、振り返らない。
そして、そのまま、闇へ消えました。
静寂。
音音は、
しばらく動けませんでした。
(……助けてくれた)
あの一瞬、
刃が届くより先に、
自分の前へ踏み出した背中を思い出すと、
胸の奥が、少しだけ温かく鳴ります。
(……もしかして。
今も、
私のことを、
大切に思ってくれているのかもしれない)
確かめることは、できません。
呼び止めても、振り返りませんでした。
それでも――
闇へ消えていった背中の残り音は、
不思議と、
怖くありませんでした。
ただ、静かに。
胸の奥で、
やわらかく、響いていました。
――それだけで、十分でした。
⸻
部屋に帰ると、
音音は、そっと懐に触れました。
胸の奥で、今日の出来事が静かに並び、
やがて一つの旋律になります。
その旋律に重ねるように、
印のついた鈴を、静かに鳴らしました。
【――地下で動く薬。
夜を裂く刃。
そして、去っていく影。
江戸の闇は、深まるばかりでした。】




