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第十四話 常盤座の沈黙

【――芝居小屋は、嘘を見せる場所です。

 けれど、

 嘘より静かな場所が、眠っていることがあります。】


 昼の江戸は、音が重なっていました。


 商いの声。

 木槌の響き。

 笑い。

 怒鳴り。

 鍋の蓋が揺れる音。


 すべてが、前へ進もうとしている音でした。


 その中で、常盤座だけが――

 少し違う鳴り方をしていました。


 高くはない。

 低すぎもしない。

 けれど、どこかで音が吸われている。


(……沈んでる)


 音音は、小屋を見上げました。


 新しい木。

 太い梁。

 広い客席。


 立派です。

 けれど、立派すぎる建物には、

 ときどき余白が生まれます。


 使われない空間。

 語られない理由。

 置き去りの静けさ。


 音音は、ゆっくりと中へ入りました。



 客席は、昼でも薄暗く、

 人の気配が残っていました。


 昨夜の笑い。

 囃子。

 足音。


 けれど、それらはもう

 形を失いかけています。


 残っているのは――

 床の奥に沈んだ、別の静けさ。


(……ここ)


 音音は、歩きました。


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 歩数を数えます。


 舞台までの距離。

 柱までの距離。

 壁までの距離。


 ――合っています。


 図面どおり。

 普通の小屋。


 それなのに。


 四歩目で、

 足の裏の音が、少しだけ変わりました。


 柔らかいわけではない。

 沈むわけでもない。


 ただ。


 終わり方が違う。


 コツ。

 ……。


 音が、床で止まりません。

 どこかへ、ほどけていきます。


(……下に、空間)


 音音は、顔を上げずに

 そのまま歩き続けました。


 気づいていないふり。

 知らないふり。


 芝居小屋では、

 それが一番の作法です。



 柱の影に入ったとき。


 周りの音が、

 ほんの少し遠くなりました。


 囃子の名残。

 外の呼び声。

 通りの足音。


 全部が、

 薄い布を一枚隔てた向こう側。


(……音が、届かない)


 消えたのではありません。

 届く前に、ほどけている。


 音音は、息を吸いました。


 空気は同じ。

 匂いも同じ。


 けれど。


 呼吸の返りだけが、

 わずかに遅い。


 まるで――

 ここだけ、

 小さな袋の中に入っているように。


(……境目)


 音音は、柱に触れました。


 木は冷たい。

 新しい木の、静かな硬さ。


 指を滑らせます。


 継ぎ目。

 節。

 わずかな段差。


 そのどれもが、

 「普通」に見えるよう作られています。


 だからこそ。


 普通すぎる。



 そのとき。


 外で、木槌が鳴りました。


 カン。

 カン。

 カン。


 新しい音。

 乾いた音。

 真っ直ぐな音。


 けれど――

 この柱の裏だけ、

 返りが遅れました。


 ほんの一瞬。

 指一本ぶんの時間。


(……空間)


 音音は、目を閉じました。


 音を見ます。

 形ではなく、流れを。


 囃子の残り。

 木槌の反響。

 自分の呼吸。


 それらが、

 ここでだけ――

 沈む。



 指先を、

 もう一度滑らせます。


 節の裏。

 木目の切れ目。


 そこに。


 爪が、

 ほんのわずかに引っかかりました。


(……ここ)


 押します。


 音は、しません。


 軋みも。

 風も。

 震えも。


 ただ。


 空気だけが、動いた。


 静かに。

 とても静かに。


 柱の裏側が、

 内側へ――

 少しだけ開きました。



 暗闇でした。


 光は届きません。

 けれど、完全な闇でもありません。


 下へ続く、

 短い階段。


 湿った匂い。

 閉じた空気。


 そして。


 音の少なさ。


 音がないのではありません。

 音が、

 生まれようとして、やめています。



 音音は、振り返りました。


 客席は、いつもの小屋。

 何も変わらない昼。


 誰も見ていない。

 誰も気づかない。


 ここは。


 見つからないように作られた場所。



 音音は、

 一段だけ、降りました。


 足音が――

 消えました。


 床に吸われたのではありません。

 空間に、溶けた。


(……本当に、あった)


 同心が見つけられなかった理由が、

 はっきり分かります。


 これは、隠し扉ではない。


 音を消す仕掛け。


 探しても、

 見つかるはずがありません。



 下から、

 かすかな気配がしました。


 人の気配。

 布の擦れ。

 小さな瓶の触れ合う音。


 ――取引。


(……ここが)


 異国の商人が言っていた場所。


 薬が、動く場所。



 それ以上は、

 降りませんでした。


 まだ早い。

 今は、確かめるだけ。


 音音は静かに戻り、

 扉を閉じました。


 柱は、

 何事もなかった顔に戻ります。


 昼の客席。

 普通の芝居小屋。


 けれど、もう違います。


 音音には、

 沈んだ音の形が見えていました。



 小屋を出ると、

 外の光がまぶしく感じました。


 町の音が、

 一度に押し寄せます。


 生きている音。

 進む音。

 混ざる音。


 さっきまでいた地下とは、

 まるで別の世界。


(……見つけた)


 まだ、真相ではありません。

 けれど、入口。


 音が消える場所。

 人が消える理由。



【――消えたのは、人ではありません。

 音のほうでした。


 音を隠せば、

 人は、いくらでも消えます。】



 音音は、

 常盤座を振り返りました。


 立派な小屋。

 にぎやかな昼。

 何も知らない町。


 その床の下で、

 静かに動いているものがある。


 まだ名はありません。

 形もありません。


 けれど。


 確かに、

 鳴っている。



(……一体、誰が)


 音音は、

 静かに歩き出しました。


【夕方の影が、

 江戸の町に伸び始めています。


 長い一日は、

 まだ終わっていません】

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