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第十三話 常盤座

【――水に浮かぶものは、流れているようで、

 実は、その場に留まっています。

 流れているのは、水のほうです。】


 花街からの帰り道。


 夜がほどけきらない時刻、川沿いの道に、人の気配が残っていた。

 酔いの名残の足音も、呼び止める声も、もう遠い。


 川面に、淡い光が揺れている。


 灯籠流しだった。


 誰かが流し、誰かが手を合わせ、

 名前を持たない祈りだけが、水に預けられていく。


 赤、橙、白。

 紙の灯籠が、ゆっくりと回りながら、流れていく。


(……静かな音)


 音音は、足を止めた。


 水に触れない場所に立ち、

 灯籠の揺れを、ただ見ていた。


 紙が水を含む音。

 灯の芯が、揺れながら耐えている音。

 川が、それらを拒まない音。


 流れているのに、急がない。


(……音が、揃っている)


 その光を見ていると、

 ここ数日の出来事が、ひとつずつ、浮かび上がってくる。


 狐の祟り。


 そう呼ばれていたもの。


 女ばかりを狙う殺しが、江戸の町で続いていた。

 人は理由を欲しがり、

 理由の形として、狐を選んだ。


 お紺が殺された夜。

 首に突き立てられた簪。

 狐面。


 けれど、音は違っていた。


 祟りの音ではない。

 人の手が作る、焦りと計算の音。


 狐は、隠れ蓑だった。


 狐面を被り、

 人の恐れを利用した、ただの殺し。


(……祟りじゃない)


 灯籠がひとつ、岸に寄って、くるりと回る。


 狐面の男は、

 ひとりでは動いていなかった。


 頬に十字傷のある侍。

 直接手を下さず、

 言葉と金で、刃を動かしていた。


 そして、その侍に指示を出していたのが、

 片桐右京。


 月白菫の幽霊騒動。

 あの座敷で、音が露わになった。


 菫を殺した男。

 篝を欲し、

 欲望を正当化するために、人を切った男。


 さらに、その右京の背後に、

 老中――松平宗景の名。


(……幕府)


 灯籠の列が、ゆっくりと離れていく。


 もし、それが本当なら。

 個人の欲ではなく、

 仕組みとして、人が殺されている。


 そして、もうひとつ。


 権力者ばかりが死んでいく事件。


 黒い覆面。

 狐面とは、別の動き。


 羽衣の舞台で、本多正継を殺した朔之介。

 かつて、花叢座の看板役者。


 彼もまた、

 覆面の一員だった。


(……二つの殺しには、関係があるのか)


 灯籠が、水に揺れながら、少しずつ遠ざかる。


 音音は、懐に指を入れた。


 印のついた鈴。


 お紺の簪に刻まれていた印と、

 同じ形。


 お紺の簪は、

 殺されたあと、わざわざ抜かれ、持ち去られていた。


 命を奪うだけなら、必要のない行為。


(……狙われていたのは、印)


 印を持つ女。

 印を刻まれた物。


 なぜ。


 音音は、鈴を取り出し、

 そっと鳴らした。


 りん。


 小さく、澄んだ音。


 川の音に溶け、

 灯籠の揺れに重なり、

 それでも、確かに残る。


 胸の奥で、返ってくる感覚があった。


(……確かに、届いた)


 音音は、鈴を戻し、歩き出した。


 風が、ひとすじ、変わった。



 その夜、音音は、衣を畳み、灯を落とした。


 床に入ると、

 耳の奥で、まだ水の音がしていた。


 灯籠が流れる音。

 鈴の余韻。

 集まりかけた音が、眠りの底で、いったんほどける。



 翌朝。


 はなむらざの裏手は、静かだった。


 朝の稽古が始まる前。

 まだ、役者の声も、板を踏む音もない。


 音音は、裏口の木戸を開けた。


 その瞬間だった。


 紙の擦れる音。


 木戸の影。

 柱の際。

 竹の節。


 そこに、一本。


 赤い紙風車が、刺してあった。


(……久しぶりだ)


 異国の商人からの合図。


 依頼があるときは、

 風車を、はなむらざの裏口に刺しておく。


 それが、決まりだった。


 音音は、周囲を一度だけ確かめ、

 風車を抜き取った。


 紙が、かすかに鳴る。


 待ち合わせは、川沿いの祠。



 祠の前には、すでに人影があった。


 川沿いの風に、衣の裾がわずかに揺れる。

 朝でも夜でもない、湿った空気。


 異国の商い。


 距離は、近くない。

 けれど、遠くもない。

 この男は、いつもその位置に立つ。


「……来たな」


 短い声。


 音音は、懐に入れた赤い紙風車に、指先で触れた。


「見ました」


 商いは、川面を一度だけ見た。

 水の流れを測るような目。


「売り上げが、落ちとる」


 前置きはない。


「薬や」


 音音は黙って聞く。

 話の途中で音を挟むのは、この男の流儀ではない。


「安いのが出回っとる」

「うちの半値以下や」


 商いの声は低い。

 怒りではない。

 計算が狂ったときの音。


「質が悪い」

「死人も出とる」


 音音の胸に、沈む音。


「同心も嗅ぎ回っとる」

「せやけどな」


 商いは、口元だけで笑った。


「売っとる奴が、出てこん」


 川の向こうで、舟が一つ、軋んだ。


「客の噂や」

「最近、常盤座(ときわざ)、勢いあるやろ」


 音音の耳が、わずかに立つ。


 常盤座。


 最近、江戸で噂になっている大きな一座。

 新しい芝居小屋を建てたせいで、日当たりの悪くなった異国の商人の倉庫が迷惑を被った。


 花街でも、名前を何度も聞いた。


「芝居を見に行った客がな」

「途中で、消える」


 一拍。


「戻って来たときに」

「その薬を、持っとったらしい」


 音音は、眉を動かさない。

 けれど、胸の奥で、音が重なる。


「同心も、調べた」

「小屋の中もな」


 商いは、祠の石に、軽く指を置いた。


「だが……何も出てこんかった」

「取引できる場所も、見当たらんかった」


 観客の目。

 一座の目。

 人の多さ。


 確かに、薬を渡せる場所ではない。


「せやけど」

 商いは、そこで一度、言葉を切った。


「売られとる」


 断定の音。


「常盤座の中に」

「あるはずや」


 音音は、静かに息を吸った。


 舞台。

 客席。

 楽屋。

 裏方。

 廊下。

 物置。


 頭の中で、まだ形にならない配置が、かすかに鳴る。


「場所を、見つけてほしい」


 商いは、音音を見た。


 頼む、とは言わない。

 代わりに、確信の音を置く。


「うちは、商いや」

「同心は、権」

「あんたは……音やろ」


 音音は、すぐには頷かない。


 川の流れ。

 祠の鈴。

 遠くの町の朝音。


 それらを一つ、胸に落とす。


「報酬は、用意しとる」


 音音の指先が、ほんの少しだけ緩んだ。


「異国のもんや」

「江戸には、まだ入っとらん」


 懐から、小さな包みを取り出す。

 油紙に幾重にも包まれ、紐で固く縛られている。


 開ける前から、

 匂いが鳴った。


(……甘い)

(……でも、甘いだけじゃない)


 商いは、包みを解きながら言う。


「《星蜜膏せいみつこう》や」


 中にあったのは、

 透き通った琥珀色のあぶら


 薄く削られ、

 小さな木匙が添えられている。


「南の海を越えた先でな」

「夜に咲く花の蜜と」

「魚の肝を、低い火で溶かして」

「七日、混ぜ続ける」


 商いの声は淡々としている。

 だが、その淡々の奥に、

 “これは本物や”という音がある。


「舌に乗せたら」

「最初は、砂糖みたいに甘い」


 一拍。


「で、遅れてくる」

「海の深い味や」


 音音は、喉を鳴らした。

 無意識に。


(……危ない)


「少しでええ」

 商いは言う。

「一夜に、米粒ほど」

「多いと、夢を見る」


 夢。

 その言葉に、音音の胸が小さく鳴る。


「成功したら、これを丸ごと」

「失敗したら――」


 商いは、肩をすくめた。


「また、別の頼みやな」


 音音は、包みから目を離せない。


 星。

 蜜。

 膏。


 舌で鳴る音が、はっきり見える。


 音音は、包みを見たまま、答えた。


「……探します」


 即答だった。


 商いが、少しだけ目を細める。


「ええんか」


 音音は、顔を上げた。


 口元が、どうしても緩む。


「にひひひひ」


 商いは、呆れたように言った。


「……子どもやな」


「美味しいものの前では」

 音音は、悪びれずに答える。

「正直なんです」


 商いは、川の方へ視線を投げた。


「急がんでええ」

「せやけど、静かにな」


 その言葉だけを残し、

 男は、川沿いの影へ溶けていった。


 音音は、祠の前に、少しだけ残る。


(……常盤座)


 まだ、音は見えない。

 けれど――


 音音は、川を離れ、

 町の中へ歩き出した。


【――音は、

 隠されると、

 形を持ちます。


 置かれた場所が、

 正しければ、

 必ず鳴る。


 常盤座の中で、

 その音は、

 待っていました。】

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