第十一話 花街の幽霊(中)
【――花街の夜は、笑い声が高いほど、底が静かになります。
上で弾む音ほど、下で沈む音を隠してしまうからです。】
翌日の夕刻。
花叢座の裏手は、いつもより早く暗くなった気がした。
江戸の町全体が、戸を閉める音を急いでいる。
見回りの拍子木が、昨日より近い。
噂話は、声になる前に喉の奥で擦れて、濁った音のまま落ちる。
(……今日も、町の音が硬い)
音音は衣の紐を結び直した。
紐が締まる音が、胸の奥で少しだけ跳ねる。
今夜は、花街へ行く。
幽霊。
去年亡くなった月白 菫。
戻ってきた権力者。
消えた無口な侍。
どれも、まだ一本に揃わない。
だからこそ、現場へ行くしかない。
「……おい、音音」
弥吉が柱にもたれていた。
声を張っているのに、裏側が細い。
(……今日も、格好つけたい音)
「何」
「花街って、あれだろ? 遊郭だろ?」
「行くなら、俺も――」
「駄目」
音音が即答すると、弥吉の息が詰まる音がした。
「は!? なんでだよ!」
新吉が後ろから、肩をすくめる。
「お前が行ったら、絶対ややこしくなるからだろ」
「お前もだろ!」
「俺は騒がねえ」
「騒ぐだろ!」
言い合いの音が、火鉢の上で軽く舞って落ちた。
その軽さが、逆に今夜の硬さを際立たせる。
「二人とも留守番」
音音は、淡々と言った。
「行くのは、私だけで十分」
「……余計な音を増やしたくない」
弥吉がむっとして、
「余計な音ってなんだよ」
と食い下がりかけたが、音音は顔を上げて、にやりとした。
「心配してる顔、弥吉、ばればれ」
「誰が!」
「弥吉だろ」
新吉が笑って、弥吉がさらに膨れる。
そのやりとりの裏に、ほんの少しだけ温かい音が残った。
(……戻れる場所の音)
音音はその音を胸にしまって、戸口へ向かった。
花街は、表の通りより明るかった。
行灯が連なり、白粉の甘さが風に混じる。
男たちの笑い声は高く、杯の置かれる音が忙しい。
けれど、耳が慣れてくると、別の音が見えてくる。
金を待つ音。
時間を急かす音。
口では笑いながら、心だけ先に帰りたがる音。
(……表の夜は、よく喋る)
篝は、花街の入口で音音を待っていた。
花魁の装いではない。
だが、立ち方が整っている。
目線の置き方に、場を締める音がある。
「来たな」
篝が短く言った。
疲れの音は、昨日より薄い。
けれど、急ぎの音は消えていない。
「お待たせしました」
音音は頭を下げる。
「いい。……今日は“見習い”の顔、作れるか」
「はい」
音音は息を整えた。
衣擦れの音を落とす。
視線の音を軽くする。
花街は、そういう細い音をよく拾う。
(……ここは舞台と似てる)
嘘を嘘に見せないために、音を合わせる場所。
篝が小さく言った。
「この客は、厄介だぞ」
「最近戻ってきたという、権力者の方ですね」
「ああ。片桐 右京」
その名が落ちた瞬間、篝の喉の奥が硬く鳴った。
(……嫌い、じゃない。嫌いより怖い音)
音音は、頷くだけにした。
「行くよ」
篝が先に歩き出す。
音音は半歩遅れてつく。
格子の奥へ入った途端、花街の賑わいは戸の外へ置き去りにされた。
廊下は暗い。
灯りは低い。
音が、吸われる。
歩くたび、下駄の音が畳に沈んで、反響しない。
(……奥は、笑い声が届かない)
その代わり、息の音がよく聞こえる。
息を浅くする音。
深くできない音。
篝が止まった座敷の前。
そこだけ、整いすぎた静けさがあった。
香は控えめ。
杯はまだ、口をつけられていない。
畳は新しい。
(……ここだけ、呼吸が硬い)
篝が襖を開ける。
座敷の奥。
行灯の影が濃い場所に、男が座っていた。
片桐 右京。
年は四十前後。
顔立ちは整っているのに、目の奥に笑いが届かない。
羽織は上等、帯は静かな色。
それなのに、座っているだけで、場の底が沈む。
(……重いのに、軽い)
矛盾した音だった。
体は落ち着いている。
だが、心の芯が浮ついている。
人を物として扱う音が、呼吸の隙間に混じる。
「篝」
右京が名を呼ぶ。
声は柔らかい。
柔らかすぎて、油みたいに滑る。
「遅かったな」
「お待たせしました」
篝の声は平らだ。
平らにしないと折れる音。
右京の視線が、篝の後ろへ動く。
「……見ない顔だ」
音音は、膝を折って頭を下げた。
「お初にお目にかかります。見習いの音音と申します」
その挨拶の音は、まっすぐ。
余計な飾りの音がない。
「見習い、ね」
右京が笑った。
笑い声は軽い。
だが、笑い終わりが遅い。
最後の息だけ、少し引っかかる。
(……噛んでる)
言葉の端を、いつも噛む音。
人前で噛む癖は、隠せないことが多い。
右京は杯を手に取った。
杯の底が畳に触れる直前、止まる。
音を立てたくないのではない。
音を、自分の都合で出したいだけ。
「篝。今日は、妙に静かだな」
「そんな夜もあります」
篝の指が一瞬だけ強く鳴った。
畳に触れた爪の音。
すぐ消える。
篝は笑わない。
右京は、音音へ視線を寄越す。
「お前はどうだ」
「ここは初めてか」
「はい」
「怖いか」
「いいえ」
音音が答えると、右京は少し面白そうに眉を動かした。
その動きの音が、狐の耳みたいに軽い。
「強いな」
褒めているようで、試す音。
試されるときの音は、必ず上から落ちる。
(……この人、ずっと“上”だ)
篝が杯を注ぐ。
酒の音が細く流れる。
だが、右京の呼吸がその音を飲み込む。
「なあ、篝」
右京が声を落とした。
落とした声は、刃物を布で包んだみたいに鈍い。
「最近、妙な噂を聞いた」
篝の肩が、わずかに鳴る。
衣の内側で硬い音。
(……来た)
「噂?」
「幽霊だ」
右京は、さらりと言った。
さらりと言うのに、喉の奥が一瞬だけ潤う音がした。
(……喜んだ?)
音音は、目を伏せたまま聞く。
「この街で、女の幽霊が出るそうだな」
右京が笑う。
笑いは軽い。
でも、背中の音が硬い。
楽しんでいるのに、逃げ道を塞ぐ音。
「そんな話、知りません」
篝は淡々と返した。
「知らないふりか」
「花魁は賢いな」
右京の言葉は、飴のように甘く、爪のように尖る。
「髪が金色に光るそうだ」
「そして、血まみれの顔で、男を川へ誘うとか」
その言葉を言ったとき、右京の心の音が少しだけ早くなった。
ほんの一瞬。
それを隠すために、杯を置く音が鳴る。
(……この人)
篝の声が低くなる。
「……そんな噂が広がると、困ります」
「困るのは、お前だろう」
右京は微笑んだ。
微笑みの奥で、舌が薄く鳴った。
甘い言葉を選ぶ音。
「俺が、支えてやる」
篝が杯を置く。
置く音が、少しだけ強い。
「支えはいりません」
「いいや、いる」
右京は言い切った。
言い切る音は硬い。
硬い音は、譲らない音。
音音は、膝の上で指を握った。
握った指が、布に擦れる音を立てる。
小さく、誰にも聞こえない程度に。
(……この人の“いる”は、鎖の音だ)
篝が、息を置いた。
「右京さま」
「幽霊なんて、いるわけないでしょう」
「いないなら、なおさらいい」
右京は言った。
「いないのに、怖がる者がいる」
「怖がる者を、もっと怖がらせれば、言うことを聞く」
その言葉が落ちた瞬間、座敷の空気が冷えた。
冷える音が、畳の目に沈む。
(……本気の音)
酒の場で、つい出た音。
そして出た音は、戻らない。
篝の呼吸が、一度だけ乱れた。
(……恐れ)
けれど篝は笑った。
笑いの音は薄い。
笑っていない笑い。
「やはり、俺が支えてやる」
右京の声は、確信の音。
音音の胸の奥に、ひとつの形が生まれ始めた。
まだ確証ではない。
だが、音が寄ってくる。
――そして、もうひとつ。
右京が、膝の横の小袋に指を置いた。
布が擦れる音。
金属が小さく触れ合う音。
それが、妙に湿っている。
(……濡れた金属の音)
音音は顔を上げない。
上げたら、見られる。
篝が話題を変えるように言う。
「……右京さまは、川は嫌い?」
「川?」
右京が一瞬だけ言葉を止めた。
止めたところに、引っかかりの音。
嫌な沈黙が落ちる。
「川は、嫌いではない」
「ただ――」
右京が笑う。
笑いの音が、さっきより乾いた。
「流れるものは、嫌いだ」
「掴めないからな」
篝が、杯を置いた。
置く音は静かだったが、
その奥に、少しだけ探る音が混じった。
「……そういえば」
何気ない調子を装って、篝が言う。
「最近、時々来るお侍さまを、ご存じですか」
右京の眉が、ほんのわずか動いた。
動きは小さい。
けれど、動いた音が遅れて落ちる。
「侍?」
「はい」
篝は、目を伏せたまま続けた。
「笠を深く被っていて」
「ほとんど喋らない方です」
「ただ、私の話を聞いて、静かに帰るだけで」
その説明のあいだ、
右京の呼吸が、一度だけ浅くなった。
(……今、触れた)
音音は、視線を下げたまま、その音を拾う。
「さあな」
右京は、すぐに答えた。
早すぎる返事だった。
「知らん」
言葉は平ら。
声も落ち着いている。
――だが。
否定の音だけが、浮いていた。
胸の奥で、音が二重になる。
言葉は否定。
腹の底は、否定していない。
(……嘘だ)
音音は、確信した。
右京は杯を取り、
酒を口に運んだ。
喉を鳴らす音が、妙に長い。
飲み下したあと、
舌の裏で、何かを隠す音がした。
「花街には、妙な客が多い」
右京は、笑って言う。
その笑いの音は軽い。
だが、終わり際だけが、欠けていた。
(……覚えてる)
(……だから、切り捨てた)
篝は、それ以上は聞かなかった。
聞かないことを選んだ。
だが音音の中には、
はっきりと残った。
無口な侍は、
右京の視界にいる。
右京は、音音に視線を投げる。
「見習い」
「お前は、幽霊を信じるか」
音音は、顔を伏せたまま答えた。
「信じる、信じないではなく」
「残るものは、残ります」
言ってから、音音は少しだけ後悔した。
言葉が鋭すぎた。
だが、右京は笑った。
「面白いことを言う」
「篝。見習いは、よく育っているな」
篝の声が低い。
「ありがとうございます」
右京は杯を傾けた。
酒が喉を通る音が、妙に長い。
飲んでいるのに、潤わない音。
(……少し、焦ってる)
焦りの音が、腹の底にある。
それを隠すために、言葉を増やしている。
右京は、ふと呟いた。
「……女は、厄介だな」
篝の指が一瞬だけ止まる。
止まった音が、畳に落ちる。
「厄介?」
「ああ」
右京は軽く言った。
「身分を弁えない女もいる」
その言い方が、嫌に具体的だった。
(……だとしたら)
音音の中で、ひとつ目の印が立つ。
右京は続ける。
「篝」
「お前も、余計なことは言うなよ」
右京の喉の奥が一度だけ鳴った。
秘密を抱える音。
それを人に触れられたくない音。
(……お前も?)
二つ目の印。
恐れがある。
幽霊そのものへの恐れではない。
“何か”が漏れることへの恐れ。
篝が、静かに返す。
「余計なことは言わない」
「でも、私は――」
言いかけて止めた。
止めた音の奥で、痛い音がした。
右京は満足そうに笑った。
「そうだ」
「俺の言う通りにしていれば、上手くいく」
その瞬間、音音の胸に、三つ目の印が立つ。
(……片桐は、一年前、ぱたりと来なくなった」。
でも、最近、また現れた)
(……繋がってる)
音音は、茶を注ぐふりをして、右京の小袋をもう一度だけ見た。
見ない。見るのではない。
音を拾う。
布の擦れ。
金属の触れ。
そして、乾ききらない湿り。
(……嫌な音)
それが、まだここにある。
右京が突然、笑った。
「篝」
「今夜は、久しぶりに昔話でもしてくれ」
篝の呼吸が浅くなる。
「昔話?」
「お前がまだ、見習いだった頃、二人が初めて出会った頃の話だ」
「懐かしいだろう」
その言葉は、優しく聞こえる。
だが、底は冷たい。
“懐かしい”で縛る音。
篝は笑わなかった。
けれど、声は折れない。
「……恥ずかしいので、またにしましょう」
右京が少しだけ目を細めた。
「そうか」
「なら、次は――」
右京の視線が音音へ向く。
「お前が話せ」
「見習いの“面白い話”」
音音は頭を下げた。
「申し訳ございません」
「面白い話を持っておりません」
右京の舌が鳴る。
苛立ちを甘く包む音。
「つまらん」
その一言が、座敷の底へ落ちた。
重い石の音。
篝が、さっと杯を取り、酒を注いだ。
流れを戻す音。
花魁の仕事の音。
(……篝さん、今夜は戦ってる)
音音はその音を、胸の奥で受け止めた。
座敷を下がるとき、廊下の暗さが少しだけ救いに見えた。
外の賑わいが遠い。
篝の足音が、畳に沈む。
沈む音の中に、怒りと悲しみが混じる。
篝は、角を曲がってから、初めて小さく息を吐いた。
「……どうだった」
音音は、すぐに答えなかった。
今、言葉にすると、音が散る。
散った音は、二度と同じ形で集まらない。
「右京さまは」
音音は、敬語のまま静かに言った。
「噂を“聞いた人”の言い方ではありませんでした」
篝が目を細める。
その目の奥で、刃が鳴る音がする。
「……やっぱり、関わっているのか」
音音は、頷きはしなかった。
まだ、揃いきっていない。
だが、集めた音は確かに重い。
「もう少し、見ます」
「右京さまの周りに、残っている音が多すぎます」
篝は、短く笑った。
笑いの音は、乾いていた。
「……あんた、怖い子だな」
「いいえ」
音音は淡々と言った。
「怖いのは、右京さまのほうです」
篝の足が一瞬止まる。
止まって、また歩き出す。
「……明日も、来られるか」
「はい」
音音は答えた。
答えの音は、揺れないように置いた。
花街の表へ出ると、行灯の赤が戻ってきた。
男の笑い声が弾む。
杯が鳴る。
それでも音音の胸の奥では、座敷の底の音がまだ残っている。
右京の笑いの引っかかり。
具体的すぎる言葉。
濡れた金属の音。
そして、篝の折れない呼吸。
(……揃うまで、拾う)
音音は、静かに歩いた。
歩くたび、畳ではなく石畳が鳴る。
その鳴りが、今夜は少しだけ冷たい。
【――疑いは、刃ではありません。
刃になる前の、もっと小さな“違和”です。
音音は今夜、その違和を、手のひらに集め始めました。】




