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第十話 花街の幽霊(前)

【――江戸は、音が消えない町です。

 人が去っても、灯が落ちても、

 言葉にならなかった想いだけが、

 夜の奥に残り続けます。】


 このところの江戸は、どこか息苦しかった。


 夜が来ても、人々は早く戸を閉める。

 辻に立つ火は減り、見回りの足音だけが増えた。

 昼間でも、町人たちは声を潜め、

 「また出たらしい」「今度は誰それだ」と、

 名前を濁した噂を、口の奥で転がす。


 幕府の要人が、黒い覆面の者に斬られた。

 その一方で、女ばかりが、狐の面を被った何者かに殺されている。


 どちらも、犯人は捕まらない。

 どちらも、理由は分からない。


 違う事件のはずなのに、

 江戸の夜では、二つの噂が同じ重さで沈んでいた。


 音が多すぎる。

 けれど、どれも輪郭がない。


 そんな夜でも、花叢座の裏手だけは、かろうじて灯を保っていた。


「なあ、音音。知ってるか?」


 弥吉が、必要以上に明るい声を出す。

 その明るい音は、畳の上で少し跳ね、すぐ沈んだ。

(……無理してる)


「何の話?」


 音音は帳場で帳面を繰りながら、顔を上げずに答えた。

 紙を撫でる指の音が、妙に乾いている。


「まただよ。また幕府の重役がやられたってさ」

「今度は黒い覆面だって噂だ」


「それなら、昨日も聞いた」


 淡々と返すと、弥吉は不満そうに口を尖らせる。

 その不満が、舌の裏に小さく引っかかる音になった。


「でもよ、今回は狐の面の話も一緒に出てるんだ」

「女ばっかり狙うやつ、あれだよ」


 新吉がすぐに首を振った。


「一緒にするなよ」

「狐面の殺しと、要人暗殺は別だろ」


「別でも、同じ夜に起こってるのが気味悪いんだよ!」


 二人の声が重なる。

 重なった声は、火鉢の灰みたいにふわりと舞って、すぐ落ちた。


 音音は、そこでようやく手を止めた。


 壁の向こうから、江戸の町が押し寄せてくる。

 下駄が石を打つ音。

 遠い怒号の尖り。

 巡回の拍子木が刻む乾いた脈。

 酒の笑い声の裏で、喉が乾く音。

 戸を閉める音が、いつもより早い。

 それらすべてが、まず音として胸に落ち、それから「物騒さ」という景色になって広がった。


(……江戸の音が、落ち着かない)


「……二つとも、まだ話がまとまってない」


 音音は、そう言って帳面を閉じた。

 自分の声が、思ったより低く響いたのが分かる。


 弥吉と新吉が同時に黙る。

 黙り方が違う。

 弥吉は気まずさの音。

 新吉は考える音。


「まとまってない?」


 新吉が眉をひそめる。


「本当に起きてることって」

 音音は顔を上げた。

「だいたい、筋が似てくるんだよ」

「人が違っても、場所が違っても」


「……分かるようで分からねえな」


「だよね」


 音音は、少しだけ笑った。

 笑った瞬間、肩の内側で緊張がほどける音がした。


「相変わらず難しいこと言うなあ」


 弥吉が頭を掻き、新吉が肩をすくめた。

 その軽さが、今夜の座の空気にほんの少しだけ隙間を作る。


 そのときだった。


 格子戸の向こうで、控えめに戸を叩く音がした。


 とん、とん。


 強くもなく、弱くもない。

 急ぎでも、ためらいでもない。

 ただ、用件だけがまっすぐ立っている音。


 音音の指が、ぴたりと止まった。


「……どうぞ」


 戸が開き、ひとりの女が入ってくる。


 篝だった。


 花魁姿ではない。

 地味な着物に、簡素な帯。

 だが、足を一歩入れた瞬間、座敷の空気が変わる。

 畳の上の静けさが、すっと整う。

 香の匂いが薄くなる。

 人の視線が揃う音がする。

(……この人、場を変える)


「お久しぶりです」


 音音が立ち上がり、丁寧に頭を下げる。

 畳がほとんど鳴らない。けれど、胸の奥は小さく鳴る。


「突然で悪いな」


 篝は、軽く手を振った。

 言葉は軽いのに、疲れが衣の端に沈んでいる音がする。


 弥吉と新吉は、顔を見合わせる。


(誰だ?)

(ただ者じゃねえな)


 それだけは、二人にも分かった。


「こちらへ」


 音音が奥を示すと、篝は無言で頷いた。

 頷き方が迷っていない。

 けれど、足取りの底に、急ぎの音が隠れている。


 人払いをした座敷で、篝はようやく息を吐いた。

 その息が、長く、重い。

 吐いたあと、喉の奥が乾く音がした。


「助けてほしい」


 低い声だった。


 音音は、すぐに答えない。

 篝の声の端が、微かに揺れている。


「花街で、幽霊が出た」


 篝は淡々と言う。


「それで客が減ってる」

「噂だけならいい」

「だが……」


 一瞬、言葉が途切れる。

 途切れた場所に、嫌な沈黙が落ちる音。


「見たって言う奴が、増えてきた」


 音音は静かに頷いた。

 頷いたはずなのに、胸の奥が少し冷える音がした。


「どのような姿でしょうか」


「顔は綺麗な女だ」

「長い髪で……灯に当たると、金色に見えるらしい」


 その言葉だけで、行灯の光が髪に走る音が浮かぶ。

 さらりとした毛の音。

 だが、その上に、刃の冷たさみたいな音が重なる。


 篝が続ける。


「だが、顔は血まみれだと」

「川の方へ、男を誘うらしい」


 川、という言葉が出た瞬間、

 水面が暗く鳴る音が胸に落ちた。

 水は笑わない。

 ただ、引きずる。


 音音は、まだ何も言わない。


「それに……心当たりがある」


 篝の声が、わずかに低くなった。


「昔、世話になった花魁だ」

「一年前、病で辞めて里に帰った」

「去年、亡くなったと聞いた」


「どんな方でしたか」


 篝は、少し考えたあと、微かに笑った。

 笑いの音が、昔の灯りのように柔らかい。


月白つきしろ すみれ

怖いくらい、優しい人だった」

「見習いの頃、よく叱られた」

「だが……」

「誰より、私の話を聞いてくれた」


 その声は、過去を撫でるようだった。


「髪が綺麗でな」

「黒いのに、月の下じゃ金色に見えた」

「何度見ても、見飽きなかった」


 音音は、黙って聞く。

 篝の思い出の中の月が、薄く鳴る。

 その月の音が、今夜の血の匂いの音とぶつかって、嫌な軋みになる。


「幽霊なんて、信じちゃいない」

 篝は言う。

「だが……」

「もし、あの人がまだ花街を彷徨ってるなら」

「放ってはおけない」


 音音は、ゆっくりと息を吸った。

 息の入り方を整える音。

 焦ると、見誤る。


「その方が亡くなられてから」

「何か、変わったことはございましたか」


「一年前から来なくなった客がいる」

「権力者だ」

「しつこくてな……」

「来なくなって、正直ほっとしてた」


 一拍置く。

 その間に、苛立ちの音がかすかに鳴る。


「だが、最近また現れた」


 その言葉が、畳の底へ沈む重い音として残った。

(……戻ってきた)


「他には」


「一年ほど前からだ」

「月に一度、侍が来る」

「笠を深く被って、ほとんど喋らない」

「一時間ほど、私の話を聞いて帰るだけだ」


 篝の言葉は淡々としている。

 だが、その淡々の裏に、奇妙な安心の音が混じる。

(……嫌じゃなかったんだ)


「変わったお客様ですね」


「そうだろ」

 篝は苦笑した。

「だが、嫌な感じはなかった」

「でも……幽霊の噂が出てからは、ぱったり来なくなった」


 篝は肩を落とす。

 落とした肩が、衣擦れの音を少し重くした。


「気味悪くなったんだろうな」


 音音は、しばらく沈黙した。

 外で誰かの足音が遠ざかる。

 その足音が、途中で一度だけ迷う音を立てた。

(……今夜の江戸は、迷いの音が多い)


「……人の想いって」


 音音が、静かに口を開いた。


「消えたと思っても」

「形を変えて、残るものです」

「場所を変えて、また現れます」


 篝は黙って聞いていた。


 音音の胸の内では、

 篝の語った「金色の髪」と「血」と「川」が、

 それぞれ違う音で鳴り続けている。

 その鳴りが、まだ一つの旋律にならない。


「ですから」

 音音は続けた。

「その出来事も」

「何かを伝えようとして」

「ここに残っているのかもしれません」


「……調べてくれるか」


 篝の声は、まっすぐだった。

 まっすぐすぎて、逆に怖い音がする。


「はい」


 音音は、はっきりと頷いた。


「まだ分からないことばかりです」

「ですが」

「揃うまで、確かめます」


 篝は深く頭を下げた。


「頼む」


 座敷を出るとき、篝は一度だけ振り返った。

 その横顔に、行灯の灯が揺れた。

 揺れた灯が、篝の瞳の奥で小さく鳴った。


 花叢座の外で、江戸の夜の音が、再び重なり始める。


 狐面の噂。

 黒い覆面。

 幽霊の目撃談。

 戻ってきた権力者。

 消えた無口な侍。


 音は、まだ揃っていない。


 だが――


 確かに、残っている。


 それを、音音は聞いていた。


【――消えたと思われた音ほど、

 夜の深いところで、

 いちばんはっきりと鳴るのです。】

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