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第九話 四条の影、江戸の灯

【――京の四条は、昼と夜のあいだにあります。

 商いと色、祈りと噂が交わり、

 人の素性が、思わぬところで浮かび上がる場所です。】


「ほんまに、行くん?」


 お夏が、半歩前を歩きながら振り返った。


 源太が鼻で笑った。


「江戸の花魁やて?」


「京におる太夫でも、十分ややこしいのに」


「せやなあ」

 お夏が肩をすくめる。


「花魁いうたら、男の見栄と噂の塊やろ」


「見に行くもんやなくて、遠くから眺めるもんや」

 弥乃があっさり言った。


【京は、噂を遠くへ流す町です。

 ほんまも嘘も、混ざったままに】


 四人は並んで四条河原町へ向かっていた。


 夕刻の四条は、人と物の気配が重なる。

 四条へ近づくにつれ、町の匂いが変わっていく。


 川風に混じる湿った土の匂い。

 白木の店先から漂う新しい反物の香り。

 焼き物の煙と、甘い団子の湯気。


 寺帰りの女と、酒気を帯びた男が、同じ道ですれ違う。

 商人の声に混じって、芸事の稽古唄がどこかから流れてくる。


 ここでは、祈りと商いが同じ顔をしている。

 真面目な話も、色事も、同じ石畳の上を転がる。


「四条はな」

 源太が、いつもより声を落とした。


「京の真ん中やけど、境目や」


「境目?」


「表と裏」

「昼と夜」

「ほんまの顔と、見せる顔」


 お夏が頷く。


「せやから、素性が溶ける」

「溶けきらへんもんだけが、浮くんや」


 市松は、足元の石畳を見た。

 磨かれて、何度も踏まれて、角が丸くなっていた。


「しかしなあ」

 源太が周囲を見回す。


「京で“江戸の花魁”は、

 噂だけで酒の肴になる存在や」


「目立つ気ないなら、もっと奥に潜むやろ」

 お夏が言う。


 市松は、三人の声を聞きながら、少し遅れて歩いていた。


(……篝)


 名前だけが、胸に残る。

 火でも灯でもない、

 “残る光”のような名。


「……あれやな」


 弥乃が足を止めた。


 人だかりの中心に、ひとりの女がいた。


 花魁姿ではない。

 けれど、町娘の着物とも、明らかに違った。


 色は控えめで、柄も静か。

 飾り立てていないのに、目が吸い寄せられる。


 背筋は自然に伸び、

 歩みはゆっくりで、無駄がない。

 誰かに見せるためではなく、

 長い年月、そう在り続けてきた体の使い方だった。


 顔立ちは派手ではない。

 けれど、視線を伏せたときの横顔に、

 刃物のような鋭さと、

 火の名を持つ女らしい、静かな熱が同時に宿っている。


 白粉も引かず、紅も薄い。

 それでも、灯りを受けた肌は柔らかく、

 夕刻の四条の中で、ひとりだけ輪郭が浮き上がって見えた。


 四条の喧騒の中で、

 その女だけが、別の流れで立っていた。


(……派手やない)


 市松は思う。


 けれど、

 “隠しきれない”ものがある。


 声をかけられた町人が、

 つい真面目に答えてしまうのが、遠目にも分かった。


「……あれ、花魁やって?」

 お夏が小さく言う。


「そらそうやろ」

 源太が頷く。


「立ち方が違う」


 そのとき。


「へえ……」


 涼やかで、少し芝居がかった声が割り込んだ。


 人波が、ざわりと揺れる。


 現れたのは、京の太夫だった。


 名は、菊乃きくの


 四条でも名の通った太夫で、

 芸も言葉も一流、

 そして何より――人を試すのが好きな女だ。


 すぐに違和感に気づいたのは、菊乃だった。


 人だかりの向こうに立つ女。

 着物は地味。

 髪も、飾り気がない。


 けれど――


(……立ち方が、違う)


 菊乃は、すぐにそれを悟った。


 あれは、見られる側の立ち方だ。

 しかも、見られることに慣れきっている者の、それ。


 京の太夫にも、遊女にも、町娘にも当てはまらない。

 花街という場所で磨かれたが、

 どこか別の流れを生きてきた女の気配。


(江戸やな)


 確信に近い感覚。


 嫉妬ではない。

 敵意でもない。


 これは――

 縄張りに入り込んだ、正体の分からない異物への警戒だった。


 だから、声をかけた。


「へえ……」


「江戸の風が、えらい遠うまで来はったんやねえ」

 菊乃は、扇を口元に添えて笑った。


 篝は、一瞬、困ったように視線を伏せた。


 最初から目立つつもりはなかった。

 花街に入らず、素顔で立っていたのも、そのためだ。


「……人違いや」

 篝は低く言った。


「まあまあ」

 菊乃が一歩近づく。


「その言い方、江戸の人やわ」


 周囲の視線が、一斉に集まる。


「京でその立ち方、

 “ただの町娘”は通らへん」

 篝は、息をひとつ吐いた。


 逃げるより、隠すより、

 ここは――


 視線を、ゆっくり菊乃へ向ける。


「……ご挨拶が遅れて、すまへんな」


 小さく頭を下げる。


「江戸の、篝や」


 ざわり、と空気が変わった。


「まあ!」

 菊乃は大げさに目を見開く。

「ほんまに名乗らはった」


「静かにしてたかったんやけどな」


「それは、無理やわ」

 菊乃は楽しそうに言う。


「四条は、秘密に厳しい町やさかい」


「……そうですか」


「江戸の花魁が、

 素顔で京を歩く理由なんて」


 菊乃は扇で人波を指す。


「察しがつく、言いたいところやけど」


 篝は肩をすくめた。


「用事があるだけや」


「用事、ねえ」

「江戸の“用事”は、

 だいたい京を巻き込むもんや」

 菊乃がくすりと笑う。


「巻き込んだ覚えは、ありませんけど」

 篝は、あくまで淡々と言った。


「江戸は、話が大きい」

 菊乃が微笑む。

「人も、金も、欲も」


「京は、小さい話を大事にする」

「せやけど、その分、根に持つ」

 篝の言葉に、周囲が小さく息を詰める。


「怖いこと言わはる」

 菊乃は扇で口元を隠す。

「京は、静かなだけえ」


「静かやから、よう響くんや」


 一瞬、視線がぶつかる。


 どちらも、引かない。

 けれど、煽らない。


 花街の女同士の、

 刃を見せない立ち合いだった。


 誰も口を挟めず、下駄の音だけが残った。


 篝は、それ以上は応じなかった。


 代わりに、帯元へ手をやる。


 小さな帯飾り。


 磨かれた金属に刻まれた――

 丸い輪と、一本の横線。


「この印、知らんか」


 菊乃の視線が、一瞬、止まる。


「……知らんわ」


 きっぱりと言う。


「京の紋でも、太夫の印でもない」


「そうか」


 篝は、それ以上追わなかった。


「残念やね」


 菊乃は、少し意地悪く笑う。


「京は、知らんもんに冷たい町や」


 そう言い残し、

 人波の向こうへ消えていった。


 その瞬間。


 市松の懐で――


 ちりん。


 鈴が鳴った。


 四条の音が、遠のく。


 代わりに流れ込む、別の景色。


 江戸の花街。

 格子越しの灯り。

 漆塗りの杯が、静かに重なる音。

 異国の商人と交わす、低い声。

 夏祭りの夜、

 浴衣姿で笑う女の横顔。


(……江戸)


 そして、その中心に――篝がいる。


 誰かと並んで、

 同じ方向を見ている。


(……音音)


 確信が、胸に落ちた。


 篝は、音音の友だ。

 同じ夜を知っている。


「――篝さん!」


 市松は、思わず声を上げた。


 だが。


 篝は、もう人波に紛れていた。


 振り返らない。

 呼ばれることを、予想していたかのように。


「今の、知り合いか」


 源太が聞く。


「……分からん」


 市松は、鈴を握りしめた。


(……なぜ)


 なぜ、篝は江戸から京へ来たのか。


 印を持っているからか。

 誰かを探しているのか。

 それとも――追われているのか。


 四条の灯りが、揺れる。


 篝は消えた。


 だが、

 市松の中で、物語は確かに次の場所へ進んでいた。


 四条の宵は、昼と夜の境目が長い。


 店の軒先では、反物が畳まれ、

 白木の看板が裏返されていく。

 川のほうからは、湿った風と水の匂いが運ばれ、

 行灯に灯が入るたび、道の表情が変わった。


 石畳は昼の熱を残し、

 下駄の歯が触れるたび、

 乾いた音が一定の間隔で響く。


 商いの声、

 笑い声、

 噂話をひそめた囁き。


 それらが溶け合い、

 四条という町は、

 「何も起きていない顔」で、

 いつも何かを見送っている。


 華やかさの裏に、

 秘密と欲と恐れを抱えたまま、

 何事もなかったように夜を迎える――

 それが、京の四条だった。


【――人は、理由も知らずに交差します。

 その中で、

 いくつかの出会いだけが、

 静かに「避けられなかった」と名を変えるのです。】

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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