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第八話 巫女の絵本

【――人は、ひとつの出来事なら「たまたま」で片づけます。

けれど、同じ形が二度、三度と重なったとき、

それは偶然ではなく「狙い」になります。

気づいた者だけが、次に何が奪われるかを考え始めるのです。】


 紗夜がいなくなってから、京の空は少しだけ薄く見えた。

 晴れているのに、晴れの色が弱い。

 鴨川はいつも通り流れて、人はいつも通り歩いているのに、町の息の仕方だけが変わった気がした。


 市松は、紗夜の家の前を通るのをやめた。

 通れるほど強くない、というより――通ったら何かが崩れそうだった。


 狐堂の件は、同心の藤堂 恒一に預けた。

 陰陽師は相変わらず「祟り」を叫んでいたが、藤堂は淡々と人の線を拾っていた。

 あの人の落ち着きだけが、今の市松にとってはありがたかった。


 けれど、胸の奥に残っているものがある。


 紗夜の手鏡。

 裏に刻まれていた、丸い輪と一本の横線。

 そして――鏡が、消えていたこと。


(……持ち物が消えるの、変や)


 ただの物取りなら、金やかんざしに手を出す。

 鏡を「わざわざ」抜く理由がない。


(……それに、女の人ばっかりや)


 噂は、毎日のように耳に入る。

 夜道で倒れていた。

 狐の祟りだ。

 浮いていた、という者までいる。


 市松は思った。


(……狙われてんのは、女の人と、持ち物と、両方や)


 「物」だけを奪うなら、持ち主を殺す必要はない。

 逆に「持ち主」だけを消すなら、物をさらう必要はない。


 両方をやる理由がある。


(……印や)


 ばあさまが遺した鈴にも、同じ印があった。

 紗夜の鏡にもあった。

 そして、鏡は奪われた。


 市松は、家の土間に立っていた父の背中へ声をかけた。


「とっつぁん。ちょい聞きたい」


 父――市次郎いちじろうは、古道具屋の帳面を広げたまま顔を上げた。

 ばあさまがいなくなってから、父はよけいなことを言わないようになった。

 言えば、市松の顔が揺れると知っているからだ。


「なんや。飯か」


「飯ちゃう。印や」


 市松は懐から布を取り出す――まではしなかった。

 見せたくないのではなく、見せると自分が戻れなくなる気がした。

 だから指先で、空に丸と横線を描いた。


「これ、見覚えある?」


 市次郎はしばらく黙り、眉間に皺を寄せた。

 すぐ答えないところが、この人らしい。軽い嘘をつかない。


「……どこで見たかは、すぐ出てこん」


「頼む。思い出して」


 市次郎は、湯呑みをひと口飲んでから言った。


「ばあさまの嫁入り道具に、三面鏡があったやろ」


「三面鏡?」


「そうや。倉にしまいっぱなしの」

「引き出しの取っ手に、似たような彫りがあった気がする」


 市松の背筋がすうっと冷えた。


(……倉)


 父が言い切れないのは、記憶が曖昧だからではなく、倉の中のものを誰も触っていないからだ。

 ばあさまが生きている間、倉は「勝手に開けるな」と言われていた。


「今、見に行く」


「待て。埃で咳が出る」

「戸、ちゃんと開けて、日ぃ入れてからや」


「分かった」


 市松は頷き、草履をつっかけて裏へ回った。



 蔵の戸は重い。

 木が水気を含んで、開けるたびに小さく軋む。

 錠を外し、戸を引くと、冷えた空気が顔に当たった。


 中は暗い。

 古紙と樟脳しょうのうの匂いが混じって、息が少し詰まる。

 市松は提灯に火を入れ、灯りを揺らして棚を見た。


(……どこや)


 蔵の中は、祖母の手で「置かれた順」になっている。

 勝手に動かすと、戻せなくなる。

 だから市松は、目だけで探した。


 奥。

 長い布が掛かった大きな箱。


 三面鏡は、たぶんそこだ。


 布をめくると、黒漆の箱が出てきた。

 角が擦れているのに、手入れはされている。

 ばあさまが「大事にしていた」ものだ。


 市松は箱の前に膝をついた。

 引き出しが一段ついている。


 取っ手の縁。


 そこに――刻みがあった。


 丸い輪の中に、一本の横線。


「……あった」


 息が漏れた。

 声にならない声。


 市松は引き出しを引いた。

 中は空に近い。

 くし(かんざし)も入っていない。


 その代わり、薄い冊子が一冊だけ入っていた。


 絵本だ。


 紙は黄ばみ、角は丸く潰れている。

 糸綴いととじの背が少しほどけ、何度も開かれた跡がある。

 子どもが読む本というより、誰かが「繰り返し確かめた」本の顔だった。


(……ばあさま、これ読んでたんか)


 ばあさまが嫁入り道具と一緒に持ってきたなら、よほどのものだ。

 思い出だけで持ち歩ける年齢は、とっくに過ぎている。

 それでも手放さなかった。


(……理由がある)


 市松は、蔵の中で絵本を開いた。



 絵本の文字は、今の町の読み物より少し古い。

 けれど、内容は短く、まっすぐだった。


 ページを追うと、こんな文章が並んでいた。

 ――絵本の中の言葉。


「むかし、むかし。

 やまがたかく、かわがわかかったころ。

 ちいさな くにが ありました。


 そのくにには、ひとりの みこが いました。

 みこは、しろいぬの きれと、ほそいひもと、

 ちいさな すずを もっていました。


 みこが たつと、かぜは まがり、

 かわのながれが すこし そろいました。

 みこは みなに、

 ただ、みじかく いいました。


『あしたは みずを ふやしなさい』

『こんやは ひを たやさないで』

『しばらく ふねを ださないで』


 ひとは そのことばを ききました。

 そのとおりになるからです。

 だから くには しずかに つづきました。


 けれど、そとから ひとが きました。

『みこのちからだ』

『うばえば うちのものだ』


 ある よる。

 つるぎの おとと、さけびが くにを さきました。

 そして、くには きえました。


 それでも、ちいさな おとだけが、

 どこかへ のこりました。」


 市松は、絵本を閉じられなかった。

 短いのに、胸に重い。


(……これ、ただの昔話ちゃう)


 ばあさまがこれを抱えていたのは、昔話が好きだったからじゃない。

 自分の暮らしに繋がる何かを、ここに見ていたからだ。


 市松は、もう一度ページをめくった。

 挿絵がある。


 山あいの社。

 白い布。

 そして――巫女の掌に、小さな鈴。


 その鈴の胴に、細い線で印が描かれていた。


 丸い輪。

 一本の横線。


 市松の喉が鳴った。


(……鈴にも、印)


 ばあさまの鈴。

 三面鏡の引き出し。

 絵本の鈴。


 同じ印が、同じように並んでいる。


(……印は、家紋やなくて)


 家の印の「形」を借りている。

 もっと古い何かが、そこに重なっている。


 市松は絵本を抱え、蔵を出た。

 夕方の光が眩しくて、目が痛んだ。



 土間で父が待っていた。

 市次郎は、市松の腕の中の絵本を見て、少し驚いた顔をした。


「それ、どこから」


「蔵」

「三面鏡の引き出しに入ってた」


 市松は、絵本を開いて見せた。

 巫女の挿絵。

 鈴。

 印。


「とっつぁん、これ知ってる?」


 市次郎は首を振った。


「知らん。見たこともない」

「ばあさまのもんやろ。わしは触らせてもらってへん」


 市松は、少しだけ息を吐いた。

 父が嘘をついていないのは分かる。


「でもな」


 市次郎が続けた。


「ばあさまの実家が貴船きぶねやろ」

「そっちへ行ったら、何か分かるかもしれん」


「貴船……」


 貴船は、洛中から少し離れた山の方。

 水の匂いが濃い土地だと、ばあさまが言っていた。


「今、あっちには誰が」


「叔父さんがおる」

水尾みお 清十郎せいじゅうろう

「いとこも一緒や。よう遊んだやろ」


 市松の胸の奥が、少しだけ温かくなった。


りんと、さくやな」


 市次郎が笑う。


「凛は口が達者で、お前をよくからかった」

「朔はよう付いて回って、結局お前の真似ばっかりしよった」


(……あいつら)


 市松は、ふっと口元を緩めた。

 笑うつもりはなかったのに、勝手に顔がほどけた。


「行ってみる」


「一人でか?」


「……道は分かる」


 市次郎は、少し考えたあと、短く頷いた。


「明るいうちに出ぇ」

「夜道は、今は特にな」


 市松は返事をしかけて、止めた。

 父も「女ばかり」の噂を知っている。

 だから、言葉が短い。


(……絵本と印と殺し)


 市松の頭の中で、三つが並んだ。


 江戸でも、京でも、女が狙われる。

 持ち物が奪われる。

 印が残る。


(……繋がってる)


 気づきたくなかったのに、気づいてしまった。


(……巫女の話が、今に来てる)


 市松が絵本を包もうとした、そのとき。


 表が騒がしくなった。


 格子戸の向こうで、呼ぶ声が重なった。


「市松ー!」


 幼馴染が三人、どやどやと入ってきた。


 まず、いつも先頭の女――おなつ

 口が早くて、足も早い。噂話を運ぶのも早い。


 次に、荷物を勝手に持ってくる男――源太げんた

 体はでかいのに、心配性で、すぐ眉が下がる。


 最後に、無駄に落ち着いた顔をしているのが――弥乃やの

 本好きで、いつも「まあまあ」と言いながら一番面白がっている。


「お前、家こもってる場合ちゃうで!」


 お夏がいきなり言った。


「なに」


「江戸の花魁や!」

「京で見つかったんやて!」


 源太が被せる。


「人だかりで前へ進まんかった!」

「えらいことなってる!」


 弥乃が、口元だけで笑った。


「しかもな、花魁姿ちゃうのに、花魁や言われてんねん」

「顔立ちと、気配でバレたらしいわ」


 市松は、言葉が出なかった。

 花魁が京にいる?

 そんな話は、見世物にしかならない。


「どこで」


 市松が聞くと、お夏が身を乗り出した。


「四条あたり」

「聞き込みしてたんやって」

「なんの聞き込みかは知らんけど、京の者って暇やから、すぐ騒ぐやろ」


 源太が頷く。


「あれは、わざと騒がれたい感じやない」

「急いでるみたいやった」

「けど、急いでるほど、人が寄る」


 弥乃が、さらっと言った。


「名は“かがり”言う噂もある」

「江戸で名の通った花魁やて」


 市松の指が、無意識に懐の布包みに触れた。

 鈴は出さない。

 けれど、冷たい感触だけが、そこにある。


(……篝)


 知らない名なのに、なぜか胸の奥に引っかかった。


(……このタイミングで?)


 印の絵本を見つけた日に。

 貴船へ行く話が出た日に。

 江戸の花魁が京で騒ぎになる。


 偶然にしては、重なりすぎる。


【――人の足は、理由がなくても動きます。

けれど物語の足は、理由を隠して動きます。

隠した理由が見えたとき、人はもう戻れません。】


 市松は、絵本を布で包み直した。

 父がそれを見て、何も言わずに頷いた。


「行ってくる」


「どこへや」


「……見に行く」

「花魁も」

「それから――貴船も」


 お夏が目を丸くする。


「貴船? なんで急に」


「後で言う」


 源太が慌てる。


「一人で行くんか」


「……誰か来る?」


 市松が言うと、三人が顔を見合わせて、同時に頷いた。


「行くに決まってるやろ!」とお夏。

「危ないし」と源太。

「面白そうやし」と弥乃。


 市松は、少しだけ笑った。


(……ありがと)


 泣けない代わりに、こういう温かさだけが残る。

 それが、今の市松を立たせた。


 市松は戸をくぐる前に、もう一度だけ絵本の挿絵を思い出した。

 巫女の手のひらの鈴。

 あの印。


(……答えは、貴船にあるかもしれん)


 そして、四条には――

 江戸から来た花魁がいる。


(……たまたまなんやろか)


 市松は、胸の奥のざわつきを押さえ込んで、歩き出した。


【――狙いは、形を変えて近づきます。

絵本の中の巫女は、ただ昔話では終わりません。印は、いまも人を呼び、そして人を消します。】

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

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