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第七話 狐堂(後)

【――祟りとは、便利な言葉です。

理由を問わず、疑いを止め、

人の手を見えなくするための言葉です。】


 朝の狐堂は、静かだった。


 夜に満ちていた重たい気配は薄れ、竹林の間を抜ける風が、昨夜の出来事を洗い流そうとしているように見える。

 陽は高く、竹の葉が光を反射し、地面に細かな影を落としていた。


 市松は、ひとりでその場に立っていた。


 紗夜が倒れていた場所。

 狐の像の前。

 祈りのために、毎晩、彼女が立っていた場所。


 同じ場所なのに、夜とはまるで違う。


(……昼は、こんな顔か)


 狐堂は、祟りの場には見えなかった。

 むしろ、よく手入れされた、小さな祈りの場所だ。

 竹垣も、祠も、誰かが長く守ってきた痕跡がある。


 だが――


 市松は、ゆっくりと視線を巡らせた。


 地面。

 竹垣。

 祠の前。

 そして、道の脇。


 割れた香炉の欠片が、まだ残っている。

 破片は片寄っており、踏み散らされた形跡はない。

 香の粉が、地面に薄く、流れたように残っている。


(……焚いた、やない)


 焚いたなら、中心に置かれる。

 人が立つ場所へ、香は広がる。

 だが、粉は道の端に寄っている。


 まるで、最初から「そこ」に置かれていたかのように。


 市松は、竹垣に近づいた。


 竹は、わずかにずれている。

 倒れてはいない。

 折れてもいない。


 だが、揃うはずの線が、ほんの少し乱れている。


(……風の道)


 市松は、竹の隙間に手をかざした。

 ひやりとした空気が、ゆっくりと指の間を抜けていく。


 夜半、この場所には風が溜まる。

 竹林の奥から、細道に沿って、低く、逃げ場のない風。


 香炉。

 香の粉。

 狭い道。

 夜風。


 市松の中で、点が静かに繋がった。



 昼過ぎ、同心の藤堂が再び狐堂に現れた。


「また来ましたか」


 責める声ではない。

 確かめる声だった。


「……すみません」


「いや。ええ」

 藤堂は穏やかに頷く。

「昼の顔を見ておきたかった」


 市松は、香炉の破片を指した。


「これ、焚いたもんやないです」


 藤堂は、しゃがみ込み、破片の位置を確かめた。


「理由は?」


 市松は、地面に残った粉を見つめた。


 「香を焚いたなら、灰はもっと散る。

人が倒れたなら、破片も、足元も、乱れる」


 「けれど、ここは違う」


 「香炉は割れているのに、

 粉は、置かれた位置のまま残っている。

 踏み荒らされた形跡もない」


(……倒れてから壊れたんやない)


 「最初から、ここに置かれていた」


 藤堂は、小さく息を吸った。


「つまり」


「香は、焚くためやない」

「吸わせるためです」


 市松は、竹垣を指し示した。


「このずれ」

「ほんの少しやけど、風が通る」

「夜になると、ここに風が溜まるんです」


 藤堂は、黙って聞いている。


「香を粉にして、香炉ごと置く」

「夜風が吹くと、粉は舞う」

「狭い道に、逃げ場なく溜まる」


 市松は、言葉を選びながら続けた。


「息を止めるほどやなくても」

「歩けなくなる」

「祈ってる最中なら、尚更です」


 藤堂は、ゆっくりと立ち上がった。


「……事故やない」


「仕込みです」


 そのとき、陰陽師が割って入った。


「馬鹿な!」

「香などで人が死ぬものか!」

「それよりも、この地は――」


 陰陽師は、派手な袖を振り上げる。

 香の匂いが、場に広がる。


 藤堂は、視線だけで制した。


「祟りで済ませたほうが、楽でしょうな」

「けど、それでは仕事にならん」


 陰陽師は、鼻を鳴らした。


ことわりでは説明できぬことも――」


「理で足りるうちは、理でやります」


 藤堂の声は、低く、揺れなかった。


 陰陽師は口を噤んだが、不満げに袖を翻す。


 市松は、その様子を黙って見ていた。


 派手な言葉。

 大仰な身振り。

 だが、何ひとつ、紗夜に向いていない。


(……祟りにしたいだけや)


 藤堂が言った。


「この件は、預かる」

「続きは、こちらで詰める」


 市松は、深く頭を下げた。



 家に戻ったのは、夕暮れだった。


 祖母の部屋。

 文箱。

 鈴。


 市松は、まだ触れずにいた。


 だが――


 ちりん。


 鈴が鳴った。


 触れていない。

 風もない。


 次の瞬間、別の町の気配が流れ込む。


 夜道。

 ざわめき。

 女の名。

 狐面。


 浮いているように見える影。

 足元は見えない。


 だが――


 こん。

 こん。


 高い位置で響く音。


(……鳴き声やない)


 市松は、はっとした。


 あれは、下駄の音だ。

 高い位置から、わざと鳴らした音。


 黒い布。

 足元を隠すための布。


 浮いているように見せる細工。


 音音の記憶。

 江戸で解かれた狐面の演出。


(……鈴は)


 市松は、鈴を握った。


(……必要な時に鳴ってる)


 教えるためやない。

 導くためだ。


 行くべき場所へ。

 見るべきものへ。



 夜。


 市松は再び狐堂に立っていた。


 提灯を低く掲げ、地面を照らす。


 昼には見えなかったものが、影の中に浮かぶ。


 地面。


 そこに、深い跡があった。


 普通の草履では残らない。

 一点に重みが集中した跡。


(……高下駄)


 布で隠されていた跡。

 夜の闇に、紛れていたもの。


 市松は、藤堂を呼んだ。


 藤堂は、足跡を見て、黙り込んだ。


「……深いな」


「狐面は、演出です」

「祟りやない」


 藤堂は、ゆっくりと頷いた。


「人の仕業や」


紗夜は、偶然そこにいたわけではない。


 毎晩、ここに来ていた。

 祈りのために。

 それを、誰かが知っていた。


  そして――

 市松は、紗夜の母から、ひとつ聞かされた話に息を呑んだ。


 紗夜が、いつも懐に入れていた手鏡が、見当たらないという。

 身支度のたびに使っていた、小さな鏡だ。

 倒れていた紗夜のそばにも、家の中にも、どこにも残っていなかった。


 市松の胸に、嫌な感触が広がる。


 その手鏡の裏には、彫り込まれた印があったそうだ。


 丸い輪の中に、一本の横線。


 市松は、思わず自分の懐に手をやった。

 ばあさまから託された鈴。

 その胴に刻まれた印と――同じ。


 偶然とは、思えなかった。


(……奪うためだけやない)


 印は、目印だ。


 ――


 印のついた物を持つ女たちが消され、


 印のついた物が奪われている。


 京でも。

 江戸でも。


 市松は、鈴を握りしめた。


 冷たさが、はっきりと残る。


(……何か理由がある)


 祟りではない。

 偶然でもない。


 狙われているのは、

 印と、その印を持つ女たち。


【――謎は、解かれるたびに、

より深い場所を指し示します。

少年は、もう後戻りできません。】

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