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第六話 狐堂(前)

【――みやこの夜は、闇が深いわけではありません。

灯はあります。人もいます。

けれど「隠す」ことだけが上手で、

見えるはずのものが、見えないまま残ります。】


 ばあさまの葬いが済んでから、市松の家は、少しだけ形を変えた。

 同じ格子戸。

 同じ井戸。

 同じ竈。

 同じ土間。


 けれど、ばあさまが座っていた場所だけが、いつも空いている。

 空いているのに、そこだけが目につく。


(……おるみたいや)


 思ってすぐ、打ち消した。

 京では、こういう「言い方」を口に出すと、余計に戻れなくなる気がした。


 朝の洛中は、白い。

 霧というほど濃くはないが、空気が薄く膜を張ったように町を包む。

 鴨川の水は静かに流れ、遠くの寺の鐘が、遅れて届く。

 音が重なりすぎて、ひとつひとつを確かめる気になれない。


 店は閉めていない。

 閉めるほど余裕はないし、閉めてしまうと、ばあさまがいなくなったことが町に馴染みすぎる。

 馴染んだら、終わりになる。

 何が終わるのか分からないまま、終わってしまう。


 市松は、朝のうちに帳面を整理し、昼は客の応対をした。

 古道具屋の客は、品物より話を買いに来る者が多い。

 買う理由を話したい。

 捨てられない理由を正当化したい。

 京の暮らしは、言葉で回っている。


 そして――噂も、言葉で回る。


 昼下がり、店先で聞いた噂が、市松の足を止めた。


「またやって」

「女の人やろ」

「夜道で、倒れてたて」


 声を落として話す女たちの顔が、いつもより硬い。

 京の女は、噂話のときほど、感情を表に出さない。


「狐の祟りや言うてる人もおる」

「こん、て鳴いたとか」

「浮いてた、とか」


 市松は、何気なく聞き流すふりをした。

 噂話自体は珍しくない。

 だが――


(……女ばっかり)


 その言葉だけが、胸に残った。


 ばあさまが亡くなってから、鈴が勝手に鳴った夜。

 流れ込んできた、音音という名の少女の音。


 それらが、うまく言葉にならないまま、胸の奥で重なった。


 夕方、店を閉める支度をしながら、ふと紗夜(さや)の顔が浮かんだ。


 従姉妹の紗夜。

 同い年で、幼いころから一緒に育った。

 血縁の「従姉妹」というより、町の中で呼吸を揃えてきた「幼馴染」だ。


 紗夜は、よく笑う。

 笑い方が、遠慮しない。

 京の女にしては珍しく、言うことがはっきりしている。


「市松はな、顔が困ってるとき、眉毛が先に困る」


 昔、そう言って、腹を抱えて笑われた。

 その時の悔しさと、悔しいのに笑ってしまった自分の情けなさまで、今でも覚えている。


 昼に聞いた噂を、あの娘はどう聞くだろう。

 笑って済ませるか。

 それとも、あの妙に静かな顔をするか。


 理由ははっきりしない。

 けれど、今日はなぜか、胸が落ち着かなかった。

 ばあさまのこと、鈴のこと、噂のこと――

 どれも話さなくていい。

 ただ、声を聞きたくなった。


(……顔、見とこ)


 それだけで、十分だった。


 夜の町は、昼よりも輪郭がはっきりする。

 提灯の灯が、道の端を切り取る。

 影が、意志を持ったように伸びる。


 石畳は昼の熱を失い、足の裏にひんやりと返ってくる。

 軒先の暖簾が、わずかに揺れ、どこかで三味線の音が途切れた。


 紗夜の家の格子戸を叩くと、すぐに戸が開いた。


「……市松?」


 母親の声は、少し掠れていた。

 灯の下で見る顔は、思ったより疲れている。


「こんな時間に、どうしたん」


「昼、噂聞いて」

「紗夜、大丈夫か思て」


 母親は、一瞬だけ言葉に詰まった。


「……昼から、帰ってへん」


 胸が、きゅ、と縮んだ。


「どこ行ったか、分かる?」


 母親は、少し迷ってから言った。


「夜になったら、よう出ていく場所がある」

「竹林の奥や」


 それだけで、市松は察した。


「……狐堂?」


 母親は、小さく頷いた。


「止めたんやけどな」

「あの子、最近、毎晩みたいに」


 その言葉の裏に、母親自身も理由を知らされていないことが滲んでいた。


 市松は、それ以上聞かなかった。

 聞くと、戻れなくなる気がした。


「行ってくる」


 そう言って、すぐ踵を返した。


 竹林へ向かう道は、町の音が薄れていく。

 人の声が消え、代わりに、竹が風に触れる音だけが残る。


 月は高く、けれど竹の葉が光を細かく刻み、地面はまだらだ。

 影が重なり、どこまでが道で、どこからが闇なのか分からなくなる。


 狐堂へ続く細道。

 苔の匂いと、湿った土の気配。

 提灯の灯が届くぎりぎりの場所。


 祠は、小さい。

 けれど、長く手入れされていないのが分かる。

 狐の像は、口元が欠け、目の奥が暗い。

 供え物の器だけが、場違いに新しい。


 そこで、市松は足を止めた。


 誰かが、倒れている。


 走り寄る前に、分かってしまった。


(……紗夜)


 声は出なかった。

 名を呼ぶと、確定してしまう。


 紗夜は、竹林の入口近くで横たわっていた。

 仰向けで、片手が胸の前にある。

 まるで、最後まで祈ろうとしていたみたいに。


 眠っているようにも見える。

 けれど、胸が動いていない。


 市松は、膝をついた。


「……なんでや」


 答えは返らない。


 少し遅れて、同心が駆けつけた。

 藤堂 恒一。

 京の同心らしく、物腰が柔らかく、声を荒げない男だ。

 現場に入る前、必ず一拍置く癖がある。


「触らんといてください」


 その言い方も、命令というより、頼みに近い。


 その横で、陰陽師の男が大仰に袖を振った。

派手な狩衣。

香の匂いが強すぎて、場に合っていない。


「ほら見なされ」

「狐の祟りですな」


 男は、わざとらしく周囲を見回した。


「昨夜、この辺りで“例の狐面のもののけ”を見た者がおるそうで」

「高い声で、こん、と鳴きながら」

「ゆらゆらと、浮いておったとか」


 陰陽師は、いかにも尤もらしく頷く。


「このあたり、昔からそういう話が絶えませぬ」

「人のことわりでは測れぬものが、出る場所なのです」


 藤堂は、ちらりと一瞥しただけで遮らなかった。

 止めるより、言わせておくほうが楽だと知っている顔だ。


 市松は、何も言わなかった。

 今は、言葉が邪魔だった。


 周囲を見回す。


 竹林は静かだ。

 風が弱く、葉がほとんど動いていない。

 なのに、どこか空気が澱んでいる。


 道の脇に、割れた香炉の欠片があった。

 粉が、地面に薄く残っている。

 踏み荒らされた様子はない。


 提灯は倒れていない。

 足跡も乱れていない。


 そして――

 竹垣が、少しだけ歪んでいた。


 倒れてはいない。

 折れてもいない。

 ただ、そこだけが、微妙に揃っていない。


 意味は、分からない。

 だが、目に引っかかった。


 紗夜の母は、現場で泣き崩れた。


「あの子……」

「毎晩、あそこへ行ってたんです」


 藤堂が、静かに聞く。


「理由は?」


「分かりません」

「聞いても、いつも」


 母は、涙を拭いながら言った。


「“なんとなく”って」


 市松は、その言葉を聞いて、胸が詰まった。


 あの言い方は、紗夜が大事なことを抱えている時の顔だ。

 軽く流すための言葉じゃない。


 藤堂が、祠を見た。


「毎日、ここへ来てた?」


「はい」

「夜になると」

「長い時間、手ぇ合わせて」


 竹林の奥で、祈りの時間だけが、毎日繰り返されていた。


 それだけで、空気が変わった。


 誰かが、それを知っていたのか。

 それとも、偶然なのか。


 まだ、分からない。


 夜更け、市松は家へ戻った。


 祖母の部屋の襖が、やけに目につく。


 文箱。

 鈴。


 意味の分からない印。


 そのとき――


 ちりん。


 鈴が、勝手に鳴った。


 次の瞬間、別の町の気配が流れ込む。

 

 江戸の街並み。

 夜道。

 女たちの名。

 狐面の影。

 祟りだと囁く声。


 江戸でも、同じだ。

 女ばかりが、同じように。


 そして、必死に「違う」と思う、少女の感情。

 理で、嘘を剥がそうとする焦り。


 市松は、息を止めた。


(……江戸でも)


 紗夜だけじゃない。

 京だけじゃない。


(……これは、祟りなんかじゃない)


 別々の場所で、別々の人が死んでいる。

それなのに、同じ糸が、どこかで引かれている。


 紗夜の死も、きっと。


【――謎は、解かれる前に人を選びます。

少年はまだ、何も知りません。

けれど、少年はもう選ばれていました。】

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