第五話 京の少年
舞台は京都へ。ここからは、江戸と京都の物語が複雑に絡み始めます。お楽しみください。
【――京は、重なりを隠す町です。
川、寺、人、季節。
それぞれが互いを覆い、
違和感は、気づいた者の中だけに残ります。】
洛中の朝は、白く霞んで始まる。
山の影がまだ低く、鴨川の流れは冷たい。
石畳を下駄が行き交い、格子戸の隙間から朝餉の匂いが漂ってくる。
市松は、井戸へ向かう途中で足を止めた。
「……聞いた?」
「またやって」
「女の人ばっかりらしいで」
道端で、年嵩の女たちが声を落として話している。
朝の世間話にしては、表情が硬い。
「夜やったて」
「狐の祟りや言う人もおる」
市松は、特に口を挟まず、その横を通り過ぎた。
噂話は京では珍しくない。
だが、なぜか胸に引っかかるものが残った。
(……また、女の人)
理由は分からない。
ただ、「また」という言葉が気になった。
少年――市松は、井戸端で手を洗っていた。
水を汲む桶の音。
柄杓が木に当たる乾いた音。
それらはいつもの朝の並びで、京の町はいつも通りに目を覚ましている。
市松は、手を拭いながら空を見上げた。
雲が薄い。
今日は晴れる。……そんな当たり前のことを思って、すぐに打ち消した。
(天気なんて、誰だって分かるやろ)
昔、ばあさまが言っていた。
京は、空より人の顔色で天気が変わる町だ、と。
誰かの機嫌が悪ければ、朝の挨拶ひとつで曇る。
誰かが笑えば、いつもより灯が明るく見える。
市松は、笑えなかった。
家へ戻ると、障子の向こうが静かすぎたからだ。
寝所にいるばあさまは、昨夜から咳が増えた。
咳の音は、短く、乾いている。
止まったあとに残る息が、やけに薄い。
「ばあさま」
市松が声をかけると、内側から返事があった。
声はまだ、ばあさまの声だった。
けれど、音の張りが少しだけ弱い。
「……市松かい」
「水、替えよか」
「ええよ。……あんたの手ぇ、冷たくなる」
ばあさま――お房は、笑ったつもりで口元を動かした。
京の女らしく、無駄に心配させない顔を作る。
でも、その「作り方」が、今朝は少し乱れている。
(無理してる)
市松は、湯を沸かした。
竈の薪が弾ける。
鉄瓶が鳴る。
湯気が立ち上がる音が、部屋の中を埋めていく。
ばあさまは、湯飲みを受け取って、ゆっくり口をつけた。
喉を通る音が、いつもより小さい。
そして、少し間を置いて言った。
「……あんた、今日は店、行きな」
「行かへん」
「行き」
「ばあさま、咳――」
「咳ぐらいで死なん」
そう言うくせに、祖母の目は笑っていない。
市松は、黙って障子を閉めた。
隙間風の音が消える。
部屋が、少しだけ温かくなる。
ばあさまの家は、表向きは小さな古道具屋だった。
紙や筆、古い簪、割れた茶碗、古書の端。
品物はばらばらだが、ばあさまの手にかかると、どれも「使える顔」になる。
そして、ばあさまは人の話をよく聞く。
洛中の噂話、寺の揉め事、奉行所の動き。
知ろうとして集めているのではなく、勝手に集まってくる。
市松はその横で、帳面をつけたり、荷を運んだりするだけだ。
ただ、ばあはまが時々、意味の分からない言い方をするのが、昔から気になっていた。
「よい音がする品物だ」
とか。
「変な音は、変な縁を呼ぶ」
とか。
(ばあさま、何言うてんねん)
笑って流してきた。
でも、今朝の静けさは、流せない。
市松は、ばあさまの枕元に小さな盆を置いた。
梅干しと、薄い粥。
ばあさまが好きだった塩昆布も、少しだけ添えた。
「食べて」
「……あとで」
ばあさまは言いながら、布団の端に手を伸ばした。
何かを確かめるように、指先で布を探る。
そして、見つからないと分かると、目だけが少し困った。
「……市松」
「なに」
「文箱、そこ」
ばあさまが顎で示したのは、部屋の隅にある古い文箱だった。
木目が潰れ、角が擦れている。
ばあさまが大切にしているのは、見れば分かる。
「開けたらあかんやつやろ」
「今日は……ええ」
ばあさまの声が、少しだけ弱くなる。
「……もしも、の話や」
市松の喉が、ひゅ、と鳴った。
「もしも、て、縁起でもない」
「縁起はね、言うて備えるもんや」
市松が文箱を運ぶと、ばあさまは自分で蓋を開けた。
中から、布包みをひとつ取り出す。
包みをほどくと、小さな鈴が現れた。
古いが、状態はいい。
市松は、なぜか目を離せなかった。
「これな」
ばあさまは言った。
「我が家の家紋と、同じ印や」
鈴の胴に刻まれた、丸い輪と一本の横線。
「この印のついたもんはな」
「昔から、不思議な力がある言われとる」
理由は語られなかった。
由来も、誰のものかも。
ばあさまは、鈴を市松の手に乗せた。
「……あんたに、託す」
「ばあさま?」
「誰かが困っとったら」
「力になっておやり」
ばあさまは、そこで目を開けた。
まっすぐな目だった。
市松は、その目の強さに押されて頷くしかなかった。
「わかった」
「……ええ子や」
ばあさまは、息を吐いた。
その息が、風が抜ける音みたいに細い。
【――京の朝は、何事もない顔をします。
けれど、いつもと違う何かが静かに始まっていることもあります。】
その日の昼過ぎ、はまあさまは眠るように息を引いた。
急ではない。
けれど、止まるときは、静かだった。
医者を呼ぶ声が上がる前に、ばあさまの音は消えた。
咳も、息も、布の擦れも。
ただ、部屋の中だけが、妙に広い。
(……終わった)
市松は、終わり方が分からなかった。
泣き方がわからなかった。
喉が固く閉まる音だけが鳴っていた。
近所の者が集まり、手が動き、段取りが進む。
葬いの支度は、町の仕事のように淡々としていた。
京は、悲しみを見せすぎない。
見せすぎると、生活が詰まるからだ。
通夜が終わり、香の匂いが薄れる頃、
市松は一人でばあさまの部屋に戻った。
文箱は閉じたまま。
鈴は布に包まれている。
そのときだった。
――ちりん。
市松は顔を上げた。
鈴が鳴った。
誰も触れていない。
次の瞬間、
頭の中に、見知らぬ音が流れ込んできた。
板を踏む音。
遠い拍手。
布が擦れる音。
誰かが笑う、喉の奥の音。
それから、息を詰める音。
水が跳ねる音。
泥が沈む音。
「こん」と乾いた音。
市松は、息を止めた。
(……なんや、今の)
耳で聞こえたというより、頭の内側に落ちた。
音だけが、順番もなく押し寄せる。
意味がないのに、生々しい。
景色は浮かばない。
顔も見えない。
ただ、音音という少女の「その時の音」だけが、胸に流れ込む。
もう一度鈴が鳴った。
ちりん。
また、市松の中に音が流れ込む。
今度は、少し違った。
茶碗が置かれる音。
箸が止まる音。
誰かが小さく息を飲む音。
それから、子どもの笑い声のような音――いや、笑いではない。
「にひひひひ」と転がるような音。
ふざけたような?
(音音……誰や……)
市松は、鈴を握りしめた。
掌が冷える。
冷えが骨に残る。
音の最後に、ひとつだけ、はっきりしたものがあった。
誰かの声でも、鐘でもない。
胸の奥で「届いて」と言っているような、妙な余韻。
(意味が分からん)
分からないのに、鈴を置けない。
気味が悪いはずなのに、手放してはいけない気がした。
市松は、鈴を布で包み直した。
包む音が、やけに丁寧になる。
ばあさまが包んだ手つきが、指に移ったみたいだった。
そして、懐に大事にしまった。
【――意味が分からない音ほど、残ります。
分からないからこそ、心が勝手に探し始めるからです。】
その夜、市松は眠れなかった。
ばあさまの布団の匂いが、まだ部屋に残っている。
香の残り香と、古紙の匂いと、湯気の名残。
それらが混ざって、ばあさまの家の音を作っている。
市松は、布団の中で天井を見た。
(ばあさま、なんで鈴をくれたんや)
(困ってたらって、どんな困りごとや)
答えはない。
けれど、鈴は確かに、何かを流し込んできた。
誰かの記憶の音。
知らない町の音。
知らない少女の息の音。
夜半、厠へ行こうと、市松はそっと立ち上がった。
人が寝静まった家の廊下は、昼とはまるで別の場所のように感じられる。
板の軋みがやけに大きく聞こえそうで、足の裏に力を込められない。
懐には、あの鈴が入っている。
重くもないはずなのに、そこだけが妙に冷たい。
(……早よ戻ろ)
用を済ませ、灯を持たずに廊下を戻る途中だった。
――ふと。
ばあさまの部屋の前で、空気が変わった気がした。
誰かが、いる。
確信はない。
足音も、声も、聞こえなかった。
ただ、戸の向こうに「自分以外の意志」がある、と体が先に察してしまった。
市松は、息を止めた。
その瞬間、
――す、と襖が動いた。
ゆっくりと、音を立てないように開く。
中から現れたのは、侍だった。
月明かりに浮かぶ顔は、狐面。
白く、感情のない面が、市松の方を向いた気がした。
(……見られた?)
心臓が、一度だけ強く打った。
考えるより先に、体が動いた。
市松は身を翻し、縁側の下へ転がり込む。
腹ばいになったまま、息を殺す。
土の冷たさが、じわりと腹に染みた。
侍は、縁側の上を歩いた。
足取りは静かで、迷いがない。
部屋の中から、物が動く気配が伝わってくる。
引き出しを開ける。
箱をずらす。
畳を押す。
(……探してる)
それも、盗みではない。
金目のものを漁る音ではなかった。
「決まった何か」を確かめるような、手順のある動き。
市松は、無意識に懐へ手を伸ばしかけ、慌てて止めた。
(……動いたら、終わる)
時間が伸びた。
一息が、やけに長い。
やがて、侍は動きを止めた。
探し物が見つからなかったのか、
あるいは、目的が果たされたのか。
分からないまま、
襖が閉じ、足音が遠ざかっていった。
完全に気配が消えるまで、
市松は縁側の下から動けなかった。
夜が明けるまで、
冷えた土の上で、体を小さく丸めたまま震えていた。
⸻
朝、同心を呼んだ。
ばあさまの部屋は荒らされていた。
だが、金も、品物も、何一つ失われていない。
市松は、懐の中に手を入れた。
鈴は、そこにあった。
(……これや)
探されていたのは、これだ。
盗まれなかったのは、
見つからなかったからか。
それとも――見つけられなかったからか。
理由は分からない。
だが一つだけ、はっきりしたことがある。
自分は、もう「無関係」ではない。
市松は、鈴を握りしめた。
冷たさが、今度は逃げ場のなさとして残った。
【――鈴は鳴ります。
けれど、少年にはまだ意味が分かりません。
それでも、物語はすでに彼を選び、
引き返せない場所へ、静かに連れ出していました。】
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