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第四話 簪の印

【――事件は「捕まえた」で終わりません。

残った空白は、翌朝になっても埋まらず、むしろ輪郭だけを濃くします。

江戸の夜が隠したのは、犯人ではなく「狙い」です。】


 清次が兵馬に連れて行かれたあと、花叢座は、ひどく静かになりました。

 人がいなくなったからではなく、皆が「余計な音」を出さないようにしている静けさです。


 音音は部屋へ戻り、文箱の前に座りました。

 障子の向こうでは、夜の虫が鳴いている。

 廊下の先で、誰かが足袋を脱ぐ音。

 水を張った桶の、静かな揺れ。


 音音の中では、それらがまず「音」として落ちてきて、それからやっと、景色や出来事として並びます。


(……兵馬さんの声、いつもより少し低かった)

(……清次さんは、怯えていた。嘘じゃなくて、怖かったんだ)


 でも、いちばん残っているのは、別のところでした。


 ――簪。


 お紺の首の後ろに刺さったはずの簪が、消えていた。


(……抜いて持っていく?)


 胸の奥で、ひやり、と音が鳴ります。

 冷たい音。

 あの路地の湿りを、もう一度だけ思い出す音。


 音音は、昨夜の兵馬の言葉を反芻はんすうしました。


「死人に手を出す物取りだろう」


 たしかに、路地裏にはそういう人間がいる。

 盗めるものは盗む。

 死人なら、文句も言わない。


 けれど。


(……でも、首の後ろだよ?)

(……しかも刺さってたんだよ?)


 暗い路地で、倒れている人の首の後ろに手を入れて、刺さっている簪を抜く。

 普通なら、恐さが勝つ。

 もし犯人がまだ近くにいたら。

 もし誰かが、物音に気づいて戻ってきたら。

 ――その可能性が、頭に浮かんだ時点で、手は止まるはず。


(……物取りなら、もっと簡単なものを拾う)

(……帯留めとか、懐とか、袖口とか)

(……わざわざ“そこ”を抜く?)


 音音は、畳の冷たさを「低い音」として感じながら、ゆっくり息を置きました。


(……清次さんに殺しを頼んだ侍)

(……頬に十字の傷)


 清次が狐面を被って脅した夜。

 清次が逃げた、と言った夜。

 お紺が尻餅をつき、提灯が倒れ、簪が刺さった――その後。


(……もし侍が近くで見てたなら)


 清次がやるかどうか。

 やらないなら、どうするか。

 その結果を、確かめる必要がある。


 そして、清次が逃げたあと――

 お紺が事故で倒れて、動かなくなったのを見た。


(……そのとき、簪を抜いた)


 それなら、腑に落ちる。

 恐さより先に、「目的」が動く。

 しかも、その目的は「盗み」ではなく「回収」だった。


(……侍の目的は、お紺さんを殺すこと)

(……それと、簪を手に入れること)


 音音は、思わず指を握りしめました。

 爪が掌に当たる音が、小さく鳴る。


(……簪って、そんなに大事?)


 形見だと言っていた。

 いつも同じものをつけていた、と清次は言った。

 ただの銀細工にしては、侍が動くほどの価値があるのか。


(……価値じゃない)

(……意味だ)


 胸の奥で、音がひとつ、重なりました。

 まだ旋律ではない。

 けれど、同じ高さで鳴る音。


(……確かめたい)


 答えを焦ると、音が乱れる。

 乱れると、聞きたいものが聞こえない。


 音音は、灯を落として布団へ潜り込みました。

 目を閉じても、闇はただ暗いだけではない。

 闇の中には、置かれたままの疑問が、静かに息をしています。


【――夜の疑問は、朝になると「用事」に変わります。

用事になった疑問は、人を動かします。】



 翌朝。


 花叢座の朝は、いつも通りの支度の音で始まりました。

 桶に水が落ちる音。

 かまどの薪が弾ける音。

 衣裳部屋で紐が締まる音。


 音音はその中で、ひとつだけ違う音を聞きました。

 自分の胸の奥で鳴る、昨日の続きを探す音。


(……小道具屋へ行こう)


 朝餉あさげを済ませると、音音は長老にだけ短く告げて、町へ出ました。

 弥吉がついて来ようとしましたが、


「近いから」


 と音音が言うと、弥吉は不満そうに鼻を鳴らして引き下がりました。


 小道具屋の店先は、朝の匂いがしていました。

 削り屑の香ばしい音。

 漆の甘い音。

 布を広げる、乾いた音。


 それらが音音の胸に落ちたあと、ようやく「店」が見える。


 帳付け役の文が、戸口に立っていました。

 目元が少し赤い。

 でも、昨日より声は落ち着いている。


「……音音ちゃん」


「文さん」


 音音は、言葉より先に「文の息の置き方」を聞きました。

 まだ痛い。

 でも、仕事の息に戻ろうとしている。


(……無理してる)


 音音は、余計な慰めを言いませんでした。

 慰めの言葉は、時々、相手の傷に触れます。


「……お紺さんの簪のこと、聞きたい」


 文の目が揺れましたが、頷きました。


「……覚えてます」


 文は、店の奥の引き出しを開け、何かを探すように指先を動かします。

 その動きは落ち着いているのに、引き出しの木がきしむ音だけが少し強い。


「お紺さんの簪は……銀でした」

「派手じゃないけど、光り方がきれいで」

「それと――」


 文は、言葉を探すように一拍置いてから言いました。


がらがありました」

「丸い輪の中に、一本の横線」

「……お紺さん、その柄が可愛いって言ってた」


 音音の胸が、強く鳴りました。


(……え?)


 鈴の印と同じ。

 そう思った瞬間、胸の奥で「鈴の冷たい音」が跳ねます。


(……まさか)


 音音は、袖から筆を取り出しました。

 小道具屋の帳場には、墨と半紙くらいはある。

 文が無言で墨を差し出してくれる。


 音音は、半紙に、ゆっくり印を書きました。


 丸い輪。

 その中に一本の横線。


 書き終えた瞬間、紙の繊維が鳴る。

 その鳴りが、なぜか鈴の音に似て聞こえました。


「……これ?」


 音音が差し出すと、文は目を見開いて、すぐ頷きました。


「それです」

「……同じです。お紺さんの簪と」


 音音の喉が、ひゅ、と鳴ります。

 息が冷える音。


(……鈴と簪が、同じ印)

(……侍は、簪を“回収”した)

(……じゃあ、印のついた道具が狙われてる?)


 鈴。

 簪。

 丸い輪と横線。


(……まだ他にもあるのか)


 けれど、そこまで考えたところで、音音は息を置きました。


(……今ここで考えても、増えるだけだ)

(……増えたら、音が散る)


 音音は文に頭を下げました。


「教えてくれて、ありがとう」


 文は、少しだけ唇を震わせてから、小さく頷きました。


「……音音ちゃん」

「お紺さん、あなたのこと好きでしたよ」

「……あなたが来ると、店の音が明るくなるって」


 音音は返事をしようとして、言葉を飲み込みました。

 胸の奥がきゅ、と鳴ってしまったから。


(……今は、泣く時じゃない)


 音音は、手を振って店を出ました。


【――偶然で済ませられないものが、次の事件の入口になります。】



 花叢座へ戻る道。

 町の音はいつも通りなのに、音音の中だけが少し違う。


 売り声が高い。

 車輪が重い。

 水面の光が、薄く鳴る。


(……鈴と同じ印)

(……なんで簪に)

(……なんで侍が欲しがる)


 考えても仕方ない、と自分で言ったのに、音は勝手に並び替わろうとします。


(……よし。次は腹だ)


 音音は、昨夜買った袋を引っぱり出しました。


 乾いた香の音のする袋――干しほしあわび

 潮の音が、紙の内側で鳴っている。

 触るだけで「硬さの音」がする。


 もうひとつ、酸っぱい音のする袋――酒粕さけかすに漬けたかぶ古漬ふるづけ

 袋の口を開けた瞬間、つん、と鼻の奥で音がはねました。


(……最高)


 音音は、思わず肩をすくめて口元を緩めます。


「にひひひひ」


(たまらん)


 まず干し鮑を一枚。

 口に入れると、きゅ、と歯の奥で音が鳴りました。

 硬い。

 でも嫌じゃない。

 硬さの奥に、潮の甘い音がじわっと出てくる。


(……噛むほど、うまい音が増える)


 音音はゆっくり噛み、舌の上で「旨みの音」が広がるのを聞きました。

 遠くの海が、畳の上に来たみたいな音。


(染みる〜)


 次に蕪の古漬け。

 ひと口で、酸っぱさの音がぱん、と跳ねました。

 そしてすぐ、酒粕の丸い音が追いかけてくる。


(……酸っぱくて、丸い)

(……なにこれ、面白い)


 舌の上で音が追いかけっこをしている。

 酸っぱさが先に走り、粕が後ろから抱きしめる。

 最後に蕪の甘い音が、ちょこん、と座る。


 音音は、箸を止めずに独り言をこぼしました。


「これは……」

「酸っぱくて、しゃんとしてて」

「でも、あとで、ふわってなる」


(……言葉にすると変だな)


 でも変でもいい。

 美味しい音は、変な言葉になりやすい。


 音音はもう一枚干し鮑を口に入れ、もう一口蕪を噛み、勝手に頷きました。


(……うまい)

(……江戸の事件より、今はこっちがいい)


にひひひひ。

 喉の奥で笑いが鳴り、やがて静まりました。


 音音は、空になりかけた袋を畳の端へ寄せ、ゆっくり息を吐きます。

 部屋の中は、さっきまでと同じはずなのに、どこか音の輪郭が澄んでいました。


 (――静かすぎる)


 耳を澄ますと、遠くの水音。

 木が軋む音。

 夜の江戸が、呼吸を整えているみたいな音。


(今回の件。

まだ、足りない音があるけど、少しは旋律になった気がする)


(……鳴らそう)


 音音は文箱を引き寄せ、布包みをほどきます。


 例の印が刻まれた鈴。


 小さくて、冷たくて、軽い。


 掌に乗せた瞬間、金属の冷えが、すうっと腕を上ってきました。


 ちりん。


 澄んだ音。

 丸くて、細くて、遠くまで伸びる音。


 音は、部屋の中で止まりませんでした。

 障子を抜け、

 屋根を越え、

 夜の江戸へ、静かに溶けていく。


 胸の奥が、すっと空き、

 涼しい風が通った気がしました。


 誰に、とは分からない。

 どこへ、とも分からない。


 ただ、

 この音は届いた気がしました。


 音音は、鈴をそっと布に戻します。


(……にしても、

干し鮑と蕪の古漬け、うまい!)


【――珍味の袋は空になります。

けれど疑問の袋は、簡単には空になりません。】

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