第三話 狐の祟り(後)
【――夜は、昼に隠れたものを浮かび上がらせます。
言い訳は闇に溶け、
残るのは「置いたもの」と「動いたもの」だけです。】
小道具屋の裏手を出て、花叢座へ戻る道すがら。
音音の胸の奥には、まだ路地の湿りが残っていました。
灯の少ない町は、音が先に来ます。
桶を引く音。遠い咳。水路の匂いが立つ音。
そして――人が「見えないふり」をする音。
(……あの人たち、みんな同じこと言ってた)
同じ歌を知っている。
お紺を知っている。
帰りが遅くなったのも、残ったのも、覚えていないのも。
(……でも、どれも、ちょっとずつ違った)
違いは言葉じゃない。
声の置き方。間。息の戻り。
音は揃っているのに、底が揃っていない。
音音は、歩きながら指先で文箱の鍵紐を触りました。
(鈴は、今夜は鳴らさない。
まだ、音が旋律にならないから)
花叢座へ戻ると、裏の戸口に弥吉が立っていました。
腕を組んで、いつもより無口。
「お前、遅え」
「……兵馬さんと」
「知ってる」
弥吉はそれ以上言わず、視線だけを横へ動かしました。
そこにいるのは佐久間兵馬。
同心の顔のまま、でも花叢座の空気に合わせて声を落としています。
「音音。今夜は――」
「一人で帰るな、だろ」
弥吉が先に言って、兵馬は苦笑しました。
「話が早いな」
兵馬は、音音を見ました。
目は軽くない。けれど言い方は軽い。
「さっきの現場、なにか掴んだ顔だった」
音音は首を振ります。
「掴んでない。……引っかかっただけ」
「それで十分だ」
兵馬は短く言いました。
【――同心は、確かな証より先に、違和感を拾います。
違和感は、まだ証ではありません。
けれど、証になる前に消されることがあります。】
「買い物でもあるのか」
兵馬が問うと、音音は小さく頷きました。
「珍味。明日の朝に食べたい」
「朝に?」
「朝だから」
弥吉が横から溜息をつきます。
「……護衛は俺でいいだろ」
「お前、護衛って、子供じゃねえか」
「うるせえ」
(……また始まった)
音音は、二人に先立って、一座の門を出ました。
弥吉と兵馬は少し離れてついて行きます。
町はもう遅い。
それでも夜店の残り灯が、ところどころに小さく鳴っています。
買い物はすぐに済みました。
乾いた香の音のする袋。
それは、干し鮑を薄く削ったものでした。
噛めば、きゅ、と音が鳴りそうなほど硬く、
潮と旨みが、ゆっくり舌に残る珍味です。
もう一つは、
酒粕に漬けた蕪の古漬け。
袋の口から、つん、と酸っぱい音が立ち上り、
鼻の奥を軽く叩きます。
(……いい音)
音音は、思わず足を止めました。
乾いて、締まった音。
酸っぱくて、跳ねる音。
どちらも、夜の口にちょうどいい。
音音は袋を抱え直し、
肩をすくめるようにして、にやりと口元を緩めます。
「にひひひひ」
(今日は、当たりだ)
喉の奥で、笑いの音が転がりました。
少し離れた所から、
兵馬と弥吉が呆れた顔で見ています。
その瞬間でした。
前の方で、空気が一枚、剥がれました。
音が、冷える。
(……来た)
兵馬が、ほんの一歩、前へ出ました。
弥吉の呼吸が短くなる。
路地の奥。
灯の届かない闇の中で、何かが、すっと立った気配。
――こん。
乾いた音が一つ鳴りました。
(……あの音)
次の瞬間。
白いものが、闇から浮かび上がりました。
狐面。
月明かりを受けて輪郭だけが白く浮き、
たしかに、足がない。
まるで――宙に顔だけが現れたようでした。
狐面が、こちらへにじり寄る。
息が、ひとつ遅れる。
音音の胸が、きゅっと鳴ります。
狐面の肩が、わずかに上がった。
その瞬間。
「そこまでだ」
低い声が落ちました。
闇が破れ、影が狐面へぶつかる。
砂利が跳ね、身体がよろめく。
兵馬の動きは速かった。
音を立てずに詰め、腕を捻り、肩で押さえ込む。
「――動くな」
狐面が呻き、抵抗する。
弥吉が駆け寄り、狐面の足元を押さえました。
(……捕らえた)
狐面が外れ、月光の下に顔が晒されました。
「清次さん……!?」
弥吉の声が跳ねる。
あの小道具屋の職人。
無口だと言われていた男。
でも今夜は、呼吸が荒く、喉の奥が乾いている。
兵馬は、清次の両腕を縛り上げながら言いました。
「現行だ。逃げるな」
【――手が縛られても、
夜の音は、まだ鳴り終わっていませんでした。】
花叢座へ戻る道は、さっきより静かでした。
縛られた腕の布の擦れる音だけが、妙に大きい。
兵馬が呆れたように吐き捨てます。
「狐の祟りの謎はこれだったのか」
音音は、捕まった清次の足元を見ながら、静かに言いました。
「……狐の祟りに見せるための、影と音」
兵馬が、視線だけで続きを促します。
「高下駄を履いていた」
「しかも、そのままじゃない」
「下駄のまわりに、黒い布を巻いて」
「輪郭が分からないようにしてた」
布に覆われた高下駄は、影だけを残す。
「だから、遠目には」
「足が見えなかった」
宙に浮いているように見えたのは、
“足が無かった”んじゃない。
“見せなかった”だけ。
音音は、あの音を思い出します。
「それから……音」
――こん。
――こん。
「下駄を、わざと鳴らした」
「歩く音じゃなくて」
「狐が鳴くみたいに」
一定の間。
乾いた響き。
土を打つ、短い衝撃。
「夜道で聞いたら」
「“狐が鳴いた”って思っても、おかしくない」
兵馬が、低く息を吐きました。
「だから、噂になった」
「はい」
「狐の祟りって言葉が、勝手に広がるように」
音音は、少しだけ声を落とします。
「でも……地面は嘘をつかなかった」
あの路地。
湿った土。
踏み固められた跡。
「高下駄は、重い」
「しかも、布を巻けば、さらに沈む」
だから――
「足跡が、妙に深かった」
浮いて見えたのに、
地面には、深く、重く、跡が残っていた。
「“狐”なら、跡は残らない」
「でも、人が履いた高下駄なら、残る」
「……影と音で、人の目を騙した」
「でも、重さまでは、消せなかった」
兵馬は、小声で音音に聞きました。
「ところで、お前、清次に何をした?」
音音は答えます。
「さっきの小道具屋で、かまをかけた」
「どんな」
「……お紺さんの歌」
兵馬はそれ以上聞かず、頷きました。
同心の頷き。
「あとで聞く」の音。
花叢座の裏へ着くと、長老が出てきました。
何も言わず、兵馬の顔を見て、清次を見て、短く息を吐く。
「……ここで話すか」
兵馬が頷きました。
「夜のうちに、筋だけ」
清次は縁側に座らされ、縄を外されないまま、俯きました。
手の甲が白い。
爪が食い込む音がする。
清次は、音音を見ました。
目だけが、妙に焦っている。
「……なんでだ」
掠れた声。
「なんで、俺だって分かった!」
兵馬が声を落とします。
「落ち着け」
兵馬は視線を音音へ移しました。
「お前の言う“お紺の歌”とは何だ」
音音は、息を置きました。
(……お紺さん)
「お紺さんは、機嫌がいい時だけ歌う癖があった」
「それは、知っている」
兵馬が小さく言う。
音音は続けます。
「でも、もう一つ」
「お紺さんには、癖があった」
「歌の最後だけ」
「自分の好きな形に、少し変えるんです」
清次の目が、わずかに動きます。
「……どういうことだ」
音音は、清次を見ずに言いました。
「以前、たまたまお紺さんに聞いたんです」
花叢座へ道具を届けに来た帰り。
裏手で、一人で歌っていたお紺。
音音が声をかけたとき、お紺はびくりとして、照れたように笑った。
「……これ、変でしょ」
「でもね」
「この終わり方、好きなんだ」
そして、最後の一音だけ、少し早く、軽く落とした。
あれは――
聞かせるための歌じゃない。
自分のための癖。
「私は、その音を覚えていました」
(……最後まで聞いた人しか、知らない)
兵馬が清次へ向き直ります。
「清次」
「お前は、昨夜、帰り道でお紺が歌ったと言ったな」
「歌の最後が良かったとも」
「……言った」
「じゃあ、歌ってみろ」
「最後まで」
清次が、目を逸らしました。
「……そんなの」
「歌え」
兵馬の声は低い。
逃げ道を削る音。
清次は、唇を動かし始めました。
「……梅は咲いたか、桜はまだかいな……」
端唄――「梅は咲いたか」。
江戸の町でよく歌われる、季節と恋心の歌。
清次は最後まで歌いました。
けれど。
終わり方が、普通でした。
普通の終わり。
癖のない終わり。
縁側に、沈黙が落ちます。
清次の顔から血の気が引きました。
兵馬が言いました。
「お前はお紺の歌を最後まで聞いてない」
清次が肩を落とす。
「……俺は」
言葉がほどける。
兵馬が問います。
「なぜ、狐面を被った」
清次は唇を震わせました。
「……俺は」
言いかけて、言葉が途切れる。
途切れたところに、息の音が落ちる。
「やれって言われた」
「誰に」
兵馬の声は淡々としている。
「……侍だ」
「名は」
「知らねえ。顔も……よく見えなかった」
清次は、舌で唇を湿らせました。
乾いた音。
「笠を深く被ってて」
「でも……頬に、十字の傷があった」
弥吉が息を呑む。
音音の胸の奥で、別の冷たい音が鳴りました。
(……十字)
清次は続けます。
「妹が……病で」
「薬を買う金がなくて……」
「医者に言ったら、薬がないとだめだって」
「なのに、銭がなくて」
清次の声が、少しだけ崩れます。
「……どうしようもなくて」
「そうしたら、あの侍が」
兵馬が、短く促しました。
「続けろ」
「……仕事を一つやれって」
「やれば金をやるって」
「女を」
「お紺を殺せって」
清次は、そこで声を詰まらせました。
「……でも、俺は」
息が震える。
「できなかった」
弥吉が思わず身を乗り出す。
「……じゃあ、なんで死んだんだよ!」
兵馬が短く手を上げる。
「弥吉、黙れ」
弥吉が唇を噛む。
清次は、やっと言葉を繋ぎました。
「狐面を被って」
「詰め寄った」
「でも……お紺が腰を抜かして」
清次は、声を落とします。
「……尻餅をついた」
音音の胸の奥に、現場の土の丸い跡が浮かびました。
均された土。
丸く、擦れた沈黙。
清次は続けます。
「俺は……そこで、怖くなって」
「逃げた」
「殺せなかった」
兵馬が低く言いました。
「だが、お紺は死んだ」
清次は顔を覆います。
「……俺が逃げたあとに、何が起きたかは……知らねえ」
「本当なんだ!信じてくれ!」
兵馬が息を吐き、視線を音音に投げます。
「お前、現場を見てどう思った」
音音は息を置きました。
「清次さんが言っていることは本当だと思います」
(清次さんからは、嘘の音がしていない)
「本当に、お紺さんを怖がらせ、逃げただけでしょう」
「それに、さっき私の前に現れたのも、
脅かして、私を黙らせるつもりだっただけですね」
(さっき、殺意の音はしなかった)
「それに、
針で殺すなんて、狙ってやるには難しすぎる」
「でも、首の刺し傷が、お紺さんの命を奪った」
音音が頷きます。
「もしも……偶然に何かが刺さったなら」
「転び、何かに縋り(すがり)、提灯が倒れ――」
「その拍子に、首の後ろに」
清次が、びくりとしました。
「……簪」
音音が小さく言います。
「お紺さん、いつも簪つけてたよね」
清次は、弱く頷きました。
「母親の形見だって……」
「いつも、同じのを……」
兵馬の声が落ちます。
「だが、現場に簪は無かったぞ」
縁側の空気が、さらに冷えました。
「そうだとしたら、
お紺が倒れて簪が刺さった後に、誰かが来て、簪だけ抜いて持っていったのか」
「路地裏じゃ珍しくない。死人に手を出す物取りだ」
「狐の祟りより、よほど人間らしい」
音音の胸で、嫌な音が鳴りました。
(……死んだあとに、盗る)
清次は、声を絞り出します。
「俺は……戻ってない」
「戻れなかった……」
兵馬は短く頷きました。
弥吉が低い声で言いました。
「……祟りじゃなくて」
「人が、また人を……」
兵馬が立ち上がり、清次を見下ろします。
「清次」
「その侍のことを、もっと話せ」
清次は首を振ります。
「名前も知らねえ」
「声も……覚えてねえ」
「ただ」
「頬の十字の傷だけ」
兵馬の目が、細くなる。
「清次は連れて行く」
「脅迫と、騒動の責は免れん」
「侍の線も洗う」
兵馬が最後に、音音へ視線を投げました。
「お前、よく清次の嘘に気づいたな」
「たまたまですよ」
(……嘘じゃない。
でも、隠してる音があったから)
【――事件は一つ解けました。
けれど、江戸の夜は、解けた分だけ次の影を濃くします。】
兵馬が清次を連れて去ったあと。
花叢座の庭は静かでした。
弥吉が、縁側に座り込んで言いました。
「……妹のため、か」
音音は、小さく頷きます。
誰かが、金で動いた。
そして、誰かが、金で動かした。
(……金で動かすやつがいる)
音音の胸に、冷たい音が残ります。
これまでに起きた死。
松平忠尚。
本多正継。
権力者ばかりが殺される妙な死。
黒い覆面。
そして、女ばかりの死。
侍。
(……共通点はあるのか)
弥吉が小さく言いました。
「お前、今夜……怖かっただろ」
音音は首を振りました。
「怖くなかった」
音音は立ち上がり、夜の庭を見ました。
灯が少ない。
それでも、江戸はまだ生きている音がする。
音音は、息を置きました。
(……次に鳴るのは、どっちの死だ)
答えはまだ、闇の中。
けれど――
闇は、必ずまた音を出す。
(……聞き逃さない)
そう思った瞬間、
遠くで、どこかの犬が吠えました。
その吠え声が、いつもより少しだけ乾いて聞こえました。
【――解決は、終わりではありません。
終わりに見える場所が、入口になることがあります。
江戸は、今夜からもう一段、深く鳴り始めます。】




