第二話 狐の祟り(前)
【――舞台の熱が引いたあと、
江戸の町は、決まって別の顔を見せます。
拍手が消え、灯が落ち、
人が隠していた音だけが、闇に浮かび上がるのです。】
花叢座の裏は、まだ人の気配が残っていました。
音音には、それらすべてが、まず音として胸に落ちてきます。
浮ついた音。
弾んだ音。
そして――奥に沈む、冷たい音。
(……変な音が混じってる)
そのとき、場の空気を切るように、低く落ち着いた声がしました。
「いや、見事な舞台でしたな」
同心、
佐久間 兵馬です。
足運びは静か。
刀も揺らさない。
“役目の音”をまとった男でした。
「特に、今日の男役。
花村 斎之助殿に、ぜひ挨拶をと思いまして」
その瞬間、楽屋の音が、わずかに乱れました。
(……あ)
斎之助――つまり紫乃は、
すでに化粧を落とし、女役者の姿に戻っていたのです。
弥吉が、やや大げさに咳払いをしました。
「あー……その、斎之助は」
妙に明るい声で続けます。
「もう帰った!」
「早えな」
「早すぎるだろ」
「……え、もう?」
言葉が重なり、音が散ります。
兵馬は一瞬だけ眉を上げましたが、すぐに苦笑しました。
「そうですか。それは残念」
「いやあ、あの見得は忘れられませんな」
紫乃は奥で、誰にも見えないよう、静かに頭を下げていました。
(……ごまかす音)
けれど兵馬は、それ以上踏み込みません。
「ところで」
と、声の調子を変えます。
「今、江戸で少々物騒な噂がありましてな」
弥吉が身を乗り出しました。
「女ばっかり殺されてるってやつか?」
「ええ」
「しかも夜道で……」
兵馬は、言葉を選ぶように続けます。
「現場近くで、“こん、こん”と聞こえたそうです」
「それが狐の鳴き声に似ていると」
ざわ、と楽屋の空気が揺れました。
「しかも――」
声が、少し低くなります。
「足が、なかったそうで」
ひゅ、と冷たい音が走りました。
(……浮いてた、ってこと)
笑い話のように語られていますが、
底に沈んでいる音は、笑えません。
「だから、狐の祟りじゃないかって?」
「ばかばかしい……けど」
兵馬は肩をすくめます。
「町は、そういう話が好きでしてな」
(……ちょっと浮かれた音だ)
そのとき。
「た、大変です!」
慌てた足音が、廊下を駆けてきました。
同心見習いの岡っ引き、
権助です。
「また……また殺しです!」
兵馬の表情が一変します。
「どこだ」
「小道具屋です!」
「お紺という女が――」
その名が、はっきり告げられた瞬間。
楽屋の音が、凍りました。
「……え?」
「お紺?」
「冗談だろ?」
弥吉が立ち上がり、
思わず声を上げます。
音音の胸で、強い音が鳴りました。
(……お紺さん)
お紺は、花叢座が贔屓にしている小道具屋の娘でした。
機嫌がいい時には鼻歌をこぼす、歌の好きな、明るい人。
兵馬は即座に言います。
「案内しろ」
音音は、気づけばその背を追っていました。
⸻
【――夜の江戸は、昼よりも音が多いです。
見えない分だけ、
人の気配が底で蠢いています。】
現場は、小道具屋の裏手。
細い路地。
灯りが届かず、湿った空気。
小道具屋の裏手は、
昼と夜で、まるで顔が違います。
昼間は、
削った木屑の香ばしい音。
漆の乾く、甘い音。
布を広げる爽やかな音。
けれど夜は、
すべてが湿ります。
板塀には苔。
溝には濁った水。
踏み固められた土が、靴裏に吸いつく。
風が通らない。
音が、逃げ場を失っている。
(……音が、こもる)
この路地は、
人が叫んでも、
助けは来ない。
だからこそ、
人は「祟り」を持ち込みたがる。
狐。
夜道。
浮かぶ影。
説明できないものを、
説明しなくて済む言葉。
お紺の体の近くには、
倒れた提灯がありました。
火は消えている。
けれど、煤の匂いが、まだ残っている。
逃げたのか。
消されたのか。
音音には、
その違いが、まだ聞き取れません。
(……ここで、何があった)
足元には、
何度も踏み荒らされた跡。
そのそばに、不自然に丸く均された土。
急いだ音。
迷った音。
それらが重なって、
ひとつの、歪な沈黙になっています。
兵馬は、地面にしゃがみ込みました。
「足跡が……妙に深いな」
音音は、
その言葉を、
音として聞きました。
沈む音。
押し込む音。
(……重い)
見えないはずの重さが、
地面だけには、正直に残っています。
狐面が浮いていた、という噂が、
かえって、不自然に聞こえました。
けれど、
その理由は、
まだ言葉になりませんでした。
【夜の江戸は、
理由をすぐには渡してくれません。
代わりに、
不安だけを、置いていきます。】
お紺は、壁際に倒れていました。
お紺の家は、小道具屋でした。
花叢座にとって、小道具屋はただの取引先ではありません。
舞台の裏を、いちばんよく知っている人たちです。
扇子、刀、桶、笠、提灯。
どれも舞台では「嘘の道具」ですが、
嘘が下手では、客は騙されません。
花叢座が頼っていたのは、
見た目よりも、音でした。
刀が鞘から抜ける音。
桶に水が当たる音。
笠を伏せたときの、布の擦れ。
それが舞台で使われるとき、
「ちょうどいい嘘の音」になるかどうか。
お紺の家は、
その音を、よく知っていました。
お紺自身は、
職人というより、場の人でした。
手が空くと、舞台裏を覗きに来て、
役者の足音を聞き、
囃子の音に、勝手に節をつけて口ずさむ。
「この音、ちょっと重いね」
「もう少し、軽いほうが、泣くと思う」
そんなことを、悪気なく言う。
役者たちは最初、
笑って受け流していました。
けれど、
お紺の言う通りに直すと、
舞台が、ほんの少しだけ、良くなる。
その「少し」が、
客の拍手を変えることもある。
だから、
誰もが気づかぬうちに、
花叢座は、お紺を頼りにするようになっていました。
(……お紺さんの音、やさしかった)
音音には、
お紺の声が、よく残っています。
歌っているときも、
道具を触っているときも、
お紺の音は、どこか落ち着きました。
だから――
この場所に倒れている姿が、
どうしても、結びつかない。
(……ここじゃない)
音音の胸に、
小さく、拒む音が鳴りました。
血は出ていない。
けれど、空気が重い。
まるで、音だけが先に死んだ場所。
(……音が、沈んでる)
兵馬が周囲を見回します。
「争った形跡は薄い」
「だが……妙だな」
権助が、声を潜めました。
「狐の祟り……なんですかね」
「ばか言え」
兵馬は即座に否定します。
「人の仕業だ」
店の者たちが呼ばれます。
年嵩の職人、宗助。
帳付け役の女、文。
無口な職人、清次。
兵馬が順に話を聞きました。
「今日は何をしていた」
宗助が、少し首を傾げて答えます。
「店を閉めたあと、すぐには帰らなかったな」
「裏で道具の手入れをしてた……と思います」
「誰かと会ったか」
「……いや、覚えはねえです」
「ただ、途中でお紺と挨拶だけしました」
声は低く、重たい。
次に、文が呼ばれました。
「あなたは?」
文は、袖で目元を拭いながら言います。
「帳面をまとめてから、少し残っていました」
「帰りが遅くなって……」
「その前に、お紺さんと少しだけ話しました」
「何を?」
「……大したことじゃないです」
「癖の話とか」
「あの人、よく口ずさみながら働くでしょう」
兵馬から不思議がる音がします。
「手を動かすときの、癖らしいです」
「気分によって変えるんだって」
そう言って、笑ってました
最後に、清次。
「俺は……お紺と一緒に帰りました」
兵馬が顔を上げます。
「一緒に?」
「ええ。仕事終わりで」
「途中までですが」
「様子は」
「機嫌が良かった」
「帰り道、ずっと歌を歌ってました」
「どんな歌だ」
「《梅は咲いたか》です」
――江戸で広く歌われている端唄。
季節の移ろいと恋心を軽やかに乗せた、町人にも馴染み深い歌です。
「……あの歌、俺も好きで」
「特に、最後の終わり方が良かった」
清次は、明るい調子で言いました。
宗助が口を挟みます。
「お紺はな、機嫌いいと歌うんだ」
「俺も何度か聞いた」
文も頷きます。
「ええ。作業しながら」
「上手でした」
三人の言葉が重なります。
(……同じこと言ってる)
でも。
音は、同じじゃない。
音音は、何も言いません。
ただ、三人の音を、もう一度だけ聞きました。
(……軽い)
音音は、一歩下がります。
そして、誰の顔も見ず、
ぽつりと呟きました。
「……お紺さんの、あの歌。
最後が変わってて、
面白いですよね」
沈黙が落ちます。
誰も、意味を取らない。
けれど。
ただ一人の音だけが、
一瞬、揺れました。
(……これでいい)
音音は、踵を返します。
背後で、兵馬が何か言おうとする音。
けれど、音音は振り返りませんでした。
(……夜が、続きを鳴らす)
路地の奥で、
何かが、こん、と鳴りました。
狐の鳴き声に似た、
乾いた音。
【――謎は、まだ解かれていません。
けれど、
嘘はもう、音を隠せなくなっていました。】




