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第一話 新たな門出

挿絵(By みてみん)


【――静かに終わった物語は、静かに次の扉を開きます。

拍手も、喝采もないまま残された余韻は、

やがて「なぜ」という形を取り、

聞く者の前に戻ってきます。

第二幕は、その問いが動き出すところから始まります。】


 音音ねねは、文箱の前に座っていました。

 

 文箱の隅に、

布に包まれた小さな鈴がありました。


 甘くない玻璃糖はりとうの謎を解いた夜、異国の商いからもらったものです。


 鈴の胴には、

 丸い輪の中に一本の横線。

 意味を告げない、静かな印。


 ――音が聞こえる者が、旋律を奏でる時、

 鈴は力を持つ。


 そんな言い伝えを、

 冗談まじりに聞かされたことを、音音は思い出します。


 けれど、あのときは何も起きませんでした。

 鈴は、ただ鈴の音を返しただけ。


 音音は布をほどき、

 鈴を掌に乗せます。


 軽くて、冷たい。

 内側に、静かな音を溜めている感触。


(……今なら)


 そう思った自分に、少し驚きながら、

 音音は鈴をそっと揺らしました。


 ちりん。


 小さく、澄んだ音。


 それだけでした。

 行灯あんどんの灯は揺れない。

 障子の影も変わらない。

 夜の音も、いつも通り。


(……なにも、起きない)


 そう思った、その直後。


 胸の奥で、ごく微かに、

 ほどける音がしました。


 聞こえた、というより――

 どこかへ、届いた、という感覚。


(……どこに?)


 確かめようとした瞬間、

 その気配は、指の隙間から抜けていきます。


 音音は鈴を布に戻し、

 文箱を閉じました。


 闇の中で、

 さっきの音の余韻だけが、

 遠くに残っているようでした。



【――翌朝です。】


 花叢座はなむらざの朝は、江戸の朝より少し遅れて始まります。

 町は売り声で起きますが、一座は「支度の音」で目を覚ますのです。


 障子の向こうの白い光。

 桶に水が落ちる音。

 竈に薪が当たる音。

 廊下を早足で行く足音――それらが、音音にはまず音として胸へ落ちてから、景色として追いつきます。


(……いつもの朝。でも、ちょっとだけ違う)


 違うのは空気の張り方。

 今日は公演の日。しかも、一座が「新しい形」で踏み出す最初の日でした。


【――花叢座は、屋敷へ出向く庭舞台も得意ですが、町の常設舞台も持つ一座です。

大きな芝居小屋ほどではなくとも、板の鳴りと間で客を掴む、江戸らしい座です。


 朝餉あさげの席には、

 いつもより多くの者が集まっています。


 奥に座るのは長老。

 言葉よりも、場の音を静める人。


 衣裳部屋の小娘たち――お春、お梅、お鈴。

 足元をちょろちょろする猫のこてつ。


 弥吉は茶碗を持ったまま、

 落ち着かない音を立てています。


 舞台請負の頭、伊勢屋清兵衛いせや・せいべえ

 職人の甚兵衛じんべえ与三よさ市蔵いちぞう


 第一幕で倒れた下女のおさとは、

 すっかり元気になり、

 軽い足音で茶を配っていました。


 湯気の立つ味噌汁。

 米の立つ音。

 焼き魚の皮が弾く音。


(……いい音)


 そのとき、誰かが声を落とします。


「なあ……最近、江戸でさ。

 女ばっかり、何人か殺されてるって話……」


 箸が止まる音が、あちこちで重なります。


 辻で。

 川で。

 病と片付けられて。


 言葉は少ない。

 けれど、底にある音は同じ。


 冷たい音。


(……女ばっかり)


 音音の胸の奥で、

 ひやり、とした音が鳴りました。


 長老が茶碗を置きます。


「噂話に耳を取られるな」


 それ以上、誰も続けません。


(……言わないだけだ)


 語られない音ほど、

 胸の奥に重く残ります。


 紫乃しのが、箸を置きます。

 花叢座に付き、庭舞台で舞を見せてきた名手。

 女が表の歌舞伎に立てない時代の中で、内々の場で技を繋いできた人です。


 紫乃の表情は穏やかなまま――けれど、目だけが硬い。


(……今日、紫乃さん、男になるんだもんな)


 朔之介さくのすけが消えてから、初めての常設舞台。

 一座が折れないために、紫乃は「男役者」として出ることを決めていました。


【――仕方がない、という言葉は便利です。

けれど、仕方がない選択ほど、心に刺さります。】



 そのとき、表が少し賑やかになりました。

 戸が開く音。

 蒸籠せいろの湯気が運ぶ甘い音。

 そして、弾む足音。


「音音ー!」


 新吉です。団子屋の息子。

 手には包み。鼻先に甘い湯気。


「今日は花叢座の新しい門出だろ。父ちゃんがさ、差し入れだって」


 包みを置く音が、やけに丁寧でした。


(……新吉、張り切ってる)


 弥吉が、すっと身を乗り出します。


「差し入れって、店の団子かよ」


「そうだけど? 何か?」


「……商売だろ」


「今日は特別」


 新吉は笑って、音音の方へ包みを押し出しました。


「音音、食べる?」


「食べる」


 音音が即答すると、弥吉が咳払いをしました。


「……待て。まず飯だろ」


「団子は別腹」


「ねえよ」


「ある」


 音音の言い合いに、新吉が小さく笑います。

 その笑いが、弥吉へ向いた瞬間だけ、少し鋭い音。


「弥吉も食べる? あ、一本多めに入れといた」


「……いらねえ」


「強がり?」


「強がりじゃねえ」


(……なんで二人とも、団子で喧嘩してんの)


 音音は包みを開け、一本取って口に入れました。

 甘い。ちゃんと最後まで鳴る甘さ。


(うまい)


 それだけで、胸の奥の冷たい音が少し薄くなりました。


 お鈴が身を乗り出します。


「ねねちゃん、いいなー! 団子!」


 お梅も続きます。


「私もひとつ!」


 お春は遠慮がちに言いました。


「……一個、いいですか」


 新吉が嬉しそうに頷き、配り始めます。

 その手元の丁寧さが、また少し過剰で――弥吉の眉がぴくりと動きました。


(……また変な音してる)


 二人の音が、

 わずかに競り合う。


 けれど音音には、

 その理由までは聞き取れませんでした。



【――そして、幕が上がる刻限こくげんです。】


 花叢座の常設舞台。

 客席が埋まり、ざわめきが薄く波を打ちます。

 花道に落ちる足音。

 扇子が畳まれる音。

 咳払い。笑いを堪える息。

 客の音は、ひとつひとつは小さくても、束になると場を動かします。


 舞台袖では、衣裳が擦れ、かつらの紐が締まり、白粉が肌に落ちていきました。

 役者は言葉で整えません。

 息と所作で、役へ入っていきます。


 紫乃は、鏡の前にいました。

 男の鬘。男の化粧。男の衣裳。

 それを着ける手つきは迷わない。迷えば、舞台が揺れるからです。


 ただ、目だけは迷っていました。


(……しのさん、笑ってない)


 音音には、紫乃の胸の内が全部分かるわけじゃない。

 けれど、呼吸の置き方が硬い。

 指先の力が、少しだけ強い。

 その「硬さの音」は、隠せません。


 紫乃は今日から、表では別の名を名乗ります。

 男役者としての偽名――花村はなむら 斎之助さいのすけ

 客には「斎之助」としか見えないように。


【――守るために偽る。

歌舞伎は、もともと“偽り”を美しく見せる芸です。

けれど、守るための偽りは、芸とは違う重さを持ちます。】


 紫乃が立ち上がり、袖の暗がりへ進むと、衣裳が擦れる。

 その擦れ方が、いつもより少し重い。

 男の衣裳は、女の衣裳より「逃げない布」です。


 そして――紫乃が“斎之助”として表へ出れば、花叢座の看板女役者の位置が空きます。


 その穴を埋めるのが、二番手の女役者。

 名は、花村はなむら 小夜さよ


普段は少し抜けていて、可愛らしいひと。

 よく物を落とし、

 言い間違いも多い人。


(……小夜さん、今は全然ちがう)


 舞台に立つ前の小夜の音は、

 すっと静かで、揺れません。


 小夜は紫乃の横で、静かに息を整えていました。


「……行けますか」


 小夜が聞くと、紫乃は短く頷きます。


「行く」


 言葉が短い。

 短いほど、決めた音です。


 囃子方が座につきます。

 三味線が、ひと撫で。

 笛が細く伸び、つづみが間を刻む。


 幕が上がりました。


 客席の音が、すっと引きます。

 引く瞬間の静けさは、祈りに似ています。


 花道の端に、紫乃――いや、斎之助が現れました。


 姿勢が違う。

 顎の角度。肩の張り。歩幅。

 男の形を、身体が覚えさせられている。


 客が息を飲みました。


 斎之助は歩く。

 ゆっくり。

 でも舞台が「命令される」歩き方。


 そして、見得みえ


 片足を踏み、肩を落とし、目線を切る。

 客の息が止まる。

 止まった息の上に、斎之助の声が落ちました。


 低い。

 男の声を“作っている”のではなく、腹の底に落として響かせている。

 紫乃は舞の人です。声で勝負する人ではない。

 それでも、今日の声は「守るための声」でした。


(……すごい。しのさん、怖いくらいだ)


 怖い、というのは悪い意味じゃない。

 壊れないと決めた人の音は、時々、怖い。


 斎之助は、荒事あらごとをかぶく。

 大きく踏む。

 けれど踏みすぎない。

 板を鳴らして客を煽るのではなく、板の返りを計算して「殺す」。


 客席のどこかで、感嘆の息が漏れました。


「……いい役者だ」


 囁き。

 でも、その囁きが座に染みていく。


【――朔之介の穴は大きい。

けれど、穴が空いたからこそ見えるものもあります。

残る者が、残る理由を示すときです。】


 女役者の場面へ移ると、小夜が出ます。

 紫乃ほど「澄む」舞ではない。

 けれど、小夜の舞は「折れない音」を持っていました。


 袖が揺れる。

 視線がまっすぐ。

 足が迷わない。


(……すごい)


 天然な小夜と、

 舞台の小夜は、まるで別人。


 音音の胸に、

 あたたかい音が広がります。



幕の内。


 拍手の余韻がまだ空気に残り、

 客席は熱を帯びたまま、ざわめいていました。


 茶を注ぐ音。

 盆を引く音。

 甘味を包む紙の擦れる音。


 喜びと興奮が混じった、

 あたたかく、弾んだ音が重なり合っています。


 その中で――

 音音の耳に、ひとつだけ、違う音が触れました。


 熱の底に沈む、冷たい音。


 周りの音とは、混ざらない。

 温度を持たない、硬い響き。


(……いる)


 まだ姿は見えない。

 気配も、はっきりしない。


 けれど――

 聞き逃してはいけない音だと、音音には分かりました。


 舞台の熱気の中に、

 確かに、その冷たさは混ざっていたのです。


【――第二幕は、ここから始まります。

舞台が新しくなったように見えても、

江戸の影は変わりません。

変わるのは、

それを聞き取る耳と、

逃げない足です。】

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