第三十話 残る音、始まる舞
【――舞台は終わっても、
物語は、まだ息をしています。】
それから、数日が過ぎました。
屋敷の庭舞台は、跡形もなく片づけられ、
芝居があったことさえ、砂利の下に沈みました。
けれど、
消えたのは板と縄だけで、
音は――残っていました。
花叢座に戻った一座は、
しばらく、何も言わずに過ごしました。
誰もが分かっていたからです。
言葉にした瞬間、
戻らないものがあると。
朔之介の姿は、
どこにもありませんでした。
荷もない。
書き置きもない。
まるで、最初から存在しなかったように。
それが、
いちばん、彼らしい逃げ方でした。
紫乃は、最初のうちは、
ほとんど口を利きませんでした。
羽衣を畳む手が止まり、
視線が宙に落ちる。
泣くわけでも、
責めるわけでもない。
ただ、
「信じていた時間」を
どう置けばいいのか、
分からなくなっている顔でした。
そんな紫乃に、
ある日、音音が言いました。
「……舞、やめます?」
紫乃は、少し驚いたように音音を見て、
それから、小さく笑いました。
「やめないわよ」
声は、まだ弱い。
けれど、逃げていない。
「落ち込んでても、仕方ないでしょ」
紫乃は、羽衣を持ち上げました。
いつもより、少し強く。
「朔之介がいなくなったなら、
花叢座は――」
一拍、置いて。
「私が、引っ張っていく」
その言葉は、
誓いでも、
強がりでもなく、
決断でした。
音音は、
その横顔を見て、
胸の奥で、静かに頷きました。
【――役者は、
倒れたあとに、
立ち方を覚えます。】
数日後、
佐久間兵馬が、花叢座を訪れました。
着流しのまま、
いつものように、気軽な足取り。
「よぉ」
それだけで、
空気が少しだけ、現実に戻る。
「どうだ。舞台は」
「……いつも通りです」
音音が答えると、
兵馬は鼻で笑いました。
「いつも通り、が一番だ」
それから、
声を少し落とします。
「下っ引きに、探らせてる」
音音と紫乃は、黙って聞きました。
「最近な、
幕府の要人が、妙に死ぬ」
病とも、
事故とも、
言い切れない死。
「共通してるのは、
“芝居”とか、
“宴”とか、
人が集まる場だ」
紫乃の指が、
羽衣の端を掴む。
「黒い覆面の影が、
あちこちで目撃されてる」
兵馬は、肩をすくめました。
「噂話の域は出ねえ。
だがな……」
一拍。
「朔之介が、
その一味じゃねえとは、
言い切れねえ」
音音は、
すぐには答えませんでした。
逃げるときの、
あの一言が、
まだ胸に残っている。
――母親に、そっくりだな。
(……私の、母親?)
音音は、母親のことを知りません。
物心がついた時には、もう居ませんでした。
長老からは、音音が赤ん坊の時に流行病で亡くなったと聞かされていました。
(分からないことが、
また一つ、増えただけ)
兵馬は、立ち上がりながら言いました。
「これから先、
芝居小屋は、
ただの芝居小屋じゃいられねえかもな」
「……でも」
音音は、静かに言いました。
「舞台には、立ちます」
兵馬は、
それを聞いて、
少しだけ、目を細めました。
「だろうな」
【――舞台に立つことは、
逃げないことです。】
その日の夜。
花叢座の小さな舞台で、
音音は、舞いました。
派手な演目ではありません。
観客も、多くはない。
けれど、
足の置き方が、違いました。
一歩一歩が、
「確かめる」ためではなく、
「選ぶ」ために踏まれている。
音を聞きすぎない。
でも、聞き逃さない。
舞台の上で、
音音は、
その場に流れる音すべてと、
そして自分自身と、
初めて、真剣に向き合っていました。
恐れは、消えていない。
疑問も、残っている。
けれど、
迷いは、もう足を止めない。
舞が終わる。
拍手は、静か。
けれど、真っ直ぐ。
音音は、深く息を吸い、
袖へ下がりました。
(……これからだ)
何が待っているのかは、
分からない。
黒い影が、
どこで、また現れるのかも。
けれど。
舞台がある限り、
音音は、立つ。
【――羽衣編は、
ここで幕を下ろします。
けれど、
音が消えたわけではありません。
次に鳴るのは、
もっと大きな舞台の音。
そして、
その中央に立つのは――
もう、
ただの稽古子ではない、
音音です。】
――その夜、音音は一人、部屋に戻りました。
着替えを終え、
足袋を脱ぎ、
行灯の火を落とす前に――
ふと、手が止まります。
文箱の隅。
布に包まれた、小さな鈴。
以前、
甘くない玻璃糖の謎を解いたあと、
異国の商いからもらったもの。
鈴の胴には、
丸い輪の中に、一本の横線。
意味を告げない、静かな印が刻まれていた。
音が聞こえる者が、旋律を奏でる時、
鈴は力を持つ――
そんな言い伝えを、
半分冗談のように聞かされた。
あのときは、
鳴らしてみても、
何も起きなかった。
ただ、
鈴は鈴の音を返しただけだった。
音音は、
そっと包みを解き、
鈴を掌に乗せました。
軽い。
冷たい。
静かな音を、内側に溜めている。
(――今なら)
そう思った自分に、
音音は少しだけ驚きます。
数日前、
ばらばらだった音が、
一つの旋律になった。
人の思惑も、
嘘も、
殺意も、
すべてが重なった。
あの感覚を知った今なら、
もしかしたら――
音音は、
鈴を、
そっと鳴らしました。
ちりん。
小さく、
澄んだ音。
それだけでした。
周りの、
景色も、
音も、
何一つ変わらない。
音音は、
少しだけ肩を落とします。
(……やっぱり、何も起きないか)
そう呟いた、その瞬間。
胸の奥で、
ごく微かに、
何かがほどけました。
聞こえた、というより――
届いた、という感覚。
誰かに。
どこかに。
けれど、
確かめる術はない。
音音は、
鈴を布に戻し、
文箱を閉じました。
行灯を落とし、
部屋は闇に沈みます。
【鈴の音の余韻だけが、
遠くで、
静かに、
次の旋律を待っているようでした】
――第一幕 羽衣編・完




