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第二十九話 影の正体

【――夜の台所は、

芝居小屋の舞台より、

ずっと狭いのに、

ずっと逃げ道が多い。


影は、

狭い場所ほど、

よく動きます。】


 影が、こちらを向きました。


 灯に照らされ、

 その顔が、少しずつ形を持つ。


 見慣れた輪郭。

 見慣れた立ち方。

 舞台の上で、何度も見た横顔。


 花叢座の看板役者。

 花村 朔之介。


 音音は、目を逸らしませんでした。


「やはり。あなたでしたか」


 言葉が落ちた瞬間、

 台所の空気がわずかに音を失う。


 朔之介は、すぐには答えませんでした。

 いつもの笑みを保ったまま、

 灯の下で肩をすくめます。


「……なんだよ、その言い方」


 笑ってみせる。

 芝居の笑いに似せた、軽い声。


「俺は、落とし物を探してるだけだ」


 音音は頷きません。

 否定もしない。

 ただ、置いた息を動かさずに言いました。


「昼間、屋敷の奥で休ませてもらった、と」


 朔之介の口元が、ほんの少しだけ固くなる。


「そうだ。そこで、ちょいと――」


「落とした」


 音音が言葉を継ぐと、

 朔之介はわざとらしく溜息をつきました。


 台所の奥で、水音が一つだけ鳴る。

 誰かが手を動かしてしまった音。


 朔之介はその音を気にするふりもせず、

 棚の影へ視線を落とします。


「落とし物を拾いに来ただけだって」


 音音は一歩も動きません。


「では」


 小さく、きっぱり。


「今、隠した物を見せてください」


 朔之介の眉が、わずかに跳ねました。

 跳ねたのは一瞬。

 すぐに笑いで覆い隠す。


「隠した? 何をだよ」


「きっと、杯です」


 その言葉で、

 朔之介の笑いは、半拍遅れました。


 半拍。

 たったそれだけが、大きい。


「……杯?」


 とぼける声。

 けれど、喉の奥の音が乾いている。


「はい。あなたは、杯を回収しに来たのです」


 朔之介は、しばらく黙ってから、

 苦笑いをしました。


「参ったな。音音は怖いな」


 芝居の台詞みたいに言い、

 袖の中へ手を入れる。


 ――そして。


 黒い漆の杯が、ひとつ。


 灯りを吸い込むような黒。

 新しい漆の、眠った光り方。


 朔之介はそれを棚へ置きました。


 置き方が、丁寧すぎる。


 音音は、その杯を見つめたまま、

 息を一つ置きます。


(順に、組み立てる)


【――推理は、

怒鳴るためではありません。

一つずつ、

音を戻すためにあります。】


「紫乃さんの羽衣に残っていた針」


 台所の灯が、揺れた。


「お春が残した縫い針。

 それは、ただの失敗でした」


 朔之介は鼻で笑います。


「子どもの粗相だろ」


「はい。そこまでは」


 音音は、杯から目を離さずに言いました。


「でも、その針先に、猛毒が仕込まれていました」


 朔之介の口元が、ほんの少しだけ動く。

 何かを言いかけて、飲み込む音。


「私は医者に持っていきました。

 異国からしか入らない毒だと分かりました」


 朔之介は、軽く手を振った。


「それが俺と何の関係がある」


 音音は、答えを急ぎません。


「毒の入手経路を辿って、遊郭へ行きました」


 朔之介の目が、わずかに揺れる。


「香が消えた遊郭の座敷」


「でも、香は消えていなかった。

 嗅ぐ側の感覚が鈍っていたのです」


 朔之介の笑いが、少し歪む。


「そして異国の商いに会いました。

 毒を買った客がいる、と。

 その客は木札を掛けていた、と」


 朔之介は、ここで初めて口を挟みます。


「まさか。伊勢組のか?」


「分かりません」


「分かりませんが、

きっと、その男は、わざと商いに木札を見せたのです」


 朔之介の目が、一瞬だけ鋭くなる。


 音音は、続けます。


「私はそれを聞いて、

犯人は、伊勢屋組の誰かだと思いました」


 音音は静かに続けます。


「だから、伊勢屋組の者ばかりに目が向きました」


 朔之介の笑いが、止まっていた。


「今日、舞台板が割れたときも」


 音音は、淡々と続けます。


「割れた板には、割れやすくする細工があった。

 床下には剣山が置かれていた」


 朔之介は、軽く息を吐いた。


「なら、やはり、

伊勢屋組の誰かがやったんだろ」


「そう思わせるために、そうした」


 音音は、視線を上げました。


「私は“あなたが狙われた”と思いました」


 朔之介の眉が、わずかに上がる。


「落ちかけたのは、確かにあなたです。

 だから私は、座を狙った何者かの犯行だと疑った」


 音音は続けます。


「紫乃さんを狙った。

 次はあなた。

 だから一座が狙われている、と」


 朔之介は、笑いを戻そうとする。


「……お前、物語が好きだな」


 音音は、首を振りました。


「違った」


 その一言で、台所の空気が沈む。


「全部、あなたが仕組んだことだった」


 朔之介の笑みが、薄くなる。

 薄くなっても、まだ消えない。


「なぜ、俺がそんなことをする必要がある」


 (来た)


 音音は息を吸いました。


「まず、羽衣の針」


 朔之介の目を見て言います。


「練習の時に、お春が針を残した。

 あなたはそれを知った」


「そして、

私たちが練習している間に、針先に毒を仕込んだ」


 音音は、そこで一拍、息を置きました。


「だから――

 練習の前には、なかった音が、

 練習のあと、針先に現れた」


 それは、突然生まれた違和感でした。

 最初からそこにあったものではなかった。


 音音は、静かに言いました。


「後から、加えられた音です」


「音? 何の話だ?」


 朔之介は笑う。


「じゃあ、俺が紫乃を殺すつもりだったって言いたいのか?」


 音音は、そこで首を振りました。


「違う」


 この否定が、音音の確信を強くする。


「あなたが紫乃さんを殺すとは思えなかった。

 夜祭のときのあなたは、嘘じゃなかったから」


 朔之介の口元が、僅かに歪む。


「だから私は、“紫乃さんを殺すための毒”じゃないと気づいた」


 音音は、言葉を置く。


「あれは、

毒に気づいた私を、異国の商いへ導くためのものだったんですね」


 朔之介の目が、一瞬だけ伏せられた。


「私が花街へ行けば、木札の話を聞く。

 そして、伊勢屋組を疑う」


 音音は続けます。


「いま、

取り調べを受けている伊勢組の与三が、

ちょっと前に、

木札を無くしたことがあったそうです」


「異国の商いに木札を見せた男は、

木札を盗んで変装したあなたですね」


 朔之介が、短く笑いました。


「……馬鹿だな。

 木札なんて、誰だってつけられる」


「そうですね」


 音音は、表情を崩しません。


「そのせいで私は、伊勢屋組の誰かが犯人だと決めつけた」


 音音は、ここで一拍置きます。


「だから、あなたが舞台板に細工していても、私は気づけなかった」


 朔之介は肩をすくめます。


「伊勢屋組がやったんだろ」


「いいえ。

あなたは、それを“伊勢屋組がやったように”みせた」


 音音は、視線を杯へ戻しました。


「舞台下に剣山を置けば、私はまた伊勢屋組を見る。

 あなたから目を逸らす」


 朔之介は、鼻で笑う。


「お前の推理は、全部“お前の頭”だ」


「そう」


 音音は、はっきり言いました。


「だから次は、頭じゃない話をします」


 朔之介の目が、僅かに動く。


 音音は、声を落とします。


「あなたは、本多 正継様を殺しましたね」


 その名が落ちた瞬間、

 台所の奥で誰かが息を飲んだ。


 朔之介は、笑いを作ろうとして失敗する。


「……死んだのは事故だ。

 急病だ。

 俺がどうこうできる相手じゃない」


「だから舞台を使った」


 音音は言いました。


「屋敷の中で自由に動く必要があった。

 役者なら動ける。

 怪我をして休むなら、なお動ける」


 朔之介の口元が、わずかに引きつる。


「あなたは、その杯と、桃の果汁を持ち込んだ」


「そして、お酒に桃を混ぜた」


 朔之介が、低く笑った。


「桃? バカ言え。

 桃の酒を出したら本田様が気づくだろ」


「普段なら気づきます」


 音音は、まっすぐ返します。


「侍女が言っていた。

 殿は匂いで気づく、と」


 朔之介が軽く笑う。


「でも今日は気づかなかった。

 なぜか」


 音音は言いました。


「匂いを消したから」


 朔之介が、口を開ける。


「……酒が回って――」


「それだけじゃない」


 音音は、そこで切りました。


「あなたは“香が消える杯”の仕組みを知っていた」


 朔之介の目が、鋭くなる。


「私が、花街から帰ったあと、皆に喋った」


 音音は、苦く言いました。


「あなたを疑っていなかったから」


 その一言が、台所に刺さる。


「あなたはその仕組みを利用した。

 匂いに気づく人間を、新しい漆を使って、気づけない状態にした」


 音音は、言い切ります。


「そして、桃で殺した」


 朔之介が、口元だけで笑いました。


「……面白い話だな」


 笑いが戻る。

 戻るが、温度がない。


「証拠は?」


 音音は、静かに答えます。


「あります」


 朔之介の袖を見ます。


「その袖の黄褐色の染み」


 朔之介が、反射的に袖を引く。


「汚れだろ」


「汚れじゃない」


 音音は短く、明快に言いました。


「怪我をして屋敷に入る時、

あなたは、何も持っていませんでした。


きっと、杯と桃は、

衣装の袖に隠していたはずです」


朔之介は息を呑んだ。


「漆が乾く前に触ると、最初は目立たない。

 桃の汁も、最初は透明に近い。

 でも空気に触れて時間が経つと、色が変わる。

 黄褐色になる」


「その成分を調べれば分かります」


 朔之介は、しばらく黙りました。


 そして、ふっと笑います。


「……やれやれ。

 やっぱりお前はすごいな」


音音は、静かに続けます。


「……もう一つ、あります」


 朔之介の視線が、わずかに動く。


「先の、香辛料で松平 忠尚さまが倒れた件。

 あのとき、犯人とされた商いは――

 “木札をつけた男”から、

 こう聞かされたそうです」


「松平さまは、

 一座を、替えるつもりだと」


「それを聞いて、

 商いは犯行に及んだ。

 自分の商いの場を奪われると、

 思い込んで」


 音音は、目を逸らしません。

 そして、静かに問いを置きます。


「……それも、

 あなたのしわざではないですか?」


 朔之介は黙っていました。


 (音が諦めていない)


 その瞬間。


 背後の闇が、動いた。


 黒い布。

 黒い覆面。

 音を殺すための衣。


 鋭い金属の冷たさが、音音の首筋に触れる。

 短い刃。


「動くな」


 声は低く、短い。

 台所の空気が、凍る。


 音音は、息を止めました。


 朔之介が、素早く杯を手に取ります。


 覆面が、低く言った。


「来る」


 遠くで足音が増える。

 廊下の向こう。

 屋敷の者。

 そして――同心の音。


 朔之介は、音音を見下ろしました。


 舞台の上の目ではない。

 役者の目でもない。


「……母親にそっくりだな」


 囁くような声。


 音音の胸が、ひゅっと冷える。


(母親?)


 覆面が、朔之介に黒い覆面を渡し、

 朔之介はそれを被りました。

 まるで衣裳を替えるみたいに。


 その時、

 朔之介の背中に、音音が投げかけました。


「……シノさんは、どうするの?」


 短い言葉。

 けれど、台所の空気が、ひときわ深く沈む。


 朔之介の足が、止まります。


 振り返らない。

 それでも、呼吸が一度だけ乱れた。


 覆面が急かす。


「行くぞ」


 去り際、声だけが残ります。


「……あいつは、強い」


 それだけでした。


 次の瞬間、二つの影は台所の奥へ溶けてゆきました。


 戸が開く音も、閉まる音もない。

 ただ、空気だけが変わる。


 遅れて、声が飛び込んできました。


「音音!」


 弥吉の声。

 続いて、低い声。


「誰かいるか!」


 佐久間 兵馬。


 刃が離れる。

 覆面の気配は、もうない。


 台所に残ったのは、

 冷たい空気と、

 空白になった棚の影だけでした。


 音音は、息を吐きました。


 吐いた息が震えている。

 怖いからじゃない。


 悔しいから。


(……逃がした)


【――舞台は、

いつも、逃げる者を追いません。

けれど、

逃げた影の音だけは、

次の幕まで、残ります。】

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