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第二十八話 旋律の先

【――夜になると、

昼には聞こえなかった音が、

ゆっくりと姿を現します。】


 夜の屋敷は、息を潜めたような音でした。

 

 いや、

 静か、というより――

 揃っていない。


 昼間は、命令の音が揃っていた。

 足音も、声も、物の置き方も、

 すべてが一つの型に収まっていた。


 けれど今は違う。


 舞台の解体が始まり、

 庭では板が外され、

 縄がほどけ、

 杭が抜かれている。


 伊勢屋組も揃っていませんでした。


 手慣れた者がいない現場は、

 音がばらける。


 木を置く音が遅れ、

 道具を戻す位置が揃わず、

 誰かが誰かを待つ間が増える。


 屋敷全体の音が、

 ほんの少しずつ、

 ずれている。


 音音は、立ち止まりました。


(……舞台じゃない)


 今、胸に残っている違和感は、

 板の下からではない。


 庭でもない。


(……わからない)


 音音は、静かに目を閉じました。


 今まで、聞こえなかった音。

 いや――

 聞こえていたのに、

 聞こうとしなかった音。


 それらが、いま、

 音音の中に、浮かび上がってきます。


 これまでの音が、

 並びを変え始めます。


 香辛料。


 松平 忠尚が倒れた、あの日。

 甘く、刺激のある匂いが、

 命を奪った。


 紫乃の羽衣。


 ――シノさんの羽衣に残っていた

 一本の縫い針。


 針先に宿っていた、

 冷たい音。


 それは、

 触れただけで、

 命の方へ傾く音だった。


 香が消えた遊郭。


 本来なら、

 消えるはずのない匂い。


 強すぎる香が、

 まるで最初から

 なかったかのように、

 薄れていた夜。


 異国の商い。

 毒を買ったという、

 木札を掛けた男。


 誰の木札かは、分からない。

 分からないまま、

 疑いだけが置き去りにされた。


 夜祭。


 灯。

 人混み。

 狐面。


 顔を隠すには十分で、

 誰かになりきるには、

 都合のいい仮面。


 甘くない玻璃糖はりとう


 本来、

 時間が経っても

 甘さが残るはずの菓子。


 なのに、

 途中で途切れた味。


 細工された舞台板。


 割れるべきでない場所から、

 割れるように作られた木。


 その下に置かれていた、

 剣山。


 針先に残る、

 鈍い音。


 伊勢屋組の三人。


 同じ現場にいながら、

 揃わなかった呼吸。


 視線の高さ。

 歩幅の間。

 音の出方。


 誰か一人を指すには、

 音が足りなかった。


 そして――

 本多 正継。


 舞台中に、

 座敷で倒れた要人。


 音音の耳の奥で、

 それらが――

 重なった。


 一つずつでは、

 意味を持たなかった音。


 けれど、

 高さが揃い、

 間が合い、

 向きが一致したとき、


 それは、

 旋律になった。


 胸の奥で、

 小さく、確かに鳴っていました。


 香と、針と、毒。

 消えた匂いと、仮面。

 甘くない菓子と、割れる板。

 剣山と、疑いの影。

 そして、二つの死。


 すべてが、

 同じ調子で鳴っている。


 同じ方向へ、

 流れている。


 音音は、

 小さく息を吸いました。


(……わかった)


 音音は、

 足の向きを変えた。


 屋敷の奥。

 人の手が集まり、

 物が戻る場所。


 火と水と、

 器の音が残るところ。


 台所。


 音音は、

 その音の方へ、

 静かに歩き出しました。


【――曲は完成しました。


音音は、

“演奏者”の元へ向かいます。】


 屋敷の奥へ進むにつれ、音はさらに細かくなっていきました。


 火の音。

 水の音。

 器が触れ合う音。


 台所に近づくほど、人の気配は減り、

 代わりに「物の音」だけが残っていく。


 夜の台所は、昼とは違う顔をします。

 命令の声も、

 段取りの足音も、もうない。


 残っているのは、

 片づけきれなかった仕事の音と、

 戻されるはずだった物の気配。


 音音は、廊下の角で足を止めました。

 

 それから、台所へ続く戸の手前で、

 そっと物陰に身を寄せました。


 薪が積まれた影。

 大きな甕の横。

 人が立てば見えるが、

 動かなければ、気づかれにくい場所。


 息を、落とす。


 屋敷の夜は、呼吸を聞き逃しません。

 だから、息は「する」ものではなく、

 「置く」もの。


 音音は、

 自分の呼吸を、

 床に置きました。


 待つ。


 時間は、測らない。

 時間を測ると、焦りの音が出る。


 待つことは、

 音を拾うこと。


 やがて――


 足音が、ひとつ。


 板の上を、確かめるような歩き方。


 静かで、

 慎重な音。


(……来た)


 影が、障子に映りました。


 長い影。


 灯の位置を、わずかに避ける動き。

 音を立てないように、

 器と器の間を抜ける。


 影が、台所へ入ります。


 戸が閉まる音は、ほとんどしません。

 閉めたというより、

 「戻した」音。


 影が動く。

 何かを探す気配。


 布が擦れる。

 棚に手が触れる。

 器が、ひとつだけ、

 選ばれる音がする。


 音音は、

 その音を聞いて、

 もう、迷いませんでした。


 確信は、

 疑いに勝つとき、

 音を立てない。


 音音は、

 物陰から、

 一歩だけ前へ出ました。


 足袋が、板に触れる。


 ――トン。


 わざと、鳴らした音。


 影が、止まる。


 呼吸が、一拍遅れる。


 その遅れが、

 答えでした。


 音音は、静かに言いました。


「……やはり」


 影が、こちらを向きます。


 灯に照らされ、

 その顔が、少しずつ形を持つ。


 音音は、目を逸らしません。


「あなたでしたか」


 夜の台所に、

 言葉が落ちました。


 まだ、説明はしない。

 まだ、責めない。


 ただ、

 完成した曲を、

 演奏者に返すだけ。


 台所の空気が、

 わずかに、

 音を失いました。


【――曲は、

完成した瞬間には、

まだ終わりません。


演奏者の手に戻って、

初めて、

次の音を待ち始めます。】

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