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第二十七話 再開の舞

【――芝居は、

止めることより、

続けることの方が、

ずっと難しい。】


 庭舞台は、もう一度息を整え始めていました。


 割れた板は外され、脇へ寄せられる。

 代わりに運び込まれたのは、急場の木。

 年輪の若い、軽い板。

 本来なら屋敷の舞台には使わない質ですが、今は選り好みをしている時間がありません。


「……縄、締めすぎるな」


 伊勢屋清兵衛の声が、低く飛びました。


 若い衆がうなずき、力を抜く。

 縄は張ればいいわけではない。

 張りすぎれば、鳴る。

 緩すぎれば、暴れる。


 板を受けるつかが調整され、

 桁が少しずつ動かされる。


 ――コン。

 ――トン。


 音を殺すための音。

 目立たせないための動き。


 火番が油皿を確かめ、灯心の長さを詰める。

 煤が立たないように、光を削る。

 囃子方の位置も半間だけ動く。

 半間で、返りが変わる。


 屋敷の庭は、芝居小屋よりも正直です。

 ごまかしがきかない。

 一つの音が狂えば、全部が露わになる。


 だから――誰も、余計な声を出しませんでした。


【――整える、とは、

急ぐことではありません。

削ることです。】


 音音は、少し離れた場所で、その様子を見ていました。


 板が替わり、縄が締まり、音が整えられていく。

 それでも――


(……まだ、ある)


 耳の奥に、濁った音が残っていました。


 割れた板は、もうありません。

 穴も塞がれています。

 剣山も、伏せられ、遠ざけられた。


 (それなのに)


 (理由は分からない。

 形も掴めない)


 (けれど、音は嘘をつかない――はずだ)

 

 長老が庭を一瞥し、短く言いました。


「……再開する」


 それは宣言というより、決断でした。


 屋敷の者が動き、客が呼び戻される。

 畳を踏む足音が戻り、衣擦れが増え、控えめな咳払いがあちこちで起こる。


 何事もなかったかのように。

 ――いや。

 「何事もなかったことにする」ために。


【――武家の庭では、

事故は“事故”では終わりません。

どう収めたか、が問われます。】


 簾の奥では、饗応きょうおうの支度も進んでいました。


 芝居を見ながら、膳を取り、酒を含む。

 屋敷の座は、それが普通です。

 杯が置かれ、酒が注がれ、箸が動く音が、舞台の音と重なっていく。


 ――芝居の音。

 ――座の音。


 音が重なるほど、何かが紛れやすい。


 音音は、袖で足袋を整えました。


 さっきまで舞っていた板。

 今は、別の板。


 違うはずです。

 違っていなければならない。


 紫乃が、静かに声をかけました。


「……行ける?」


 音音は頷きます。


「はい」


 恐くはありませんでした。

 正確には――恐がっている暇がなかった。


 舞台は、仕事です。

 仕事は、気持ちでやるものではない。


 体に入れた型。

 繰り返した足運び。

 息の置き場。


 それらは、恐れよりも強い。


 囃子が入ります。


 ――ポン。

 ――トン。


 間を測る音。


 音音が、舞台へ出ます。


 足袋が触れた瞬間、板が応えます。


 ――トン。


 新しい音。軽い音。


(……違う)


 先程までの舞台とは、違う。


【――役者が舞台に立つとき、

不安は、抱くものではなく、

抱えたまま、形にします。】


 音音は、舞いました。


 一歩。半歩。溜め。

 足袋が板を探り、板が足を受ける。


 庭舞台の板は静かでした。

 鳴らない。返らない。

 ただ、受け止める。


 屋敷の庭は、音を嫌います。

 派手な鳴りも、情に流れた踏み込みも、すべて余計なものになる。


 だから音音は――音を外へ出さない舞を選びました。

 腕を高く上げすぎず、視線を泳がせず、息を深く吸い込みすぎない。


 羽衣の物語は、天女が舞う話ではありません。

 天へ帰るために、人の世をそっと離れる話です。

 未練を引きずらないための舞。情を置いていくための舞。


 ――羽衣は、軽さの話ではない。

 ――重さを、手放す話だ。


 だから、足は軽く見せても、踏みは軽くしない。

 一歩一歩、確かに板を踏む。


 音は最小限。けれど消さない。


 音音の舞は、空を飛ぶ舞ではありません。

 地に立ったまま、天を示す舞です。


 観客の音が変わっていく。

 不吉を探す目が、物語を追う目へ。

 事故の続きを恐れる息が、舞の先を待つ息へ。


 音音は、その変化を胸の奥で確かに感じました。


 音音が最後の型へ入ります。

 板に体重を預ける。


 ――トン。


 新しい板は、きちんと受けた。

 受け止められた重さが、そのまま客席へ伝わる。


 音音は視線を上げ、羽衣の終わりを静かに示しました。


 袖へ下がる。

 息を整え、足袋を見下ろす。


(……やりきった


 それだけは、はっきりしている)


 紫乃が、静かに言いました。


「よく舞った」


 音音は小さく頭を下げました。


「ありがとうございます」


 その声は揺れていません。


【――舞台の上で揺れるものと、

揺れてはいけないものがあります。】


 次の囃子が入る前、屋敷の座の音が一段増えました。

 杯が替わる音。

 酒が注がれる音。

 箸が器に触れる音。


 その時。


 簾の奥で、息が引きつる音がした。


「……っ」


 短い声。

 咳ではない。笑いでもない。

 空気が喉で止まる、嫌な音。


 畳が鳴る。重い音。

 崩れた音。


「殿……!」


 側近の声が落ちる。

 侍女の足が小走りになる。

 走らないように走る音。


 簾が揺れ、隙間から見えたのは、喉を押さえる手。

 本多 正継が、座敷の中で倒れていました。


 座敷が、声を上げずに騒然となる。

 水を。医者を。

 命令の音が増え、礼の音が消える。


 簾が上げられました。


 本多正継の顔色が変わっている。

 唇が紫に寄り、目が泳ぐ。


 医者が呼ばれ、脈を取り、喉を見る。

 喉が閉まり、空気が通らず、胸が上下しない。


 正継の目が一度だけ見開かれ、焦点が落ちた。


 畳に落ちる音が、ひどく重い。


 医者が声を落として言いました。


「……息が塞がっている。

 膨疹も出ている。

 何か、体に合わぬものを口にされたか」


 側近の顔色が変わる。


「合わぬもの?」


 侍女の一人が、震える声で言いました。


「殿は……殿は、桃が……!」


 その言葉が座敷に落ちた瞬間、屋敷の音が乱れました。


「桃は近づけるなと、いつも……」

「膳にも出さぬようにと……」

「匂いだけでもお嫌いになるから……!」


 侍女は必死に言いました。

 言い訳ではない。

 責めを避けようとする、事実の列。


「殿は鼻がよろしいのです。

 だから、いつも……匂いで気づかれて……」

「以前、誤って出した時も、口にされず……」

「今日は……酒が……」


 声が小さくなる。


「……酒が回っておられたのかと……」


 その一言が、さらに空気を冷やしました。


 酒が回っていた。

 だから気づかなかった。

 だから口にした。


 人間の理由。

 けれど屋敷では、それが許されない。


 側近の声が硬くなる。


「誰が膳を見た」

「酒は誰が注いだ」

「杯は誰の手を通った」


 探る音。

 探る音は、首を探す音でもある。


 庭舞台の方で囃子が止まりました。

 役者たちは事情を飲み込むより先に、空気に止められる。

 芝居の音も、座敷の音も、一斉に止まる。


 そして、誰かが低く言った。


「……幕を」


 舞台は、大波乱のまま幕を閉じました。


【――芝居が終わる音より、

人が倒れる音の方が、

よく残りました。】


 音音は、袖で立ち尽くしていました。


 胸の奥にあった濁りが、形を持ってしまった。

 でも――


(……気づけなかった)


 音音は、舞台の音にばかり目を向けていた。

 板の返り、足の置き場、型。

 それは仕事として正しかった。

 正しかったのに、足りなかった。


 ――自分の力は、魔法じゃない。


 五感が全部、音のように感じる。

 それは生まれつきの癖で、助けにもなる。

 でも、いつでも、どこでも、同じように聞こえるわけじゃない。


 疲れていると鈍る。

 思い込みがあると、そちらへ寄る。


(……聞きたい音だけ、聞いてた)


 屋敷の音が、歪み始めていました。

 廊下の足が揃わない。襖が強く閉まる。

 茶碗が乱暴に置かれる。

 命令の声が増え、謝罪の声が減る。


 静かだった屋敷が、静かに壊れていく音が、

 音音には聞こえていました。


(……ここからだ)


 舞台の下で起きたことも、

 舞台の上で起きたことも、

 結局――屋敷の奥へ集まっていく。


 そして集まった先で、誰かの首が決まる。


 音音は唇を噛みました。


 (魔法じゃない)


 (だからこそ、


 自分が何を聞き、何を聞き逃したのか。

 よく考えないと。)


【――屋敷は、

静かに見えて、

多くの音で支えられています。


その一つが狂えば、

狂いは、必ず別の場所へ伝わる。


次に鳴るのは、

いったい何処なのでしょうか】

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