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第二十六話 屋敷の理

【――屋敷では、

乱れは罪です。

だから、乱れは外へ追い出されます。】


 待つ間、屋敷の音は「整え」に入っていました。


 客は別の座敷へ移され、

 茶が出され、

 障子が閉められ、

 廊下の足音は抑えられる。


 朔之介は奥の一室に運ばれ、

 捻挫の足が冷やされました。


 それでも空気は戻らない。

 戻らない理由が、舞台の真ん中に開いた穴です。


 そして、それは――

 板の問題ではなく、屋敷の問題。


 本多正継の気配が、ずっと奥で冷たく鳴っていました。

 直接ここへ来ない。

 声もない。

 それが、いちばん怖い。


(……音圧が強い)


 言葉で命令されなくても、音が鳴っている。

 「余計なことを言うな」

 「収めろ」

 「なかったことにしろ」


 けれど、穴は開いてしまった。

 剣山も、そこにある。


 なかったことにはできない。


 ほどなく、門の方がざわつきました。

 ざわつきといっても、屋敷のざわつきは音が低い。

 砂利を踏む足が揃い、

 門の開閉が短く鳴り、

 そして――


 ひとつ、町の音が庭に入ってきます。


 佐久間 兵馬。


 同心。


 着流しの上から羽織。

 腰のものは目立たせないが、歩き方が「役目」の人間。

 屋敷の者たちが、自然と道を開ける。


「……で」


 兵馬は庭へ入るなり、舞台の穴を見ました。


「何があった」


 口は軽い。

 だが、目は軽くない。

 地面と板の境目に、すでに視線が刺さっている。


 長老が短く説明しました。

 見得で板が割れたこと。

 床下に剣山があったこと。

 伊勢屋組が組んだこと。


 兵馬は頷くだけで、すぐ膝をつきました。


 まず板。


 割れ口を覗き込み、指先でなぞる。

 木のささくれを摘まみ、匂いを確かめる。


「……切ってるな」


 清兵衛と同じ結論。


 次に床下。


 兵馬は油皿を寄せさせ、穴の縁から顔を近づけました。

 覗き込む目が細くなる。


「剣山か」


 声の温度が落ちる。


「こんなもん、花の席ならまだしも、

 舞台の下に置く理由がない」


 兵馬は、剣山の位置を確認しました。

 穴の真下。

 落ちた人間が、ちょうど刺さる場所。


 そして、動線。


 兵馬は立ち上がり、庭を見渡しました。

 どこから入れるか。

 誰が近づけるか。

 誰が見えるか。


 屋敷の庭は広い。

 だが、広いからこそ、目も多い。


 兵馬は、舞台の周りを一周しました。

 足音は控えめ。

 でも、砂利の鳴り方で場所を測っている。


「……袖の裏」


 兵馬が指したのは、舞台脇の影。

 幕の裏。道具置きの奥。

 人が入れる小さな隙。


「ここなら、

 屋敷の者の目を避けて、

 床下に入れる」


 屋敷の者が息を飲みました。

 それは「屋敷の目が完璧ではない」という指摘になる。


 兵馬は気にしません。

 町方は、空気を読まない仕事だ。


【――同心は、

空気を読むために来るのではありません。

空気の裏を、読むために来ます。】


 音音は、兵馬の横に進み出ました。


 長老が止めなかった。

 それが許しです。


「……同心さま」


「おう、稽古子」


 兵馬は目だけ寄こします。


「お前、また噛んでるか」


「噛んでません」


 兵馬が口の端で笑いました。


「じゃあ言え。

 何を見た」


 音音は、息を吸いました。


 “音”の話を、ここで全部はしない。

 誰も理解しない。

 それに、屋敷の空気が嫌がる。


 だから、観察の言葉で補う。


「板は、割れた、じゃなくて……

 割れやすくされていました」


「そして、

真下に、剣山が置かれていました」


 兵馬の目が、ほんの少し細くなる。


 音音は、すぐには言葉を重ねませんでした。

 一度、床下を覗いたときの光景を思い出すように、視線を落とします。


「……剣山の針先が、

 妙に、鈍く見えました」


「鈍い?」


「はい」


 音音は、慎重に続けます。


「鉄の針なら、

 もっと乾いた光をします。

 でも、あれは――

 表面に、

 何かが付いているように見えました」


 兵馬は黙って聞いている。


「濡れていたのか」


「分かりません。

 ただ……

 埃とも、土とも違いました」


 音音は、そこで言葉を止めました。


 毒だとは言わない。

 塗られているとも断じない。


 けれど、

 「普通ではない」という事実だけを、

 観察として差し出す。


 兵馬は、

 顎に手を当てました。


「……分かった」


 短い返事。


 音音は、胸の奥で、そっと息をつきます。


「朔之介さんが、

 落ちかけました」


 兵馬が、短く息を吐きました。


「なるほどな」


 この庭で「なるほど」と言えるのは、同心だけです。

 屋敷の者は、そんな言葉を許さない。


 兵馬は、伊勢屋組の三人に目を向けました。


「お前ら、

 誰がこの板を張った」


 甚兵衛が答えます。


「俺と与三で、張りました」


「床下に入ったのは」


「入ってません」


 与三が慌てて首を振る。


 市蔵は黙ったままです。

 黙り方が、いつも通りなのか、違うのか。

 それはまだ分からない。


 兵馬は、清兵衛に視線を移します。


「頭。

 こいつらの言うことは、本当か」


 清兵衛の顎が動きました。


「ああ……信じてる」


 兵馬は、頷きました。


「よし。

 話を聞く」


 そして、声の温度を落とす。


「今ここは屋敷だ。

 下手に騒げば、

 お前らがすぐに“犯人”にされて」


 ここは武家の庭。

 不祥事は、誰かの首で片づけられる。


 兵馬は、屋敷側へ視線を投げました。

 見えない圧が返ってくる。


「……長老」


 兵馬が言いました。


「このままじゃ、

 芝居の前に、誰かの首が飛ぶ」


 長老は、黙って頷きました。


 兵馬は、伊勢屋組の三人に言いました。


「甚兵衛。与三。市蔵。

 来い」


 与三が青くなります。


「え……」


「話を聞くだけだ」


 兵馬の声は淡々としている。


 甚兵衛は黙って前へ出ました。

 与三は一拍遅れて出る。

 市蔵は、最後にゆっくり動く。


 三人の足音が、砂利に並びました。


「来い」


 短い一言でしたが、逆らう余地はありません。


 甚兵衛が一瞬、清兵衛の方を見ます。

 与三は唇を噛み、市蔵は何も言わずに頭を下げた。


 三人が並び、庭を出ていく。

 砂利を踏む音が、先ほどよりも乾いて聞こえました。


 兵馬は、その背を一度見届けてから、長老へ向き直ります。


「――長老」


 声は低く、しかし急かす調子でした。


「舞台は直していい。

 客は待っている。

 この屋敷で、芝居が止まったままというのは、

 それ自体が厄だ」


 長老は、わずかに目を伏せます。


「……承知しました」


「手早く、だ。

 余計な話は、後に回す」


 兵馬はそれだけ言うと、踵を返しました。

 屋敷の者がすぐに動き、道を開ける。

 同心が去ると、庭の空気が少しだけ変わります。


 張り詰めていた糸が、緩む音。


 残ったのは、

 割れた板の穴と、

 伏せられた剣山と、

 芝居を待つ客の気配でした。


 長老は深く息を吐き、周囲を見渡します。


「……清兵衛」


 名を呼ばれ、伊勢屋清兵衛が一歩前に出ました。


「今ある材で、組み直せ。

 鳴りは抑えろ。

 派手さは要らん」


「へい」


 返事は短い。


 若い衆が動き出します。

 割れた板が外され、

 新しい板が運ばれ、

 木槌の音が、抑えられた調子で鳴り始める。


 ――コン。

 ――トン。


 舞台を“直す”音。


 長老は、音音の方を見ました。


「お前は、下がれ」


 命令ではなく、配慮の言い方です。

 けれど、今の音音にとっては、従うしかない音でした。


 音音は、静かに頭を下げます。


 下がりながら、もう一度だけ、舞台を振り返りました。


 板は組み替えられ、

 穴は塞がれ、

 見た目には、何事もなかったようになっていく。


 けれど――


 庭舞台の上には、

 まだ、微かな音が残っていました。


 さっきより薄い。

 けれど、消えてはいない。


(……まだ、終わってない)


【――舞台は、

直すことができます。


人の目に見える形なら。


けれど、

見えない歪みは、

まだ、息を潜めたまま、

次の音を待っていました。


芝居は、

これから再び始まります。】

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

第一幕も後もう少しです!

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