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第二十五話 舞台の下

【――舞台の上では、

人は役を演じます。


けれど、

舞台の下では、

役のない真実だけが鳴ります。】


 板が割れたあと、庭舞台は「場所」ではなくなっていました。

 そこに立つだけで、音が皮膚を刺します。


 囃子は止まり、客は引き、

 屋敷の者たちは声を落として走り回る。

 誰かの草履が砂利を蹴り、

 襖が忙しく開閉され、

 茶が運ばれ、

 詫びの言葉だけが薄く落ちる。


 武家の屋敷は、騒ぎを見せない。

 見せないために、内側が倍、動く。


 足を捻った朔之介は、侍女に支えられて屋敷内へ運ばれていきました。

 背中はまだまっすぐなのに、足元の音だけが、不自然に軽く聞こえる。

 それが余計に痛々しい。


 音音は、朔之介の背中を追いかけたい衝動を飲み込みました。


(今は……下)


 上の怪我は、すでに目に見える。

 けれど、板が割れた理由は、見えない。


 見えないものが、怖い。


 長老が、短く息を吐いて言いました。


「……見るぞ」


 言葉は少ない。

 それだけで、花叢座の者たちの音が揃いました。


 そしてもう一つ、揃った音がある。


 伊勢屋組。


 かしらの清兵衛が、すでに舞台の縁に立っていました。

 腕を組み、眉ひとつ動かさず、割れた板を見下ろしている。


「……おかしいな」


 低い声。

 言い訳ではない。

 現場の人間の音です。


 清兵衛の後ろに、三人の若い衆――

 甚兵衛、与三、市蔵が控えていました。


 甚兵衛は、立ち姿が崩れない。

 腕も肩も、板を担ぐ男の形のまま。

 息が短いのはいつも通り――仕事の息。


 与三は、目だけが忙しい。

 割れた板、客席の方、屋敷の者、長老。

 視線が落ち着かず、喉が一度鳴る。


 市蔵は、無言で足元を見ている。

 何を見ているのか分からないほど、静か。

 静かすぎて、逆に目立つ。


(……散ってる)


 音音の胸の奥で、また同じ感覚が鳴りました。

 昨日の下見の夜と同じ。

 揃わない。


 屋敷の者が近づき、声を落として言いました。


「早急に……」


 言い切らない。

 けれど、屋敷の音はこういう時、刃になる。


 長老が頭を下げ、短く答えます。


「すぐに」


 それから長老は、清兵衛を見ました。


「板、外せるか」


「外せる」


 清兵衛は一言で返しました。


【――言い訳の音は、

板に嫌われます。

現場の音は、

短いほど強い。】


 清兵衛が合図を出すと、甚兵衛が縄を解き、与三が道具を持ち、市蔵が割れ口の周りを確かめました。


 割れた板は、ただの破片ではありません。

 屋敷の舞台板は、厚い。

 乾いていても、簡単には裂けない。

 しかも、朔之介が踏んだのは「見得」の一歩。

 強いが、無茶ではない。


 それなのに、板は裂けた。


 裂け方の音が、いやだった。


 清兵衛が、割れ口に指を当て、なぞりました。

 指先が木目を追う音が、かすかに鳴る。


「……切ってある」


 市蔵が、短く言いました。


 与三が顔色を変えます。


「切って……?」


 清兵衛は、割れた板を半分持ち上げ、裏側を見せました。


 そこにあったのは――


 細い筋。

 等間隔の、浅い溝。


 木目に沿っているようで、沿っていない。


 ノコギリの歯が残す、あの規則正しい線。


 長老が息を詰めました。

 屋敷の者が、声にならない音を出す。


「……これは」


 清兵衛は、言葉を選ばずに吐き捨てました。


「わざとだ」


 その瞬間、庭の空気がさらに冷えました。

 偶然ではない。

 事故ではない。


 「仕掛け」だ。


 与三が、無意識に一歩退きました。

 甚兵衛は動かない。

 市蔵は、目を細めて溝を見ている。


(……誰が)


 音音の胸の奥に、薄い濁りが走りました。


 伊勢屋組。

 板を組んだのは伊勢屋組。


 疑いの矢は、自然とそちらへ向く。


 清兵衛が、低く唸りました。


清兵衛は、割れた板の縁に膝をつき、

目を細めて、穴の奥を覗き込みました。


 床下は暗い。

 けれど――


 清兵衛の目が、ぴたりと止まった。


 闇の中で、

 一点だけ、かすかに光を返すものがあった。


 油でも、水でもない。

 木でも、土でもない。


 清兵衛は、息を止めた。


「……妙だな」


「……床下、見るぞ」


「わたしにも見せていただけますか」


 音音は、思わず口を開いていました。


 長老が音音を一度見て、頷きます。


「ついてこい」


 短い許し。

 音音はその言葉で、舞台の下へ入りました。


 割れた板の穴から差し込む光。

 暗い床下。


 そこに、冷たい空気が溜まっている。


 音音は、目を凝らしました。


(……いる)


 床下の空気が、ひゅっと冷たく鳴る。

 湿りでも、夜露でもない。

 もっと、刺すような冷たい音。


 清兵衛が、灯を寄せました。

 火番が持つ油皿の灯りが、穴の縁を赤く舐めます。


 床下が、少しだけ見えました。


 束。

 桁。

 組み上げられた木の骨。


 その下に――


 光るもの。


 針のようなものが、いくつも並んでいる。


 剣山。


 花を生けるためのもの。

 けれどここに置く理由はない。


 しかも、剣山の針先が、妙に揃って光っていました。

 ただの鉄の光ではない。

 濡れた光。


 音音の胸の奥で、嫌な音が鳴りました。


(……覚えてる)


 異国の毒を調べたとき。

 縫い針の先に付いていたもの。

 あの「刺す音」。


 匂いでも、味でもない。

 空気が一瞬、尖る感覚。


 音音は、息をひそめました。


(……同じ)


 声に出すには早い。

 まだ根拠はない。


 でも、重なる。


 清兵衛が、剣山を見て顔をしかめました。


「……なんだ、こりゃ」


 与三が喉を鳴らします。


「花でも……?」


「床下に花は生けねえ」


 清兵衛の声が冷たい。


 甚兵衛は、穴の縁から身を乗り出しかけて、すぐ止めました。

 触らない。

 現場の人間の本能です。


 市蔵だけが、じっと剣山を見ています。

 目が動かない。


 長老が、清兵衛に言いました。


「誰が、置いた」


 清兵衛は、首を振ります。


「知らねえ」


 即答でした。


 「知らない」という音は、

 本当に知らない音にも、

 隠す音にもなれる。


 与三が慌てて言いました。


「う、うちは……」

「黙れ」


 清兵衛の一喝が落ちました。

 その一言で、与三の音が縮む。


 屋敷の庭で、声を上げるのは、罪だ。


 長老が、息を吐きます。


「……同心を呼ぶ」


 その言葉が落ちた瞬間、屋敷の者が一斉に静まりました。


 同心。


 町方の人間。

 だが、今ここで必要なのは、屋敷の理屈ではなく「あかし」だ。


 清兵衛が、少しだけ目を伏せました。

 伊勢屋組にとって、同心沙汰は商売に傷がつく。

 それでも、今は避けられない。


 長老は音音を見ます。


 音音は、頷きました。


「……呼びましょう」


 言葉は少ない。

 でも胸の奥は、重かった。


(これ、ただの事故じゃない)


 板の細工。

 床下の剣山。

 そして、刺すような「覚えのある音」。


 朔之介が、落ちかけた。

 落ちていたら――


 音音は、喉の奥が冷えるのを感じました。


 屋敷の者が、低い声で命じます。


「誰も近づくな」

「持ち場を守れ」


 その命令の音が、庭に釘を打つように並びました。


 長老が、弥吉へ短く言いました。


「走れ」


 弥吉が駆け出す音が、砂利を叩いて遠ざかります。

 屋敷の庭で、唯一許された乱れた音。


 同心――佐久間兵馬。


 あの男が来れば、

 話は「芝居の外」へ出る。


【――板の下で鳴っていたのは、

木でも、鉄でもありません。


もっと深いところで、

人の企てが

息をしていました。】


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