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第二十四話 見得の刃

【――舞が終わると、

人は安心します。


羽衣の澄んだ音が、

袖へ引いていきました。】


 紫乃の羽衣が揺れ、

 音音の足袋が板を離れ、

 囃子の息が一度、ほどける。


 客席は、ため息を吐きました。

 そのため息が、畳に吸われる音。

 小さな拍手が、遠慮がちに重なっていく音。


 屋敷の庭舞台は、芝居小屋と違う。

 客の声が、跳ね返らない。

 壁と塀が音を抱え、

 礼儀が音を削る。


 それでも、熱だけは削れません。


 袖に戻った紫乃は、羽衣をそっと肩から下ろし、音音を見ました。


「よく揃った」


 褒め言葉は短いほど重い。

 音音は、胸の奥が少しだけ明るくなるのを感じました。


 けれど、すぐに――

 外の空気が変わりました。


 囃子が、次の曲へ切り替わる。

 笛の高さが変わり、

 三味線が沈み、

 鼓が刻む間が、少し荒くなる。


 澄んだ羽衣の音から、

 役者の熱を呼ぶ音へ。


 客席の呼吸も変わります。

 期待の息。

 待ちきれない息。

 笑っていい場所を探す息。


 音音は、袖の影で指先を握りました。


(……くる)


 紫乃が小さく言いました。


「次は、朔之介よ」


 音音は頷きました。


 花村 朔之介。

 花叢座の看板役者。

 荒事もできるが、間と立ち姿で魅せる型の名手。


 頼れる兄貴分。

 座の者は皆、朔之介が舞台に立つと、心が落ち着く。


 音音も同じです。

 朔之介の背中は、板の上の道しるべみたいだ。


 ――だから。


(……嫌な音が、残ってるのが、おかしい)


 袖の向こう。

 朔之介の気配が近づく。


 草履の擦れる音。

 衣裳の擦れる音。

 呼吸が長く、安定している。


 迷いのない音です。


 囃子が一段上がりました。


 客席のざわめきが、

 また一度、すっと消えます。


 朔之介が、板の上へ出ました。


 その瞬間、庭舞台の空気が変わりました。

 見えない風が、客席へ向かって吹く。


 役者が出ると、空気が命令される。

 それを音音は、何度も見てきた。


 朔之介は、ゆっくり歩きました。

 歩幅は大きくない。

 けれど、板が鳴る。


 ――トン。

 ――トン。


 鳴らしているのではない。

 鳴ってしまうのではない。

 鳴らす「間」を持っている歩き方。


 客席の息が、朔之介に合わせて浅くなる。


 屋敷の一番奥。

 簾の向こうに、主の気配。


 本多 正継。

 今日は客。

 だが、客であっても、屋敷の中心だ。


 正継の側近の息。

 侍女の足音。

 どれも、余計な音を出さない。


 その沈黙の上に、朔之介の声が落ちました。


 台詞は少ない。

 けれど、声の位置が正しい。


 客席は、笑う準備をする。

 笑う前の、胸の鳴り。

 その音が、音音には聞こえました。


 朔之介は、型を切りながら舞台の中央へ寄っていく。


 ――あの場所。


 音音の胸が、きゅっと鳴りました。


(……そこ)


 屋敷下見の夜、清兵衛が言った場所。

 「鳴りが深い」と言って、束をずらした場所。

 けれど舞台は組み直され、

 今日の板は、昨日とは違うはずだ。


 違うはずなのに。


(……濁りが、そこにいる)


 朔之介の足が、舞台の中央へかかる。


 囃子が、少しだけ引きました。

 引くことで、役者の呼吸が浮く。

 浮いた呼吸が、客の胸へ刺さる。


 見得の準備。


 朔之介は、そこで止まりました。


 止まり方が、音になる。


 客席の呼吸が止まる。


 庭の木々が、風を止める。


 屋敷の外の音さえ、遠くなる。


 朔之介が、足を上げました。


 大きく。

 高く。

 わざと、ゆっくり。


 この一足で、板を鳴らし、

 客の腹を揺らし、

 役者の存在を刻む。


 荒事の見得。


 音音は、目を逸らせませんでした。


(……だめっ)


 ――ドンッ。


 (音が割れた)


 太鼓でも鼓でもない。

 板の音が、鳴ったのではなく――裂けた音。


 庭舞台の空気が、一瞬で冷える。


 客席の息が、ひゅっと引きつりました。


 朔之介の足が、落ちる。


 朔之介の身体が、下へ引かれる。


 板が――沈む。


 目の前で、板の筋が裂けるのが見えました。

 裂け目が広がり、

 足の置き場が、消える。


「――っ!」


 誰かの声。


 屋敷の者の声は大きくない。

 だからこそ、その一声が刺さる。


 朔之介は落ちなかった。


 割れた板の縁へ、両手を突いた。

 指が、縁を掴む。

 腕が張る。


 荒事の身体。

 舞台の身体。


 けれど――

 足は無理をした。


「……くっ」


 呻きが漏れる音。

 その音が、板の下へ落ちた。


 囃子が止まる。


 笛が切れ、

 三味線が途切れ、

 鼓の間だけが空に残る。


 庭に落ちたのは、重い沈黙です。


 客席はざわめく。


 ざわめきといっても、芝居小屋のように騒がない。

 武家の座敷のざわめきは、

 「不吉」という言葉を、声にせずに広げる。


「……縁起が」


 誰かが小さく言いました。


「屋敷で板が割れるなど」


 別の声。


「羽衣のあとで、これか」


 それが、最も嫌な落ち方をした言葉でした。


 羽衣は天へ昇る話。

 それが終わった直後に、板が割れる。

 落ちかける。


 この屋敷では、偶然が「兆し」になる。


 屋敷の者が走る音。

 砂利が強く鳴り、草履が転ぶ。

 誰かが「控えよ」と低く命じる。


 朔之介は、腕の力で身体を戻し、

 袖へ引かれました。


 足を、庇うように。

 足袋が、砂利をこすって鳴る。


 音音は、袖の影から一歩も動けませんでした。


 動けば、騒ぎになる。

 騒ぎは、屋敷で一番嫌われる。


 紫乃が、音音の肩に手を置きました。


 温かい手。

 そして、短い息。


「……動かない」


 命令ではない。

 音の合図でした。


 屋敷の侍女が控えの間に駆け込み、顔を強張らせます。


「お役者さまを、奥へ」


 廊下が忙しくなり、襖の開閉が増える。

 屋敷の音が、揃わなくなる。


 そして――

 客席の中心の音が、冷たくなる。


 本多 正継の気配。


 まだ言葉はない。

 だが、言葉が落ちる前の静けさは、もっと怖い。


 長老が、低い声で屋敷側へ頭を下げました。

 詫びの言葉は短い。

 長い言い訳は、ここでは罪になる。


 客席の誰かが、畳に杯を置く音がしました。

 少し強すぎる音。


 音音は唇を噛みました。


(……板が、割れた)


 割れた、だけではない。


 割れ方が、嫌でした。


 「ただの事故」の割れ方ではない。

 板は、割れたい場所から割れた。


 そんな割れ方。


 でも、まだ言葉にできない。

 今ここで言ってはいけない。


 屋敷の空気は、「原因」より「収まり」を求める。

 原因を口にするのは、収まりを壊す。


 だから――

 音音は、声を飲み込みました。


 けれど目だけは、止まりません。


 舞台の上に残った裂け目。


 割れた板の縁。


 その向こうの、暗い穴。


 床下。


 板の下に残された空気が、ひゅっと冷たく鳴っていました。


(……見たい)


 目で見るためじゃない。

 胸で聞くため。


 床下の音は、隠せない。

 隠せるのは、上の言葉だけ。


 音音は、そっと一歩、舞台の縁へ近づきました。


 紫乃の手が、また肩を押さえます。

 止める手ではない。

 「今はまだ」の手。


 音音は、頷きました。


 けれど視線は、穴から離れません。


 穴の向こうで、

 何かが、静かに息をしている音がします。


【――舞台が割れたとき、

割れたのは板だけではありません。


人の信じていたものも、

一緒にひびが入ります。


そしてそのひびの先には、

必ず、

見えない“下”があるのです。】

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