第二十二話 羽衣公演前夜
【――屋敷の庭は、
芝居小屋の庭より、静かです。
静かな場所ほど、
小さな音が、よく響きます。】
羽衣公演の前夜。
花叢座の一行は、日が傾ききる前に屋敷へ入った。
屋敷の外堀を越えたあたりから、空気が変わる。
町の夜には人の匂いが残る。湯気や油や、夕餉の甘辛さが、音として重なる。
けれどここでは、その音が薄い。
代わりに、決まりの匂いがする。声を落とし覚悟を整える、あの匂い。
裏門には灯。槍持ち。見張りの眼。
名乗り、用向きを述べ、許しを得て通される。
門をくぐると砂利の音が急に大きくなった。
踏むだけで、自分の立場が測られる音だ。
【――権力の庭は、
足音ひとつで、
人を黙らせます。】
庭の中央に、仮設の骨組みが立ち始めていた。
これが、明日の舞台になる。
屋敷の庭舞台は、地面に板を敷くだけではない。
束を立て、桁を渡し、その上に床板を張る。
床下には、目に見えない空気が溜まり、音が生まれる。
湿りを逃がし、鳴りを整え、影の動線にもなる――芝居小屋の床と似て、けれどもっと静かで、もっと敏感な構造だ。
伊勢屋組が動いていた。
角材を担ぐ肩。縄を締める腕。杭を打つ木槌の低い響き。
どれも大きな声は出さない。屋敷の空気に合わせて、音を削っている。
頭の伊勢屋清兵衛は、少し離れたところで腕を組んでいた。
背は高くないが肩幅があり、現場に立つだけで周りの音が自然と静まる男だ。
「……束は、もう一寸、外だ」
低い声。指が、地面から立ち上がる束の位置を示した。
若い衆がすぐに動く。余計な返事はない。動きが返事だ。
清兵衛が、組みかけの床板の端へ寄った。
腰を落とし、指の関節で軽く叩く。
――コン。
澄んだ音。空気がすぐに返ってくる。
板の下の“余白”が、整っている音。
少し場所をずらす。
――コン。
返りが、ほんの一拍遅れる。
束を伝い、桁が応え、床下の空気が揺れてから戻ってくる。
清兵衛の眉がわずかに動いた。
「ここは、鳴りが深い」
もう一度叩く。
――コン……。
余韻が長い。
悪いわけではない。けれど、役者の足が強く入れば、音が暴れる種類の深さだ。
「踏み込むと跳ねる。
見得を切る場所じゃねえな」
若い衆が頷き合い、束の位置をずらしていく。
動きが揃っている。揃いすぎていて、どこか怖い。
音音は少し離れた場所で、その様子を見ていた。
――見て、聞いていた。
耳で聞く音より先に、胸の奥で鳴る音がある。
板を叩いたときの返り。
空気の揺れ。
桁が受けたときの、微かな遅れ。
(……ここは、返る)
言葉にするほどの何かではない。
けれど、町の板とは違う。
屋敷の板は、返りが静かで、厚い。
弥吉が隣で囁いた。
「屋敷の舞台は、嫌な静けさだな」
「……うん」
音音は短く答えた。
弥吉は、屋敷の空気が苦手らしい。いつもより声が小さい。
伊勢屋組の若い衆の中に、目につく者が三人いた。
ひとりは、甚兵衛。
三十前後。背が高く腕が太い。杭を打つ手が安定していて、音が乱れない。
無駄がない分、息も短い。仕事の息だ。
ふたり目は、与三。
二十そこそこ。返事がやけに良く、動きが早い。
早いのに、周りを気にしすぎる癖がある。視線が落ち着かない。
三人目は、市蔵。
四十前後。手指が節だっている。板を見る目が鋭く、地面を踏んで沈みを確かめる。
歩き方が一定で、音が揃いすぎている。癖を隠しているような歩き方だ。
(……音が、散ってる。
同じ場にいるのに、返りの向きが揃っていない)
悪意と決めるほどではない。
けれど、三人の音は揃わない。
同じ現場にいるのに、同じ呼吸をしていない。
清兵衛がこちらに気づき、顎をしゃくった。
「稽古子か。今日は板に乗るなよ」
「はい」
音音は素直に頷いた。
稽古子が踏んでいい板ではない。ここは屋敷だ。
花叢座の長老は少し後ろに立ち、全体を見ている。
紫乃は縁側に控え、羽衣を膝に置いたまま目を閉じていた。
朔之介は袖口を整え、庭の風を読むように立っている。
舞台の人間の立ち方だ。
清兵衛が長老に向き直った。
「明朝、板を運び込む。組み上げは昼前」
「風次第で幕の張り方を変える」
「囃子方の位置は、後で相談しよう」
長老は短く頷く。
紫乃が静かに言った。
「……板の鳴りが、少し湿ってる」
「夜露だ。乾かす時間を見て組む」
清兵衛の答えは的確だった。
屋敷の庭は夜露が濃い。湿りは板の音を変える。
朔之介が、どこか楽しそうに庭を見渡して言った。
「屋敷の板は、芝居小屋より響く。
明日は、いい音がする」
その声が少しだけ場を和らげた。
屋敷の空気に合わせて、音を落とした言い方だった。
そのとき。
与三が足元を見てしゃがみ込んだ。
「……あれ?」
小さな木片。杭の先の欠けのようにも見える。
清兵衛が受け取り、ひと目見て言った。
「ただの欠けだ。片づけろ」
「へい」
与三は頷き、木片を懐に入れた。
(……しまった)
音音の胸が小さく鳴った。
捨てろと言われたものを、捨てない。
それは、後で“残る”やり方だ。
下見はそれ以上何事もなく終わった。
伊勢屋組は工具をまとめ、縄を巻き、音を消していく。
門を出ると、空気が少し緩む。
町の匂いが戻ってくる。
帰り道、音音は歩きながら考えた。
(伊勢屋組の中に……?)
誰か一人、と決めるには早い。
でも、音は散っていた。
小さな違和感が、落ち葉みたいに道に残っている。
花叢座に戻ると、いつもの庭の板が鳴った。
――トン。
――トン。
見慣れた音。落ち着く音。
それでも今夜は、落ち着ききらない。
紫乃は羽衣の最終確認をし、
朔之介は袖を整え、
長老は何も言わずに灯を落とした。
音音は一人、庭に残り、板を踏んだ。
――トン。
(……明日の板は、もっと大きく鳴る)
そして、鳴りが大きい場所ほど、
狂いも大きくなる。
眠る前、音音は足袋を揃え、息を整えた。
(……近づいてる)
羽衣公演は、もうすぐだ。
けれど、胸の奥に残る音は、今夜のままだ。
(よく分からない)
分からないまま、残っている。
【――屋敷の庭に組まれる舞台は、
一夜で生まれ、
一夜で消えます。
けれど、
そこで鳴った音だけは、
消えません。
明日の羽衣は、
ただの舞では終わらない。
そう告げる音が、
すでに、
板の下で息をしていました。】




