第二十話 甘さの行方
【――同じ場所でも、
朝と昼では、
まったく違う音が鳴ります。】
翌朝の江戸は、音が澄んでいました。
夜の名残はまだ町の隅に残っているのに、空気は軽く、息を吸うと胸の奥まで届く。
桶に水を汲む音。
店の戸を開ける音。
まだ眠そうな猫の足音。
朝は、音が正直です。
隠しごとをする前の音。
音音は、いつもより少し早く花叢座を出ました。
裏口を振り返ると、昨日刺さっていた赤い風車はもうありません。
川沿いの道を抜け、昨日と同じ道を歩く。
同じはずなのに、音が違う。
(……軽い)
昨日は、昼の音でした。
今日は、朝の音。
それだけで、胸の奥が少し開く。
【――確かめるには、
同じ場所を、
違う時間で見る必要がありました。】
倉の戸は、昨日と同じように静かに開きました。
異国の商いが、中にいます。
朝の光が、背中の輪郭だけを縁取っている。
「早いな」
「約束ですから」
音音は、そう答えました。
倉の中に一歩入った瞬間、はっきりと分かります。
(……おかしい。
空気は、冷たく、動かない。
昼間より、音が沈んでる。
朝の音が、倉の奥まで届いていない)
棚。
箱。
甕。
麻袋。
籠。
吊られた縄。
すべては、昨日と同じ場所にある。
なのに、響きが違う。
音音は、何も言わず、倉の中を歩きました。
足音が、重く返る。
昨日よりも、半拍だけ遅い。
商いが、それを黙って見ています。
聞かない。
急がせない。
音音は、昨日も見た高い位置の小さな窓の前で止まりました。
朝日の方角。
――はず、でした。
(……入らない)
光は、窓の縁で止まっていました。
中へ、伸びてこない。
音音は、外を覗きます。
道を挟んだ向こう側。
高く組まれた足場。
太い柱。
新しい梁。
常盤座。
まだ完成していない大きな建物が、朝日を遮っていました。
「……ここ」
音音は、窓枠に指をかけたまま、商いを振り返ります。
「前は、ここから日が入っていましたか」
商いは、外を一度見てから、短く息を吐きました。
「ああ。
朝は、えらい気持ちよかったで。
菓子の色も、よう見えた」
音音は、頷きます。
「いつから、入らなくなりました?」
「……ここ数週間やな」
その答えで、音が一つ、繋がりました。
【――音は、
条件が揃ったとき、
初めて意味を持ちます。】
音音は、倉の壁に目を向けました。
麻袋が、いくつも掛けられている壁。
昨日は、ただ「ある」としか感じなかった場所。
今日は、違います。
(……低い)
音が、沈んでいる。
袋そのものではない。
その奥。
音音は、商いを見る。
「……少し、いいですか」
商いは、無言で頷きました。
音音は、一番端の麻袋を、そっと持ち上げます。
すると――
沈んだ音の元が、壁に現れました。
黒ずんだ斑点。
白い綿のような広がり。
緑がかった影。
カビ。
鈍く、重い。
音音は、静かに息を吸いました。
(……これだ)
倉が暗くなった。
湿りが溜まった。
空気が動かなくなった。
時間をかけて、少しずつ。
「この倉、
前より湿っぽくなっています」
商いが、壁を見ました。
「……ああ」
「急にじゃありません。
だから、気づかなかった」
音音は、棚の方を見ます。
昨日見た玻璃糖。
「玻璃糖は、壊れていません」
商いが、音音を見ました。
「でも、
周りの匂いを、
ずっと吸っていた」
カビの匂い。
湿った壁の匂い。
籠もった空気。
砂糖は、匂いを吸いやすい。
「だから――」
音音は、玻璃糖の包みを指しました。
「甘さが、消えたんじゃない」
商いが、息を詰めます。
「……道が、塞がれたんです」
甘さは、ある。
けれど、舌に届く前に、別の匂いが割り込む。
だから、
「甘くない」と感じた。
音音は、壁のカビをもう一度見ました。
「一昨日、急におかしくなったのは」
商いが、続きを待ちます。
「一昨日は、特に湿りました。
夜、雨がありましたから」
湿りが、決定打になった。
【――味は、
壊れなくても、
迷うことがあります。】
商いは、しばらく黙っていました。
それから、ゆっくりと笑います。
「……なるほどな」
軽い笑いではありません。
長く商いをしてきた男の、納得の笑い。
「菓子が悪いんやない。
倉が、変わったんか」
音音は、頷きました。
商いは、深く息を吐きます。
「常盤座が出来て、
日が遮られた。
それだけで、
味が変わるとは思わんかった」
音音は、静かに言いました。
「味は、舌だけのものじゃありません」
商いは、その言葉を噛みしめるように、何度か頷きました。
そして――
棚から、小さな包みを一つ取り出します。
白い紙。
中には、透明で、宝石のような欠片。
琥珀糖。
寒天と砂糖を煮詰め、乾かした菓子。
外はしゃりりと硬く、
中は、柔らかく溶ける。
「これは、
礼や」
音音の目が、ぱっと細くなります。
「……!」
にひひひひ。
思わず、頬が緩む。
音音は、包みを両手で受け取りました。
目を細めて、口角が上がります。
(……きれい)
「次からは、
ここに置かへん」
商いは、そう言いました。
「日の入る場所に変える」
音音は、頷きました。
「それが、いいです」
【――甘さは、
守り方を変えるだけで、
戻ってくることもあります。】
倉を出ると、朝の光が町に満ちていました。
建てる音。
売る声。
生きる音。
音音は、琥珀糖の包みを胸に抱きます。
甘い音が、
今度は、ちゃんと届いていました。
(……これで、ひとつ)
けれど――
常盤座の建設音が、背中で低く鳴ります。
高く。
重く。
音音は、その音を、忘れませんでした。
【――甘さの道は、
一つではありません。
次に塞がれるのは、
もっと危うい道かもしれないのです。】




