第十九話 甘さの道
【――頼み事は、
声ではなく、
合図でやって来ることがあります。】
朝の花叢座は、まだ静かでした。
板の間には昨夜の稽古の名残が、薄く残っているだけ。
縄の擦れる音も、桶に水が落ちる音も、まだ本気では鳴っていません。
音音は稽古場へ向かう前に、裏口へ回りました。
誰にも言っていない癖。
けれど、この数日で、癖というより――決まりになりつつあります。
裏口の木戸。
柱の影。
竹の節。
そこに、一本。
(……小さな、回る音)
赤い紙風車が刺してありました。
子どもの玩具のように小さく、安っぽいのに、朝の風を受けて、くるり、と一度だけ回ります。
その回り方が、音音には「呼ぶ」音に見えました。
――頼みがあるときは、これ。
――見つけたら、川沿いの祠。
花街で会った夜に、異国の商いが、言葉少なに決めた約束です。
合図を「合図」と呼ばないところが、あの男らしい。
音音は周りを確かめます。
通りはまだ人が少ない。
味噌の湯気と炭の匂いが、家々の隙間から細く漏れている。
棒手振りの桶の音が、遠くで一つ鳴っただけ。
音音は風車をそっと抜き取り、懐へ入れました。
【――秘密は、
大声で隠すより、
小さな約束で守られます。】
花叢座を出ると、江戸の朝が動き始めていました。
魚河岸へ向かう男の足音。
桶を担ぐ女の息。
橋の上を走る下駄。
豆腐売りの笛が、薄い霧を切って伸びる。
朝は、音が細い。
だからこそ、余計な音が混ざるとすぐ分かる。
音音は川沿いへ向かいました。
表の道ではなく、板塀の裏を抜ける小道。
子どもが一人歩いても、怪しまれない道。
川の匂いが近づくと、空気が少し冷たくなります。
舟の腹が、きい、と軋む。
櫂が水を切る。
水面が小さく笑う。
船待ちのために置かれた小さな祠。
石を積んだだけの社。
欠けた鈴がぶら下がり、古い縄が一筋垂れている。
音音が近づくと、祠の影から男が出ました。
異国の商い。
今日も、余計な飾りはない。
顔は見える。
けれど距離は、近づかせない。
「……来たな」
短い声。
音音は懐の風車に触れ、頷きました。
「見ました」
それで十分です。
異国の商いは川面を一度見ると、音を落として言いました。
「倉、行こか」
祠は待ち合わせの場所でしかない。
話をするなら、別の場所。
その区別が、いかにも秘密を抱えた商いらしい。
【――約束の場所は、
一つである必要はありません。
大事なのは、
誰にも見えない繋ぎ目です。】
商いは先を歩きます。
音音は、少し距離を空けてついていきました。
川沿いを離れ、道を一本曲がると、にわかに町の音が増えました。
木戸を開ける音。
猫が鳴く音。
井戸端の笑い声。
縄を巻く音。
そして――遠くから、木槌の打つ音。
カン、カン、カン。
(……常盤座)
最近、町で噂になっている大きな一座。
新しい芝居小屋を建てているという話だけは、花叢座にも届いています。
歩いているうちに、日差しはすでに高くなっていました。
朝の軽さは消え、昼に向かう音が町に満ち始めています。
商いが足を止めたのは、その常盤座の道を挟んだ反対側。
表向きは何の変哲もない、町人地の一角でした。
商いは裏手の小さな戸を開けます。
戸は、ほとんど音を立てません。
中は倉でした。
【――表は町、
中は別の世界。
倉は、そういう顔をします。】
倉の空気は、ひやりとしていました。
倉の中は、昼のはずなのに、
朝と夜のあいだに取り残されたような音でした。
棚が並び、箱が揃い、縄が吊られている。
異国の布。
乾物の袋。
香料の壺。
薬草の束。
木箱。
紙束。
甕。
麻袋。
籠に詰められた乾いた何か。
乾いた布と、古い縄。
倉にあって不思議ではないものばかりです。
雑多なのに、乱れていない。
必要なものが、必要な位置に置かれている倉。
商いは布包みを一つ取り出しました。
中には、透明感のある菓子。
細く、角張った欠片。
玻璃糖。
砂糖を煮詰め、冷やし固めた異国の菓子。
本来は、噛むとしゃり、と鳴り、
甘さがすっと抜ける。
「甘いはずなんや」
音音は、包みを見ました。
(……鳴ってる)
甘い音は、確かにある。
澄んでいて、壊れていない。
なのに――
(……届かない)
舌に届く前に、音が薄れる。
道が途中で、ほどけてしまう。
音音は倉の中の音を、ゆっくりと拾います。
光。
空気。
時間。
高い窓からの光で、
倉の音が、少しだけ温かくなっています。
外からは、常盤座の建設音が、低く続いていました。
(……今日は、もう昼)
音音は、倉の空気を胸に溜めます。
そして、静かに言いました。
「今日は、ここまでで」
商いが、少しだけ目を細めます。
「分かるんか?」
音音は首を振りました。
「まだです。
でも……」
倉の空気が、胸の奥で沈みます。
「朝の音を、見たいです」
商いは、短く笑いました。
「……ほな、明日の朝やな」
音音は、頷きます。
「来ます。
必ず」
倉を出ると、昼の江戸の音が押し寄せました。
人の声。
商いの呼び声。
建てる音。
音音は一度だけ、振り返ります。
(……音は、消えていない)
ただ、
届くはずの道が、
どこかで、遮られている。
【――次の朝、
この音は、
もっとはっきりと、
形を持つことになります。】




