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第十八話 花火の下で

【――祭りの夜は、

人の心を、ふだんより少しだけ前へ押し出します。

音が大きいぶん、

言葉は小さくて済むのです。】


 狐面の影は、境内の中央に立っていました。


 神社の奥。

 大きな銀杏の木のそば。


 提灯の灯りが届かない場所で、

 白い面だけが、月明かりを受けて浮かんでいます。


 その手に――紫乃の巾着袋。


「……あれ」


 音音が息をのむより早く、紫乃が足を止めました。


 祭りの喧騒は、もう背中の方です。

 屋台の呼び声も、太鼓の腹に落ちる響きも、ここでは薄くなる。

 代わりに聞こえるのは、砂利を踏む音。枝が揺れる音。遠くの花火がまだ上がらない静けさ。


 狐面の男は、ぴたりと動きを止めました。


 さっきまで――確かに子どもでした。

 浴衣の丈も、背の高さも、走り方も。


 なのに。


 砂利の踏み方が、変わっていました。

 軽く散るはずの音が、土に落ちる。

 息の位置が、高い。

 腹の底ではなく、胸で鳴る。


「……大きく、なってる?」


 音音の言葉どおりでした。

 背が高い。肩幅もある。足の運びも、子どもの軽さではありません。


 狐面の奥から、ふっと笑い声が漏れました。


「……はは」


 低くて、少し照れたような声。


 紫乃が目を細めます。

 その横顔は、舞台の上で見せる顔に似ていました。逃げない顔。


「その笑い方……」


 狐面の男は、もう一度、笑いました。


「あっ」


 音音と紫乃の声が、同時に重なります。


「朔之介!」


 狐面の男は観念したように肩をすくめ、ゆっくりと面を外しました。


 そこにいたのは――花村 朔之介。


 けれど舞台の上の顔とは違います。

 いたずらが成功した少年のように、無邪気で、少し誇らしげな笑顔。


「何してるのよ、もう」


 紫乃が呆れたように言いながら近づきます。

 朔之介は巾着を差し出し、軽く頭を下げました。


「すまん、すまん。返す」


「……返すじゃないでしょう」


 紫乃は巾着を受け取り、紐を確かめるように指先でなぞりました。

 手つきが丁寧なのは、舞い手の癖です。道具も衣裳も、乱さない。


 音音も後を追おうと――


 その瞬間。


 ぐい、と手を引かれます。


「……し」


 弥吉でした。

 人差し指を唇に当て、音音を鳥居の影へと引き寄せます。


 朱塗りの柱の内側。

 灯りから切り離された、静かな場所。

 鳥居の木は昼の熱をもう失っていて、掌が触れるとひやりとしました。


 弥吉の手。


(……熱い音だ)


 音音は一瞬だけ、弥吉の手の温度が熱い音になって胸に落ちるのを聞きました。

 息も少し速い。


 そこから二人は、境内の中央を見守りました。


 朔之介は姿勢を正します。


 芝居の見得ではありません。

 武張った立ち方でもない。


 ただ、まっすぐ。


 祭りの夜なのに、祭りの浮かれた音が、そこだけ薄くなる。

 誰かが言葉を飲み込むときの、あの間。


 朔之介は懐から包みを取り出しました。


 薄い和紙。

 丁寧に結ばれた紐。


 中に入っていたのは――香包こうづつみ


 沈香と白檀を細かく刻み、絹に包んだもの。

 匂いは強くないのに、芯がある。

 祭りの甘さの中でも、負けない音。


 朔之介は香包を差し出し、何かを言いました。


 声は、祭りの残り音に溶けて、音音の耳までは届きません。

 けれど、紫乃の指先が一瞬止まった。

 それだけで、十分でした。


 紫乃は香包を受け取り、胸のあたりにそっと当てます。

 その仕草が、ひどく静かで――それがいちばん、眩しい。


 そのとき。


 ――ドンッ。


 夜空の奥で、腹に響く音が弾けました。


 続いて、


 ――ヒュゥゥ……パァン!


 火の筋が空を駆け上がり、裂けるように開く。

 赤、青、金。

 そして白い光が、いっとき夜を昼にする。


 花火です。


 神社の裏から、立て続けに上がりました。


 地鳴りのような重低音。

 空気が波打つ。

 胸の骨が、内側から叩かれる。


 遅れて、ぱらぱらと降る残響。

 はらはらと火の粉が消える音が、見えないのに聞こえるようでした。


 光が境内を染め、二人の影が地面に大きく伸びます。


 影は、重なり、少し離れ、また寄る。

 花火が上がるたび、影が一瞬だけ薄くなって、次の瞬間、濃くなる。


 香包を受け取った紫乃の影が、そっと朔之介の影に近づきました。

 影が影に顔を寄せる。


 耳元で、何かを囁く仕草。


 ――ドォン。


 またひとつ、空が鳴る。

 反響が山の向こうで跳ね返り、境内の木々が小さく揺れました。


 朔之介の影が一瞬揺れ、

 それから、深く頷きました。


 頷きの角度が、舞台の頷きとは違う。

 役ではない頷き。


 花火がもう一輪。


 ――ヒュル、ヒュル……バァン!


 開いた光が、境内の砂利を白く照らし、鳥居の朱を赤く燃やします。

 影だけが、しばらくそこに残っていました。


【――言葉より先に、

影が、何かを交わす夜もあります。】


挿絵(By みてみん)


 帰り道。


 祭りの通りに戻ると、音がまた増えました。

 屋台の呼び声。笛。笑い。湯気。

 でもさっきまでのように、うるさくは感じません。


 紫乃と朔之介は、少し距離を空けて並んでいました。


 近すぎず、離れすぎず。


 話していないのに、音は穏やかに揃っています。

 足の運びが同じ速さ。呼吸の長さも、似ている。


 音音には、聞こえていました。


 紫乃の音は、いつもより少し高く、軽い。

 けれど浮ついてはいない。芯がある。

 まるで舞台に上がる前の、あの静けさ。


 朔之介の音は、ゆっくりで、深い。

 いつもより言葉が少ない分、足音が丁寧でした。


 二つの音が、同じ速さで歩いている。


(……いい音)


 音音は胸の奥でそう思いました。


 そのとき、ふと弥吉を見ます。

 弥吉は、少し前を歩きながら、何度も口を開きかけては閉じています。


「弥吉」


「な、なんだよ」


「ところで……狐面、どうしたの?」


「祭りに来てた子どもに、あげたよ」


 弥吉はつい、口を滑らせました。


 言った瞬間、自分で気づいて、慌てて口を押さえます。


「……なんで、分かった?」


 音音は首をかしげました。


「だって」


 静かに言います。


「さっき、私の手を引いたときの弥吉の音、

 息が弾んで、胸の奥が忙しかった」


 弥吉の肩が、びくりと揺れます。


「走って来たのかと思った」


 音音は弥吉の足元を見ました。


 泥の鈍い音が、下駄にだけ残っていた。

 乾いたざらつきが、そこだけ、遅れて鳴る。

 着物には、その鈍さがない。


「それに、下駄にだけ泥がついてた。

 着物には、なかった」


 弥吉は視線を逸らします。


「神社まで走って来て、

 着物だけ着替えたみたいに」


 音音は、ゆっくり続けました。


「狐面の子、弥吉だったんでしょ」


「……」


「朔之介さんに頼まれて、

 紫乃さんを、ここまで連れてきた」


 弥吉はしばらく黙っていました。

 それから、ぽつり。


「……力になりたかったんだ」


(……赤、刺さる音だ)


 祭りの灯りじゃない。

 頬の赤さが、耳の奥で高く鳴りました。


「朔之介さん、こういうの苦手そうだろ」

「だから、手伝ってやりたかった」


 音音は頷きました。

 弥吉らしい。


 でも、弥吉はそれだけでは終わりませんでした。


「でもな」


 声が少しだけ低くなります。


「音音の手を取ったとき、

 胸が、ぎゅっとして……」


 弥吉は、そこで黙り込みました。


 音音が首をかしげると、

 弥吉は耳まで赤くして、横を向きます。


(……分からない音だ)


 祭りの人波に押されて、弥吉がふと近くなる。

 そのときの弥吉の音は、さっきより少し落ち着いていて、

 それがまた、変に可笑しかった。


【――花火は消えても、

夜の音は、心に残ります。


そしてそれは、

いつか、言葉になる音です。】

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