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第十七話 夜祭の狐面

【――花街を訪れてから、数日が過ぎました。

 昼の江戸と夜の江戸、

 そのどちらにも、

 音音の耳は、少しずつ慣れてきていました。】


【――祭りの夜は、

江戸がいちばん、子どもに戻る夜です。

大人の声も、商いの声も、

一度だけ、鈴の音にほどけます。】


 先日の礼だと、篝は言いました。


「夜祭があるの。来ない?」


 花街の女が祭りに誘うのは、軽いことではありません。

 座敷の外へ出るということは、

 “見られる側”から一時、降りるということでもあります。

 花魁ともなると、なおさらです。


 けれど篝の声には、

 あの夜の甘さではなく、

 ほんの少し、素の音が混じっていました。


「一人じゃつまらないでしょう。知り合いも誘っていいわ」


(……誘っていい)


 その一言で、

 音音の胸の奥が、

 小さく、澄んだ音を鳴らしました。


 許された音。

 輪の中に入っていいという音。


 音音が声をかけたのは、まず紫乃。

 次に朔之介。

 それから弥吉。


 紫乃は迷いなく頷きます。


「夜の風を身体に入れておくのも、稽古よ」


 その声は、舞台袖で聞く声と同じ。

 余計な飾りのない、芯のある音でした。


 朔之介は、片眉を上げて笑いました。


「花街の花魁に誘われる祭りか。

 そりゃ、行くしかないな」


 軽い冗談の音。

 けれど、その裏に、

 “守る気”の音が、確かにあります。


 弥吉は腕を組んで、

 少し考えるふりをしてから言いました。


「……お前のお守り役が必要だからな」


(それ、理由になってない)


 そう思いながらも、

 音音は何も言いませんでした。


 そこへ、話を聞きつけた衣裳部屋の小娘たちが、

 ずらりと並びます。


「ねねちゃん、ずるい!」とお鈴。

「花火、見たい」とお梅。

「……お邪魔じゃない?」とお春。


 声が重なり、

 ぱちぱちと弾む音になります。


 邪魔かどうかは、音音にも分かりません。

 けれど、その軽さは、

 確かに祭りに似合っていました。


(……この音、好きだ)


 迎えの刻限に、

 篝の遊郭からも人が出てきます。


 篝に加えて、花魁が二人。


 遊郭の名は――玉響楼たまゆらろう


 行灯の灯りは柔らかく、

 格子の影は深い。

 近づくと、

 音が、ふっと静かになる店でした。


 朔之介が、小声で言います。


「ここはな、派手じゃないが、音が静かだ。

 いい店だよ」


 花魁のひとりは、夕霧ゆうぎり

 淡い藤の着物をすっと着こなし、

 目線だけで場を整える女。


 声は低く、

 笑うときは、口元だけが緩みます。


 もうひとりは、紅葉太夫もみじだゆう

 朱に金の柄。

 歩くだけで、匂いが先に届く。


 華やかなのに、

 仕草がどこか子どもじみていて、

 笑い声が、よく弾みました。


 音音は、そっと二人を見ます。


(……香りの音が違う)


 夕霧は、深く沈む音。

 紅葉太夫は、跳ねる音。


 同じ花魁でも、

 夜の鳴り方は、こんなにも違います。


【――夜は、人の「本当」を、

 少しだけ、浮かべます。】


 祭りへ向かう道は、

 夕暮れの江戸が、いちばんきれいな時間でした。


 西の空が薄紅に染まり、

 屋根の端が金色に光る。


 水売りの桶が鳴り、

 蕎麦屋の湯気が白く流れ、

 焼き団子の甘い匂いが、風を追い越していきます。


 橋を渡れば、川の匂い。

 小舟が軋み、

 櫂が水を切る音が、低く響く。


 人は増え、

 足音が重なり、

 町が一つの大きな呼吸になります。


 紫乃は、空を見上げました。


「今夜の風は、よく舞うわ」


 その言葉通り、

 風は、肌を撫でて抜けていきます。


 朔之介は肩に手ぬぐいを引っかけ、

 わざとらしく首を鳴らしました。


「祭りの風は、芝居より厄介だぞ。

 足元が浮く」


 弥吉は小娘たちをまとめながら、

 苦笑します。


「お鈴、走るな。

 お梅、屋台に目を奪われるな。

 お春、離れるな」


「弥吉、うるさい!」

「弥吉兄ぃ、あれ食べたい!」

「……弥吉さん、ありがとう」


 声が重なり、

 すぐにほどける。


 音音は、そのやりとりが可笑しくて、

 口元が緩みました。


(……今日は、みんな、やわらかい)


 祭りは、人をやわらかくします。


【――灯が並ぶと、

 江戸は、別の町になります。】


 会場に着くと、

 境内は、すでに人の海でした。


 提灯が連なり、

 赤と金がゆらゆら揺れる。


 屋台の呼び声。

 笛。

 太鼓。


 甘い、辛い、焦げた、湿った匂いが、

 一気に押し寄せます。


 足元は下駄だらけなのに、

 不思議と転ばない。


 ぶつかりそうで、ぶつからず、

 肩が触れたら、笑ってすり抜ける。


 境内の奥には舞台が組まれ、

 踊りの輪。


 型ではなく、

 熱が音を引っ張る舞。


(……うるさいのに、気持ちいい)


 音音の胸の奥で、

 その音が、丸く鳴りました。


 篝が、扇で口元を隠して笑います。


「ほら。散ってきなさい。

 夜店は逃げないわ」


 紅葉太夫が、きゃっと手を叩きました。


「飴が見たい!

 金魚も!」


 夕霧は、静かに言います。


「裾を踏まれないように」


 その一言で、

 人の流れが、少し割れました。


 皆が二手三手に散っていきます。


 音音は、紫乃と二人で、

 かんざしの屋台へ向かいました。


 銀の光。

 鼈甲(べっこう)の艶。

 小さな玉が揺れる簪が、

 提灯の明かりを吸って、

 きらりと鳴きます。


「似合いそうね」と紫乃。

「……似合わない」と音音。


 紫乃は、くすりと笑いました。


「似合うわ。

 舞台に立つ子は、光が好きなの」


(……光の音)


 そのときでした。


 すっと、

 風が切れます。


 紫乃の脇から、

 小さな影。


 浴衣姿。

 狐の面。


 面の奥は見えないのに、

 確かな速さ。


「――っ」


 紫乃の巾着が、

 ほどけるように、持っていかれました。


「待ちなさい!」


 紫乃が追います。

 音音も走りました。


 狐面の子は、人混みをすり抜ける。

 逃げる。

 ……けれど、時々、止まり、振り返る。


(……誘ってる?)


 音音の胸の奥で、

 変な音が鳴りました。


 祭りの音は賑やかです。

 太鼓。

 笛。

 笑い声。


 なのに、その中に――


(……細い)


 糸みたいに細い音が、一本、混じっている。


 狐面が動くたび、

 その音が、引かれる。


 夜店の灯りが途切れ、

 影が深くなる。


 境内の奥へ。

 神社の方へ。


 鳥居の影が、

 口を開けたようでした。


(……祭りの外だ)


 賑わいの音が、

 背中で、薄くなる。


 木と土の匂いが、強くなる。


 狐面が、また、振り返る。


 紫乃の背筋は、

 舞台に立つときと、同じくらい真っ直ぐです。


 音音は、その背中を追いながら、

 胸の奥の音に、耳を澄ませました。


(……ここ、変だ)


 境内の空気は、冷たいのに、熱い。

 静かなのに、ざわついている。


 そして――


(……花火の音が、まだ鳴ってない)


 なのに、腹の奥が“鳴る前の鳴り”で震えていました。


【――祭りの夜は、

人を、別の場所へ連れていきます。


その道の先にあるものを、

まだ誰も、知りません。】


挿絵(By みてみん)



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