第十六話 巫女の国の子守歌
赤ん坊は、ぬくもりの中にいました。
目を閉じているのに、闇はただ暗いだけではありません。
柔らかく揺れ、ゆっくり呼吸する布の気配が、世界を丸く包んでいました。
抱かれている。
それだけが、確かでした。
指先のまわりに、薄い空気がすべり、
肌に触れる衣のやわらかさが、ゆっくりと形を変えます。
赤ん坊は言葉を知りません。
けれど、安心と不安の違いだけは、体の奥で分かります。
頬に触れた指が、あたたかい。
そのあたたかさは、ただ温度ではなく、守られている感じでした。
そして――
高くも低くもない、静かな声が降ってきます。
「……むかし、むかしのおはなしですよ」
母らしき人の声でした。
優しく、急かさず、眠りへ押し戻すための声。
赤ん坊は、その声が始まると、世界がほどけていくのを知っています。
天井も、床も、布団も消えて、代わりに“物語の景色”が生まれる。
声は、ゆっくりと続きます。
「とても、とても昔。
山がまだ高く、川がまだ若く、
人の暮らしが、今より小さかったころ」
そこには、小さな国がありました。
大きな城も、硬い塀もありません。
けれど、その国はいつも穏やかでした。
畑は枯れにくく、
雨は偏らず、
川は溢れにくい。
人々は、よく笑い、よく眠り、よく働きました。
国が栄えるというのは、金や武具が増えることではなく、
朝に起きて、夜に眠れることだと、そこでは信じられていました。
「その国にはね、
ひとりの巫女がいたのです」
巫女は、山あいの社のそばに住み、
朝になると、ひとりで境内へ出ました。
彼女は、杖も持ちません。
護衛もいません。
豪華な衣もありません。
ただ、白い布と、細い紐と、
小さな青銅の鈴を持っていました。
巫女が境内に立つと、
不思議なことが起きます。
空が、少しだけ近づく。
雲の輪郭がはっきりする。
風が、曲がる。
山の木々が、同じ方向へ揺れる。
川の流れが、一瞬だけ整う。
――それは、巫女が何かを“した”からではありません。
巫女が、ただそこに“いる”だけで、
世界のほうが、少しだけ姿勢を正すのです。
人々はそれを、こう言いました。
巫女の「不思議な力」だ、と。
巫女は、空を見上げ、
土に手を当て、
川の水面をじっと見つめました。
そして、何かを確かめたあと、
町へ戻る人にだけ、短く告げます。
「明日は、田の水を増やしなさい」
「今夜は、火を絶やさないで」
「この三日は、舟を出さないほうがいい」
言葉は、いつも少ない。
理由も、詳しくは語らない。
けれど――
巫女の言葉は、妙に外れませんでした。
雨が長く続く前に、堤を高くする。
風が荒れる前に、屋根を押さえる。
川が怒る前に、舟を岸へ上げる。
不思議なことに、
国の人々は、巫女の言葉を疑いません。
なぜなら巫女は、脅すために話さないからです。
権威を振りかざすためでも、支配するためでもない。
ただ、淡々と「そうしたほうがよい」と言うだけ。
その淡々とした言葉が、
人々の心を落ち着かせました。
「巫女はね、
未来を“当てよう”としたわけじゃないのです」
母らしき声は、少しだけ低くなります。
「ただ、世界が変わる前の気配を、
人より少しだけ先に“知ってしまう”だけ」
知ってしまう。
その言い方は、優しいのに、どこか寂しい。
巫女にとって、力は誇りではなかったのかもしれません。
それでも、国はその巫女に救われました。
大雨が来る前に、畑は守られ、
早い寒さが来る前に、薪は積まれ、
病が広がる前に、湯が沸かされ、食が整えられました。
巫女は、何かを治すわけではありません。
何かを消すわけでもない。
ただ、避けるだけ。
避けるために、少し早く気づくだけ。
その「少し」が、
人を生かします。
国の人々は、巫女を崇めすぎませんでした。
神にしてしまえば、近づけなくなる。
近づけなくなると、言葉が届かなくなる。
だから人々は、巫女を「同じ人間」として扱いました。
礼は尽くす。
けれど、過剰に祈りすぎない。
巫女が望んだのは、
たぶん、そういう距離だったのです。
巫女が社へ戻る道には、いつも季節の匂いがありました。
春なら、湿った土と芽の匂い。
夏なら、熱と水の匂い。
秋なら、乾いた草と実の匂い。
冬なら、冷えた空と煙の匂い。
巫女は、その匂いの中を歩き、
社の戸を開け、
木の器に水を注ぎ、
白い布で手を拭く。
その暮らしは質素で、静かでした。
けれど、国の中心にいるのは確かでした。
ある年、国に大きな祭りが生まれます。
実りが続いた年の終わり、
人々は、太鼓を鳴らし、踊り、灯を並べました。
子どもたちは、紙で作った小さな風車を回し、
大人たちは、甘い菓子を分け合い、
年寄りたちは、火のそばで笑いました。
巫女は、その祭りの輪の端に座り、
火を見つめていました。
人々は巫女を輪の真ん中へ呼びません。
呼べば、巫女の居場所が「役」になってしまう。
巫女は役者ではない。
ただ、そこにいる人であり続けた。
巫女は祭りの熱を、静かに眺め、
ときどき、笑いました。
その笑いは大きくはないけれど、
どこか安心する笑いでした。
「国が栄えたのはね、
巫女が強かったからじゃないのです」
母らしき声が、ゆっくりと言います。
「巫女の言葉を、
人が“聞いた”から」
聞いた。
意味は分からなくても、赤ん坊の胸の奥に、何かが落ちます。
誰かの話を聞く。
それは、争わないための一番の方法かもしれない。
巫女は、不思議な力を使って、国を支配しません。
誰かを罰しません。
誰かの願いを叶えるかわりに、何かを奪うこともしない。
ただ、
「こうしたほうがよい」と言うだけ。
その国の人々は、
「そうしよう」と言うだけ。
だから国は、長く続きました。
小さな国のまま、
壊れない速さで。
巫女が年を重ねても、
国は同じように暮らしました。
巫女の髪に白いものが混じり、
手が少し細くなっても、
巫女は変わりませんでした。
変わったのは、周りです。
遠い国の人々が、噂を聞きつけるようになりました。
「不思議な力の巫女がいる国」
「災いを避ける国」
「作物が枯れぬ国」
人は、知らないものを、
欲しがります。
欲しがるだけなら、まだよい。
けれど、欲しがったものを手に入れるために、
理由を作り始める。
そういう人間が、外にはいました。
そして――
母らしき声は、赤ん坊の髪を撫でるように、
ゆっくりと語り続けます。
「巫女はね、
自分が“特別”だとは思っていなかった」
「ただ、少しだけ、世界の動きを先に知ってしまう。
それだけ」
「それが、
時に、人を救ってしまう」
赤ん坊のまぶたの裏で、
祭りの灯が揺れます。
火の色が、やさしく揺れる。
その揺れと一緒に、
抱く腕のぬくもりが、少しだけ強くなりました。
まるで、何かを落とさないように。
「……おやすみ」
母らしき声が、最後にそう言いました。
「こんど、
また、つづきを読みましょうね」
赤ん坊は、その約束の意味を知りません。
けれど、
“続きがある”という安心だけは、胸で分かります。
夢は、ゆっくりと薄くなり、
火の灯が遠ざかり、
国の景色が、霧のようにほどけていきました。
最後に残ったのは、
白い布と、木の器と、
巫女の静かな横顔。
そして――
赤ん坊を包む、ぬくもりだけ。
朝。
【――夢から覚めた直後の朝は、
世界がまだ、半分だけ物語の中にいます。】
音音は、ふっと目を開けました。
障子の向こうが白い。朝の光が、紙の繊維を細かく鳴らしていました。
(……いまの、夢)
胸の奥に、まだ柔らかい余韻が残っている。
声。ぬくもり。言葉の並び。
だれかが、赤ん坊に何かを読んでいた――そんな夢。
(赤ん坊……)
自分が赤ん坊だったのか、それとも“ただの赤ん坊”だったのか。
夢の中では、どっちでもよかったのに、起きた瞬間だけ、妙に気になる。
布団の中で指を動かすと、寝巻きの布がすべって、小さく音が鳴る。
その音に混じって、どこか遠くの台所が起きていく音も聞こえた。
桶に水が落ちる音。
竈に薪が当たる音。
誰かの咳払いが、まだ寝ぼけたまま短く鳴る音。
(いつもの朝だ)
いつもの朝。
なのに、頭の奥にだけ、夢の白さが残っている。
音音は布団から抜け出して、足袋を探しました。
畳は冷たく、冷たさが胸の奥で低い音になる。
(夢の中は、ずっとあったかかったのに)
不思議な夢ほど、起きてから手触りがない。
けれど音だけは、しつこく残る。
消えないのは、言葉じゃなくて、気配の方。
【――忘れたくない夢ほど、
言葉にしようとすると、ほどけてしまいます。】
着替えを終え、髪をまとめ、戸を開けた瞬間。
「おい」
廊下の向こうから、声が飛んできた。
弥吉です。
「いつまで寝ぼけてんだ。顔、変だぞ」
「変じゃない」
「変だよ。目の焦点がずれてる」
(焦点ってなに)
言い返そうとして、音音は一度だけ口を閉じました。
弥吉の声は、いつもより少し軽い。
稽古もない朝の軽さ。
弥吉は、腕を組んでこちらを見ました。
「……今日は、暇だろ」
「……まあ」
「じゃあ、町いくぞ」
「どこ」
「どこでもいい。団子でも、飴でも、なんでも」
(団子……!)
胸の奥が、きゅっと鳴った。
夢の余韻より、団子の方が分かりやすい。
「行く」
即答すると、弥吉が呆れたように鼻を鳴らしました。
「そういうとこだけ、返事が早え」
【――子どもは、
好きな音には、迷いません。】
花叢座を出ると、町の朝が動き始めていました。
下駄。車輪。売り声。湯気。
どれもが先に音として耳に落ちてから、景色が追いついてくる。
弥吉が少し前を歩く。
歩幅が、いつもよりほんの少しだけ大きい。
(……張り切ってる)
別に、何かの用事があるわけじゃないのに。
“町に出る”というだけで、弥吉の音が少し速い。
「お前、なに買う」
「珍味」
「朝から?」
「朝だから」
「意味わかんねえ」
(意味ある)
音音は、鼻先に流れてくる音を追いました。
甘い音。焦げた音。酸っぱい音。
朝の町は、腹の音が多い。
そのとき――
「音音!」
呼ぶ声。
その声が先に胸に入ってきて、次に姿が見えた。
新吉です。団子屋の息子。
蒸籠の湯気みたいな、温かい音をしている。
新吉は店先から飛び出してきて、途中で転びそうになって、慌てて踏ん張りました。
(あぶない)
でも転ばない。
転ばないところが、新吉らしい。
ぎりぎりのところで、いつも持ちこたえる。
「こんなとこで会うの、珍しいな」
「うん。弥吉と遊び」
音音が言うと、新吉の目が一瞬だけ弥吉を見る。
弥吉も同じように、新吉を見る。
……空気が、少しだけ固く鳴った。
(……なんか、変な音)
弥吉が口を開きました。
「お前、店は?」
「父ちゃんがいる」
「へえ」
へえ、の音が、ちょっとだけ尖っている。
新吉は、なぜか咳払いをして、蒸籠のふたを少し持ち上げました。
ふわ、と湯気が上がり、甘く丸い音が町に広がる。
「……団子、いる?」
新吉の声は普通なのに、手元が少し丁寧すぎる。
丁寧すぎる動きは、落ち着かないときの音です。
「いる」
音音は即答しました。
弥吉が横から言う。
「買うのかよ」
「うん」
「俺が買う」
「新吉がくれるって言った」
「俺が買う」
「なんで」
「……なんでもだ」
(なんでもってなに)
音音が首をかしげている間に、新吉は包みを一つ、すっと差し出しました。
いつもより団子が一本多い。
(多い)
音が、一本ぶん多い。
紙の擦れる音が、余計に柔らかく重なる。
弥吉が、それを見て眉をひそめました。
「……おい。商売だろ」
「これは、端っこだよ。形がちょっとだけ崩れたやつ」
「崩れてねえじゃん」
「崩れてるってことにするんだよ」
新吉が笑って言う。
笑いは軽いのに、弥吉の方へ向ける音だけ少し強い。
(……え、なに、二人とも団子の話してる?)
音音は包みを受け取り、団子を一本取り出して、口に入れました。
甘い。
甘さが、ちゃんと最後まで鳴る。
(うまい)
それだけで、音音は機嫌が直りました。
夢の余韻も、少し遠くなる。
弥吉がじっと見ている。
「……なに」
「いや。口の端、汚れてる」
「汚れてない」
「汚れてる」
弥吉は、自分の手ぬぐいを取り出し、ぐい、と音音の口元を拭きました。
「ちょ、やめて」
「動くな」
命令みたいに短い声。
新吉が、すぐに言った。
「自分で拭けるだろ」
「今拭いた」
「だからって、弥吉がやることない」
「うるせえ。口の端だ」
(口の端……?)
音音は、二人を交互に見ました。
二人とも、同じところを見ている。
なのに見ている音が、なぜか“違う”。
(……わかんない)
【――分からない音ほど、
大人の入り口に近い音です。】
音音が「珍味を見に行く」と言うと、二人はなぜか同時に「俺も行く」と言いました。
同時すぎて、言葉が重なる。
「……一緒に来なくていい」
音音が言うと、
「危ねえだろ」と弥吉。
「迷うだろ」と新吉。
音音は眉をひそめました。
(危なくないし、迷わない)
けれど言い返すより早く、二人は左右に並びました。
まるで挟むみたいに。
(……なにこれ)
音音は、仕方なく歩き出しました。
乾物屋。香辛料屋。魚の干物。
町の音が次々変わる。
乾いた塩の音。酸っぱい発酵の音。油の重い音。
音音は、干物の棚の前で足を止めました。
そこに、少しだけおかしな音がある。
(……沈んでる)
「これ」
音音が指さすと、店の親父が顔を上げる。
「おお、嬢ちゃん。よく分かったな。昨日入った新しいやつだ」
「新しいのに、古い音がする」
「へへ。いい鼻してんな」
(鼻じゃない)
言いかけて、音音はやめました。
どうでもいい。珍味ならいい。
弥吉が、すぐに言う。
「それ、いくらだ」
新吉も言う。
「俺が買うよ」
弥吉が睨む。
「なんでお前が買うんだよ」
「音音が見つけたんだろ」
「俺だって一緒に見てた」
「見てただけだろ」
(……見てただけ)
音音は、二人を見上げました。
「買わない」
二人が同時に止まる。
「え」
「は?」
「高いから」
店の親父が笑った。
「嬢ちゃん、しっかりしてんな」
弥吉が言う。
「なら安いのにしろ」
新吉も言う。
「こっちの、少しだけでいいなら――」
二人の声がまた重なる。
重なり方が、さっきよりちょっと強い。
(……なんでそんなに頑張るの)
音音は、棚の隅にある小さな袋を見つけました。
色が濃く、匂いが尖っている。
尖っているのに、嫌じゃない。
むしろ、胸の奥がきゅっと鳴る。
「これがいい」
「それ、辛いぞ」と弥吉。
「それ、渋いぞ」と新吉。
「いい」
音音は即答しました。
親父が袋を持ち上げ、量りに乗せる。
じゃら、と秤の音。
「ちょいとだけなら、安くしとく」
弥吉が財布を出しかけた瞬間、
新吉も同時に銭を出した。
――ちゃりん、と二つの音が重なる。
親父が目を丸くした。
「おいおい、どっちが払うんだ」
弥吉が言う。
「俺」
新吉も言う。
「俺」
音音が言う。
「私」
二人が同時に言う。
「だめ」
(なんで)
音音は眉をひそめました。
「私の珍味なのに」
弥吉が言う。
「お前は銭、落とす」
「落とさない」
「この前落とした」
「それは弥吉が急に押したから」
「押してねえ」
新吉が言う。
「俺が払う。店の近くだし、あとで父ちゃんに言えるし」
弥吉が言う。
「関係ねえ」
新吉が言う。
「関係ある」
弥吉が言う。
「関係ねえ」
(……団子と同じやつだ)
音音は、そこで急に分かりました。
(競ってる)
団子。銭。珍味。
何でもいい。
とにかく“勝ちたい”音。
でも、何に勝ちたいのかは――音音には分からない。
【――勝負の理由が分からないのは、
勝負が、理由のために起きていないからです。】
音音は、親父に言いました。
「じゃあ、二人から半分ずつもらって」
親父が噴き出した。
「ははっ! 嬢ちゃん、そりゃ名案だ」
弥吉が固まる。
「……半分ずつ?」
新吉も固まる。
「……半分ずつ?」
「うん」
音音は、当然みたいに頷きました。
「どっちも払いたいなら、どっちも払えばいい」
(簡単)
二人が、同時に口を開けて、同時に閉じた。
親父は楽しそうに銭を二つ受け取り、袋を渡してくれました。
袋は軽いのに、音が濃い。
音音はそれだけで満足だった。
帰り道。
音音が袋を振ると、中身がさらさら鳴る。
(いい音)
弥吉が、少し前を歩く。
新吉が、少し後ろを歩く。
さっきまで横にいたのに、なぜか距離が空いた。
(……なんで、離れた)
音音が首をかしげると、弥吉が振り返った。
「……重くないか」
「重くない」
新吉も言う。
「袋、破れてない?」
「破れてない」
音音が言うと、二人は同時に「そっか」と言った。
その“そっか”の音だけが、妙に揃っていて可笑しい。
(変なの)
でも、悪い音じゃない。
朝の町の、のんびりした音。
花叢座の門が見えてきたころ、音音はふと、胸の奥の余韻を思い出しました。
あの夢の声。
赤ん坊に語りかける、やわらかい声。
(……なんの夢だったんだろ)
わからない。
けれど、不思議な気持ちになった。
音音は袋を握り直し、にひ、と笑いました。
(あとでこっそり食べよ)
【――夢はほどけても、
音は残ります。
そして、残った音が、
いつか、夢の続きを呼び戻します。】




