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第十五話 木札の印

挿絵(By みてみん)


【――江戸の芝居は、

役者だけでは成り立ちません。


板を組む者、

幕を張る者、

灯りを守る者。


影で動く者たちがいて、

はじめて舞台は鳴ります。】


 異国の商いから聞いた話は、

音音の胸に、静かに沈んでいました。


 ――首にかけた木札。

 ――見慣れた印。


(……あれは)


 花叢座で舞台を組む者たちが、

腰や首に下げている札と、

よく似ていたのです。


 江戸では、芝居小屋や屋敷舞台の設えは、

舞台請負と呼ばれる職分が担います。


 板を運び、

足場を組み、

幕や背景を据え、

油皿の火を整える。


 役者が舞う前に、

すでに一つの芝居が終わっている。

そんな仕事でした。


 花叢座が長く頼んでいるのは、

辰巳座敷請負・伊勢屋組。


 屋号は伊勢屋。

かしらは――

伊勢屋いせや 清兵衛せいべえ


 五十を越えた男で、

背は高くないが、肩幅があり、

現場ではいつも腕を組んで立っています。


「板は嘘をつかねえ」


 それが、清兵衛の口癖でした。


 配下には十人ほどの職人がいます。


 年嵩の木組みは、

柱と貫の癖を読み、

軋みを先に殺す。


 幕張りは風を読む。

張りすぎれば破れ、

緩ければ影が泳ぐ。


 火番は油と灯心を見張り、

煤で衣裳を汚さぬよう、

風向きにまで気を配る。


 荷運びの小僧は、

道具を落とさないことを誇りにしていました。


 誰が欠けても、

舞台は立ちません。


 音音は、

それとなく話を聞きました。


 清兵衛にも、

若い衆にも。


「羽衣の衣裳、

 触った人を見ませんでしたか」


「片づけの時に、

 誰か近くにいましたか」


 言葉は、できるだけ軽く。

探っていると悟られないように。


けれど、

返ってくるのは、決まりきらない音ばかりでした。


 舞台請負は、

役者の衣裳に直接触れることは、

ほとんどないのです。


「気にしてなかったな」

「人は多かったが、覚えちゃいねえ」


 清兵衛は肩をすくめました。


 悪意の音は、

ここにはありませんでした。

 あるのは、仕事の音だけでした。


(……でも)


 音音は、

あの木札の印を思い出します。


 確かに――

ここに、ある。


 けれど今はまだ、

誰かを指す音ではない。


 それ以上は、

追えませんでした。


【――真実は、

名札を付けて歩きません。】


 それからの日々。

羽衣の稽古が続きました。


 朝。

 昼。

 夕方。


 花叢座の庭で、

紫乃に教わりながら、

一つずつ体に入れていきます。


 そして――

羽衣公演に向け、

準備は少しずつ本格化していました。


 伊勢屋組の者たちが、

下見や段取りのために顔を出すことが増え、

花叢座の裏では、

板を確かめる音が、

日に日に多くなっていきます。


 まだ舞台は組まれていない。

けれど、

音だけが先に増えていく。


(……来てる)


 音音は、

胸の奥で、そう感じていました。


 ある日のこと。


「音音ー」


 門のところで、

新吉が手を振りました。


「差し入れ!」


 包みを受け取ると、

みたらし団子。


「ありがとう。

 あとで食べるね」


 音音はそう言って、

包みを縁側の端に置き、

稽古に戻りました。


 ――が。


 ひとしきり舞ったあと。


「……ない」


 包みが、消えています。


「猫じゃない?」


 誰かが言いました。


 花叢座には三毛のこてつがいる。

甘い匂いに弱く、

団子を狙った前科もある。


 けれど。


(……違う)


 音音は、

その場にしゃがみ込みました。


 包み紙は、

乱れていない。


(急いだ音じゃない)


 音音の感覚では、

音は耳だけのものではありません。


 触れた跡、

残った間、

空気の揺れ。


 それらすべてが、

胸に「音」として返ってきます。


(……落ち着いた音)


 奪って、隠れて、逃げた。

そんな音ではない。


 座って、

間を取り、

味わった音。


 音音は、

ゆっくりと視線を上げました。


 縁側に腰を下ろしているのは――

花村 朔之介。


 花叢座の看板役者の一人。

荒事もできるが、

立ち姿と間で魅せる型の名手。


 座の者からは、

頼れる兄貴分として慕われています。


 音音にとっても、

朔之介は尊敬する役者でした。


 稽古で迷えば、

余計な言葉は言わず、

「今のは、いい」とだけ頷く。


 舞台の上でも、

裏でも、

背中で示す人です。


 今は、

何事もない顔で座っています。


 けれど。


(……ここ)


 音が、

そこだけ、少し違う。


 音音は立ち上がり、

静かに言いました。


「……朔之介さん」


「ん?」


「それ、

 一人で全部は、

 多くありませんか」


 一瞬。

 間。


 空気が、

ほんの少し跳ねました。


「……なんで分かった」


 音音は、

包み紙を指さします。


「猫なら、

 もっと急いだ音が残ります」


 そして、

縁側の板に手を当てました。


「ここ、

 人が座って、

 落ち着いていた温もりが残っています」


 朔之介は、

一拍置いてから、

声を立てて笑いました。


「参ったな。

 舞台より鋭い」


 周りも、

つられて笑います。


 場の音が、

やわらかくほどけました。


「次は二本ずつだ」


「お願いします」


 音音は、

小さく頭を下げました。


【――舞台の前には、

こういう時間が必要です。】


 そうして、

月日は流れます。


 羽衣公演は、

確実に近づいていました。


 板の音が増え、

人の出入りが増え、

花叢座の空気が、

少しずつ張り詰めていく。


 紫乃は羽衣を肩にかけ、

静かに目を閉じる。


 音音は足袋を整え、

深く息を吸いました。


 胸の奥で、

音が鳴る。


(……来る)


 舞台が整い、

人が集まり、

音が重なっていく。


 その中に、

まだ――

名を持たない違和感。


【――羽衣が舞う日が、

近づいています。


そして、

その舞台で鳴る音は、

もう、

偶然では済まされません。】


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