第十四話 異国の商い
【――花街の夜は、
外ほど賑やかで、
奥へ行くほど、
音が重くなります。】
花街の通りは、今夜も浮かれていました。
行灯の赤が連なり、
白粉の甘い匂いが風に混じる。
男たちの笑い声は高く、
下駄の音は軽い。
呼び込みの声は、
伸びやかで、よく通る。
その声の裏には、
金を待つ音、
時間を急かす音が、薄く重なっていました。
夜は、ここでは遊ぶためのものです。
笑い、飲み、触れ、忘れるための夜。
けれど――
篝に導かれ、
一軒の遊郭の奥へ足を踏み入れた途端、
その賑わいは、戸の外に置き去りにされました。
廊下は暗く、
灯りは低く、
音が、吸われる。
歩くたび、
下駄の音が畳に沈み、
反響しない。
(……奥に行くほど、
音が戻ってこない)
音音の胸の奥で、
小さな警戒の音が鳴りました。
【――同じ建物でも、
部屋が変われば、
夜は別の顔を見せます。】
すれ違う襖の向こうでは、
女の笑い声が弾み、
三味線が細く鳴っていました。
杯が置かれる音。
帯が擦れる音。
ささやき合う声。
それらはすべて、
表の夜の音です。
ですが、
篝が止まったこの座敷だけは、
異様なほど静かでした。
畳は新しく、
香は控えめ。
杯は、まだ口をつけられていない。
整いすぎた静けさ。
(……誰も、
ここでは息を深くしてない)
音音は、
自分の呼吸の音だけが、
やけに大きく聞こえるのを感じました。
座敷の奥、
行灯の影が濃い場所に、
一人の男が座っていました。
深くかぶった笠。
口元を覆う布。
顔は、はっきりと見えません。
動かない。
動かないのに、
“いる”音がする。
(……人の形をした、
重りみたいな音)
けれど――
「おお、来はったか」
声だけは、妙に明るい。
関西訛り。
軽い調子。
その声は、
場の重さを、わざとずらすような音でした。
栄が、自然に一歩前へ出ました。
「……この方が」
「せや。
“商い”や」
男は、ひらりと手を振ります。
「名前は聞かん方がええ。
顔も、覚えん方がええ」
その言い方だけは、
冗談の音がしませんでした。
ここにある決まりの音。
破ったら戻れない線の音。
篝が、短く続けます。
「約束通りよ」
「分かっとる」
商いは、
ゆっくりと視線を動かし、
音音へと向けました。
顔は見えない。
けれど――
(……軽い)
音音は思いました。
声の音と、
腹の奥の音が、ずれていない。
大きな嘘をつく人の音ではない。
誰かを傷つけることを、
楽しむ音でもない。
(……怖くはない)
だからといって、
安心できる音でもありません。
「で?」
商いが、楽しそうに言います。
「今日は何を聞きたいんや」
栄が口を開く前に、
音音が一歩、前へ出ました。
畳が、
ほとんど鳴らない。
「異国の毒について」
その言葉が落ちた瞬間、
座敷の空気が、
きゅっと縮みました。
商いの動きが、
一瞬だけ止まります。
それでも、声は変わりません。
「……物騒やな」
軽く笑い、
ゆっくり首を振りました。
「すまんな。
誰に売ったかは、
言えん決まりや」
その部分だけ、
音が硬い。
「客の口は、
命より重い」
栄が、息を詰めました。
音音も、深追いはしません。
一歩、引きます。
(……ここは、
押す場所じゃない)
そのとき。
「……ねえ」
篝が、静かに口を開きました。
声は低く、
いつもの花魁の声より、
少しだけ素でした。
商いを、まっすぐに見ています。
「この子ね」
音音の肩に、
そっと手を置きます。
その手は温かく、
けれど、音は揺れていない。
「今日、
私の座敷を救ってくれたの」
商いが、
わずかに眉を動かしました。
それは驚きではなく、
“聞く”動き。
「香が消えたって噂、
あれが立ってたら、
この店は――」
篝は、言葉を切ります。
切ったところに、
音が残る。
「……助けられたの」
声が、
ほんの少し柔らかくなりました。
花魁が、
誰かに借りを認める音。
「だから」
一呼吸。
「お願い。
今回だけ」
商いは、しばらく黙り込みました。
笠の影で、
指が、ぽりぽりと頬を掻きます。
「……ずるいわぁ」
困ったような声。
「そない言われたら、
かなわんやろ」
小さく咳払い。
「ナイショやで」
篝が、
ほっと息を吐きました。
その息の音は、
座敷の底に沈んで、
消えました。
商いは、声を落とします。
「確かに、
数日前や」
「買うたんは、
一人の男」
「顔は分からん。
変装してた」
音音は、
一言も挟まず、
音だけを聞いていました。
声の高さ。
言葉の間。
嘘をつくときの、
引っかかり。
(……今のは、
本当)
「せやけどな」
商いは続けます。
「首から、
木札を下げとった」
「一瞬やけど、
見えた」
栄が、息を呑みます。
「……印は?」
「庭舞台組む連中のや」
商いは、指で四角を描きました。
「材木屋か、
舞台請け負いか」
「その辺りの印や」
座敷の空気が、
一段、重くなります。
(……舞台)
音音の胸の奥で、
以前聞いた音が、
重なりました。
板の音。
針の音。
羽衣の音。
(……また、
戻れない音を聞いた)
その沈黙の中で、
音音が、小さく頭を下げました。
「……ありがとうございます」
短い言葉。
けれど、音はまっすぐでした。
それから。
「それと」
商いが、
意外そうに音音を見ます。
「……まだ何かあるんかい」
音音は、にやけました。
(……今なら、
言える音だ)
「困ったとき、
私、役に立ちます」
「音が、
分かるので」
商いが、吹き出します。
「ははっ!
ほんまやなぁ、
変な子や」
音音は、指を一本立てました。
「だから」
少し照れつつも、
真顔です。
「異国の珍味、
分けてください」
一拍。
それから。
「……取引かい」
商いは、楽しそうに笑いました。
「ええで」
「この街で、
聞こえすぎる子は、
放っとかれへん」
笠の影から、
音音を見ます。
「縁やな」
【――この夜、
音音と商いの間に生まれたのは、
契約ではありません。
けれど。
やがて起こる事件へと繋がる、
確かな“音”でした。】




