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第十三話 香が消える夜(後)

【――花街では、

何かが「消えた」と思われたとき、

たいていは、

別のものが、

静かに変わっているだけです。】


 座敷には、まだ香が残っていました。


 沈香の、細く甘い匂い。

 煙は、ゆっくりと天井へ伸び、

 はりの影に絡みながら、夜の空気にほどけていきます。


 外の花街では、また新しい客が入り、

 下駄の音や笑い声が戻り始めていました。

 けれど、この座敷の中だけは、

 一度止まった音が、まだ元の形を思い出せずにいる。


(……ここ、まだ戻ってない)


 音音は、畳の上に置かれた杯を見つめていました。


 視線は落ち着いているのに、

 胸の奥では、細い緊張の音が鳴り続けています。


(……鳴ってる)


 香は、確かに鳴っています。

 細く、高く、澄んだ音。

 焚き方も、量も、間違っていない。


 なのに――

 さきほどの客たちは、

 その音に、触れていませんでした。


 吸っているのに、

 届いていない。


 音音にとって、それは

 「香が消えた」音ではありません。


(……聞く側の音が、変わってる)


 篝が、低い声で言います。


「……どう?」


 責めるでもなく、

 縋るでもない声。


 花魁としての声です。

 場を崩さず、

 けれど、逃げも隠れもしない音。


 音音は、すぐには答えませんでした。


 代わりに、

 畳の上の杯へ、そっと手を伸ばします。


 新しい杯。

 今夜のために下ろされたもの。


 艶があり、

 縁は薄く、

 指に吸いつくような滑らかさ。


 音音は、指先で縁をなぞりました。


 ――きん。


 高い音。

 跳ねるように立ち、

 すぐに消える。


 畳に、落ちない。


 若い音。

 整っているのに、まだ落ち着かない音。


 音音は、顔を上げました。


「篝さん」


「なに?」


「古い杯を、

 一つだけ、持ってきてもらえますか」


 篝は、一瞬だけ眉を上げました。


「古いの?」


 声は平静ですが、

 その裏に、少しだけ迷いの音。


「はい。

 いつも使っているもの」


 少し間を置いて、

 篝は奥へ下がります。


 その足取りは、静かでした。

 座敷の音を揺らさないよう、

 無意識に、花魁の歩き方をしている。


 ほどなく戻ってきた手には、

 小さな杯がありました。


 縁は丸く、

 艶は落ち着き、

 使い込まれた気配。


 二つの杯が、

 畳の上に並びます。


 新しい杯。

 古い杯。


 見た目に、

 大きな違いはありません。


 音音は、

 今度は古い杯に指を触れました。


 ――こん。


 音は低く、

 畳に吸われるように落ちます。


 余韻が、

 静かに、長く残る。


 その余韻は、

 香の音と、きれいに重なりました。


(……やっぱり)


 音音の胸の奥で、

 音が、きちんと揃います。


「香は、消えていません」


 音音は、静かに言いました。


「香炉も、香袋も、

 何もおかしくない」


 女将が、じっと音音を見ています。


 値踏みではありません。

 疑いでもありません。


 花街の女将が見せる、

 “場を預かる者”の目。


「じゃあ、

 何が問題なんだい」


 音音は、杯に視線を戻しました。


「杯です」


「……杯?」


「新しい方」


 音音は、二つの杯を指で示します。


「漆が、

 まだ落ち着いていません」


 篝が、息を呑みました。


 小さな音。

 けれど、隠しきれない。


「……枯らしが、足りなかった?」


「はい」


 音音は頷きます。


「酒が触れると、

 漆の成分が、

 ほんの少しだけ立ちます」


「毒じゃありません。

 でも――」


 音音は、言葉を選びました。


 ここは花街。

 「毒」という音は、余計に広がる。


「鼻の奥が、

 一時的に、鈍くなる」


 女将が、ゆっくりと目を伏せます。


 その動きは、

 長年の経験が作った動きでした。


「……だから、

 香を感じなかった」


「香は、鳴っていました」


 音音は、はっきり言いました。


「でも、

 嗅ぐ側の音が、

 追いついていなかった」


 篝は、杯を見つめ、

 小さく息を吐きます。


「……縁起を担いで、

 新しい杯を出したのが、

 裏目に出たのね」


 その声には、

 悔しさよりも、納得の音がありました。


「誰も、悪くありません」


 音音は言いました。


「ただ、

 早すぎただけです」


 早すぎた。

 それは、花街ではよくあること。


 良かれと思って整えたものが、

 場の時間と合わなかっただけ。


 座敷に、

 静かな沈黙が落ちます。


 その沈黙は、

 責める音ではありません。


 整い直すための、

 間の音。


 やがて女将が、

 低く笑いました。


「花街らしい話だよ」


 乾いた笑いではなく、

 腹の底で鳴る笑い。


 そして、篝に向かって、


「次からは、

 ちゃんと枯らしな」


「……はい」


 篝は、深く頭を下げました。


 その所作ひとつさえ、

 美しい。


 けれど今は、

 舞台の上の美しさではなく、

 場を守る者の美しさでした。


 女将は、それから

 音音へ視線を戻します。


「約束だ」


 音音は、顔を上げました。


「異国の商いのこと、

 考えてやる」


 音音は、

 ほんの少しだけ口の端を上げます。


「……それと」


 視線は、

 膳の上の器へ。


「燕の巣、

 少しだけ、頂けませんか」


 思わず、

 にひひひひ、と笑ってしまいました。


 張り詰めていた座敷の音が、

 ふっと緩みます。


 篝が、目を瞬かせました。


「……あんたね」


 女将が、

 ふん、と鼻を鳴らします。


「持っていきな。

 働いた礼だ」


 音音の胸の奥で、

 音が、軽く跳ねました。


(やった)


【――消えたのは、

香ではなかったのです。


 花街の夜は、

 何事もなかったかのように、

 また、艶やかに息づき始めます。


 けれど。


 この夜に立った小さな違和感は、

 やがて、

 もっと深い場所へと、

 音音を導いていくことになるのです。】


挿絵(By みてみん)


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