第十二話 香が消える夜(中)
【――花街では、
扉の内と外で、
聞こえる音が違います。
入る前から、
選ばれているのです。】
江戸の花街は、静かに熱を帯び始めます。
赤い行灯が灯り、
紙越しの光が、路地の石を濡らす。
笑い声と、酒の匂いと、
白粉の甘さが、夜気に混ざりました。
下駄が鳴り、
裾が擦れ、
男の喉が、期待を含んで鳴る。
――そのすべてが、音音には、まず音として落ちてきます。
行灯の赤は、耳の奥を細くする鋭い音。
白粉の甘さは、丸く膨らんで逃げ道を消す音。
酒の匂いは、低くぬるく、喉の奥を濡らす音。
(ここ、息が浅くなる)
(音が、肌に貼りつく)
花街の夜は、見て歩く場所ではありません。
歩くたび、音が先にまとわりつき、あとから景色が追いついてくる。
人の笑いも、優しさの音ではないことが多い。
欲しさの音、焦りの音、値踏みの音――それらを薄い紙で包んで、笑いにしている。
栄と音音は、人の流れから半歩外れ、格子戸の前に立っていました。
格子戸の前。
赤い行灯の下。
戸の向こうからは、
酒を注ぐ音、
女の笑い声、
低く弾む三味線の気配。
けれど、
格子戸は閉じたままです。
閉じた格子戸は、ただの戸ではありません。
“入れていい音”と“入れてはいけない音”を選り分ける、薄い境目です。
(入る前から、決まってる音だ)
格子戸の前に、女将が立っていました。
目の澄み方が、花街の灯より冷たい。
笑い声に馴染まない視線。
それだけで、周りの音が一段落ちます。
「……なんだ、まだいたのかい」
低く、
よく通る声。
声の高さより、音の芯が強い。
通りのざわめきに混ざらず、まっすぐ胸へ刺さる音。
栄が、一歩前に出ました。
「少し、
お話を伺いたくて」
女将は、
栄を見て、
音音を見て、
また栄に視線を戻します。
視線が動くたび、空気が小さく鳴る。
選ぶ音。測る音。
花街の“外”にいる者を、花街の“内”へ入れるかどうかの音。
「今日は、座敷が荒れた」
女将の言葉は短い。
短い言葉は、余計な説明を切り捨てる音です。
「遊ぶ気じゃない客は、
中へは入れないよ」
(閉める音だ)
(ここで終わらせる音だ)
そのとき。
座敷の奥から、
篝の声がしました。
「……おかみさん」
女将が、振り返ります。
篝は、座敷口に立っていました。
背筋を伸ばし、
いつもの花魁の顔。
けれど、
さきほどより、
ほんの少しだけ音が硬い。
硬いのは、怖いからではない。
崩れないように固めた音です。
花魁は、崩れる音を見せると、場が壊れる。
だから自分を固く鳴らして、場を支える。
(守ってる音だ)
「その人、
私の知り合いです」
「……あんたの?」
「ええ。
同郷の」
一瞬の沈黙。
沈黙の間に、女将の音が変わる。
嫌う音から、計算する音へ。
篝がそう言った――その意味を、女将は勘定していました。
それから女将は、
息を吐くように言いました。
「長居はさせないよ」
許しの音ではありません。
条件の音。縄の音。
入っていいが、ここで縛る、という音。
「ありがとうございます」
栄が頭を下げ、
音音も、それにならいました。
こうして二人は、
ようやく座敷の内へ通されます。
【――中に入れば、
場の音からは、
逃げられません。】
座敷へ入った瞬間、空気が変わりました。
外は流れる音。
内は溜まる音。
畳は厚く、音を抱える。
障子は重ね貼りで、声を逃がさない。
香は、外へ散らずに座敷の中で丸くなる。
(……ここ、音が逃げない)
(嘘も残る)
座敷は、すでに片づけられていました。
香炉は元の位置。
膳も引かれ、
畳の目も整っている。
けれど――
さきほどまでの騒ぎの余韻が、
まだ、板の下に残っています。
畳の上は整っているのに、
畳の下で、ざわめきが燻っている。
“なかったことにする”ほど、残る音。
(片づけた音が、速すぎる)
(速いのは、隠す音だ)
篝が、栄に向き直りました。
「それで?
異国の商いに会いたい、って」
篝の声はよく通る。
よく通るのに、近づかせない。
声の中に距離がある。
「ええ」
栄は、簡潔に答えます。
篝は、首を横に振りました。
「知らないわ。
この店に、
そういう商いは出入りしない」
迷いのない否定。
否定の音が真っ直ぐすぎて、逆に少し怖い。
真っ直ぐな否定は、用意された音に聞こえることがある。
音音が口を開きました。
「……もし」
小さな声。
ですが、
場の音が、わずかに静まります。
静まるのは、音音の声が大きいからではありません。
花街の座敷は、子どもの声が鳴ると一瞬、場の音が迷う。
場が迷う隙に、真ん中の音が見える。
「もし、
さっきの座敷のこと」
音音は、篝を見上げました。
篝の目は涼しい。
けれど、その涼しさの奥に、少しだけ疲れの音がある。
花魁の目は、疲れを見せないはずなのに。
「原因を、
突き止めたら」
篝の目が、細くなります。
「……それで?」
「異国の商いに、
会わせてください」
篝は、
一瞬だけ笑いました。
笑いの音が軽くない。
落ちない笑い。
花魁の笑いは、場に落ちる前に一度、胸で鳴らしてから出す音です。
「無理な話ね」
ですが――
音音は、視線を逸らしません。
(無理って音じゃない)
(試してる音だ)
そして、
座敷の隅に残された膳へ目を向けます。
小さな器。
艶のある、とろりとした白。
(……ある)
胸の奥で、
音が鳴りました。
甘い音ではない。
丸い音でもない。
ひんやりとした、固い音。
薬の音。
「それ」
音音は、指を差します。
「燕の巣ですね」
篝の肩が、
ぴくりと揺れました。
揺れは一瞬。
けれど音は隠れません。
花魁の身体は、揺れをすぐ止める。
止めるほど、揺れの音がはっきり残る。
「乾かした燕の巣を戻して、
甘く煮たもの。
滋養があって、
異国では薬のように扱われます」
音音は、淡々と続けます。
淡々とした声は、余計な感情を混ぜない音。
花街の座敷では、余計な感情の音は弱点になります。
だから音音は、知っている音だけを置く。
「江戸じゃ、
普通の商いでは手に入りません」
篝は、黙り込みました。
否定も、肯定も、しない沈黙。
それだけで、
十分でした。
(当たりだ)
音音は、
少し間を置いてから――
ふっと、表情を緩めます。
「……それから」
声が、ほんの少しだけ軽くなります。
「私にも、
燕の巣を、
少し頂けませんか?」
にひ、と
我慢しきれずに、
口元が緩んでしまいました。
その瞬間、座敷の音が一拍、ほどけました。
花街の座敷で、笑いの音が“本当に”鳴ることは少ない。
だから、その一拍は妙に目立つ。
篝が、
きょとんと目を瞬きます。
「……は?」
一瞬、
間の抜けた音。
栄が、思わず咳払いをしました。
篝は音音を見て、
その表情を確かめてから、
小さく息を吐きます。
「……本当に、
変わった子ね」
けれど、
口元はわずかに笑っていました。
花魁の笑いは、甘くても、媚びない。
そこに残るのは、格の音。
「後でね」
音音は、満足そうに頷きます。
(約束した)
(篝の音、今、少しだけ柔らかい)
そして、
すぐに表情を引き締め、
座敷を見渡しました。
香炉。
香袋。
膳。
杯。
酒の匂い。
香は、鳴っています。
いつも通りに。
なのに――
音音の視線は、
杯に留まりました。
見た目は、
何の変哲もない。
けれど、
そこだけ、
音が鈍い。
息を詰まらせるような、
重たい音。
(……香の音じゃない)
(香は鳴ってるのに、ここだけ違う)
香炉の音は細い。
立ち上がって、広がって、天井へ逃げる音。
けれど杯の音は、逃げない。
底へ沈み、畳の奥へ吸い込まれる。
(……誰かの“息”が、ここで止まったみたいな音)
音音は、
静かに息を吸います。
吸った空気が、胸で鳴る。
この座敷の音と、自分の音がぶつかって、細い痛みになる。
(何かある)
香は鳴っている。
焚かれている。
いつも通りに見える。
なのに、客は「匂いがしない」と言った。
――消えたのは香か。
それとも。
音音は、杯から視線を離さず、
胸の奥で、もう一度だけ確かめるように鳴らしました。
(……この鈍さ、
何の音だ?)
【――花街では、
消えたように見えるものほど、
別の場所で、濃く残っているものです。】




