第十一話 香が消える夜(前)
【――夜の江戸は、
昼よりも、ずっと饒舌です。
灯りが増え、
香が混ざり、
人の本音が、
肌の近くまで浮き上がるからです。】
花街は、夕暮れと同時に息を吹き返します。
赤い行灯が一つ、また一つと灯り、
紙越しの光が、路地の石畳を柔らかく濡らしました。
風に揺れる灯は、まるで誘うように影を伸ばします。
女の笑い声。
男の喉の鳴る音。
下駄が石を打つ、乾いた響き。
それらが重なり合い、
夜の底で、ゆっくりと溶け合っていく。
(……匂いが、重なりすぎてる)
音音は、胸の奥でそう思いました。
白粉。
酒。
焚き染めた衣の残り香。
そして、人の熱。
どれもが、少し甘く、
少し湿って、
耳の奥までまとわりつく。
(目が痛いんじゃない)
(灯りの音が、刺さる)
行灯の赤は、音として聞こえるとき、尖ります。
赤は高く鳴って、耳の奥を細くする。
その赤が、いくつも重なる。
石畳のひやりとした冷たさも、足裏より先に音になる。
硬い石の上を歩くと、世界が乾いて聞こえる。
でも花街は、その乾きに甘さを塗り重ねる。
甘さは丸い音。
丸い音はやさしいふりをして、逃げ場を消します。
(……ここ、息が浅くなる音だ)
【――花街は、
目より先に、
匂いと音で人を捕まえます。】
隣を歩く葛城 栄は、慣れた足取りでした。
派手に振る舞うこともなく、
それでいて、決して迷わない。
栄の歩き方は、花街の石畳に合わせた歩き方でした。
足音が無駄に跳ねない。
人とぶつからない距離を、最初から知っているような進み方。
音音は、その背を追いながら、周囲の音を拾っていました。
袖の擦れる音。
簪のきしむ音。
杯が畳に置かれる音。
呼び込みの声の裏の、焦りの音。
笑い声の奥の、値踏みの音。
(ここ、みんな笑ってるのに、喉が鳴ってる)
酒のせいじゃない。
喉の鳴り方が、乾いている。
欲しがっている音です。
そのとき――
――からん。
どこかで、鈴が鳴るような音がしました。
音音は、足を止めかけます。
(……違う)
さっきまでの花街の音は、粘っていました。
まとわりついて、逃がさない音。
けれど今鳴った音は、すっと通る。
澄んで、細く、冷たい。
人の声より先に、場を静める音。
次の瞬間、
通りのざわめきが、すうっと引きました。
人が道を空ける。
肩が引かれる。
声が落ちる。
笑いが、薄くなる。
(……道ができた)
栄が、気づいたように視線だけ動かします。
立ち止まりはしない。
けれど、歩く速度がほんの少し落ちました。
角の先から、列が現れます。
花魁道中。
先を行く禿たちが、揃えて歩きます。
小さな足が、同じ間で石を叩く。
その揃い方が、まるで囃子のようで、道そのものが、拍子を持ち始める。
続いて、男たちが灯を持ち、
火の音が、ゆらり、ゆらりと揺れました。
火は見えるもののはずなのに、音音にはまず音として来る。
火の色は、あたたかい丸い音。
でも花街の火は、どこか冷たい。
(火が、笑ってない)
そして――
列の中心。
花魁が、来ました。
名は、篝。
音音は、息をするのを忘れました。
(……すごい)
年は若く、
背はすらりと伸び、
首から肩にかけての線が、
まるで描いたように美しい。
結い上げた髪は艶やかで、
簪は多くを誇らない。
それでいて、
一目で“格が違う”と分かる。
目元は涼しく、
笑みは柔らかいのに、
軽くはない。
篝が一歩踏むたびに、
高い下駄が石を打つはずなのに、
音が沈まない。
――からん。こぉん。
沈まないどころか、
音が、少し浮く。
(……板の上みたいな音)
花叢座の舞台で、
うまい役者が板を鳴らさずに空気だけを動かすときの、あの音。
それが、石畳の上で鳴っている。
衣が擦れる。
けれど雑に鳴らない。
空気が遅れてついてくる。
顔は、灯りを浴びているのに、
近くない。
遠い。
(触れられない音だ)
花街の人たちは、篝の前で自然と声を落としました。
杯を置く手つきすら、慎重になります。
花魁が通るだけで、
場が一つの形になる。
音音は、その整う音に、胸の奥がきゅっと鳴るのを感じました。
(……きれいって、怖い)
花魁道中が通り過ぎると、
通りは、ゆっくりと元のざわめきを取り戻しました。
けれど、戻った音は、さっきまでの音と少し違う。
人の声が、どこか上ずっている。
笑いが、少しだけ薄い。
見送ったあとに残る、置き土産みたいな音。
(……残ってる)
栄が、小さく言いました。
「そんな顔するんだね」
音音は、うまく返事ができませんでした。
返事の代わりに、胸の奥で鳴る音だけが、しばらく止まりません。
(あれが……花魁、篝)
篝の音は、甘くなかった。
湿ってもいなかった。
ただ、澄んで、深かった。
それが、花街という場所の底で、ひときわ目立っていた。
(……この町、舞台より舞台だ)
「ここよ」
栄が立ち止まったのは、
他よりも灯りの数が少ない一角でした。
格子戸の奥から、
かすかに異国の香が流れてきます。
沈香とも違う、
どこか土と薬草を思わせる匂い。
(……薬の音だ)
香は甘い音とは違って、
輪郭が固い。
逃げない。
胸の奥に沈む。
栄が声をかけました。
「ごめんください」
しばらくして、
格子戸が、きい、と鳴いて開きます。
現れたのは、
背の低い、皺だらけの女将でした。
白髪はきっちりと結い、
着物は古いが、色柄は異国めいている。
耳元には、小さな金の飾り。
目だけが、妙に澄んでいました。
「……何の用だい」
声は低く、
江戸の女とも、
どこか違う抑揚があります。
栄は、丁寧に頭を下げた。
「異国の商いの方に、
お話を伺いたくて」
女将は、ふっと鼻で笑います。
「知らないね」
それだけ言うと、
格子戸を閉めようとしました。
その瞬間。
――どっ。
奥の座敷から、
不意に、客の大きな声が上がります。
「……匂いが、しないぞ」
一人の男の声でした。
続いて、
「言われてみりゃ……」
「確かにだ」
別の客の声が重なります。
女将の手が、止まりました。
格子の奥。
先ほどの澄んだ足音――篝の座敷でした。
【――花街では、
美しさは、
商いであり、
誇りであり、
同時に、弱点でもあります。】
「香を売りにしてる座敷で、
匂いがしないとは、どういうことだ」
苛立ちを含んだ声。
杯が、畳に置かれる音。
少し、強すぎる。
「……香炉は?」
篝の声がします。
澄んで、よく通る声。
少しだけ、息が浅い。
慌てている。
けれど、客に悟らせまいとしている音です。
「ちゃんと焚いています」
衣擦れ。
香炉の蓋が、わずかに鳴る。
(……鳴ってる)
音音は、目を伏せました。
香の音は、あります。
いつも通りに、細く、高く。
なのに――
(音が、鈍い。)
「ふん……」
「縁起が悪い」
男が、立ち上がります。
畳が、重く鳴りました。
「こんな座敷、
もう御免だ」
「ちょ、ちょっとお待ちください」
篝の声が追いますが、
もう、届いていません。
別の客も、杯を置きました。
「噂になるぞ」
「香が消えた座敷、ってな」
その言葉が、
最も重く、座敷に落ちました。
【――噂は、
真実よりも先に、
町を歩きます。】
客たちは、
不機嫌な音を残して帰っていきます。
戸が閉まる音。
残ったのは、
焚かれた香と、
冷え始めた空気だけ。
女将が、格子戸の外から、
低く言いました。
「……篝」
声は静かですが、
芯がありました。
「店の看板を、
何だと思ってる」
それは、
花魁としての美しさだけを責める言葉ではありません。
店の名も、
評判も、
この夜も。
すべてを背負っている者への言葉でした。
「申し訳、ありません……」
篝は、深く頭を下げました。
その所作ひとつさえ、
美しい。
「香が消えた、なんて噂が立てば、
客は戻らない」
女将は、ゆっくりと息を吐きます。
「次は、ないよ」
篝は、何も言わず、
さらに深く、頭を下げました。
音音と栄は、
少し離れた場所で、
その様子を見ているだけでした。
花街の夜は、
何事もなかったかのように、
また、ざわめきを取り戻していきます。
けれど。
そのざわめきの底で、
確かに、
何かが狂い始めていました。
(さっきの道中の音と、同じだ)
(きれいで、怖くて、逃げない)
【――香が消えたのか。
それとも、
香が「隠された」のか。
見えないものは、
消えたように見えるだけで、
本当は、
別の場所で鳴り続けていることがあります。】




