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音音の音  作者: むろみつ
第一幕 羽衣編
10/32

第十話 針の先の音

【――小さなものほど、

深く刺さることがあります。】


「……これは、

間違えたじゃ済まないな」


 低く抑えた声でした。

 診療所の奥、薬棚の前。

 外の通りの音が、分厚い壁に遮られ、

 ここでは人の息遣いだけが残っています。


 白い布の上に置かれた一本の針。

 医者は、それを素手では触りませんでした。

 木製の箸で挟み、

 窓から差す光の角度を少しずつ変えながら、

 じっと見つめています。


 金属が光を返す、そのわずかな変化。

 音音の胸の奥では、

 硬く、乾いた音が続いていました。


「先についているのは、

 猛毒だ」


 その言葉が落ちた瞬間、

 胸の奥で、

 石を打つような音が鳴りました。


(……やっぱり)


「……どく?」


 音音の声は小さく、

 それでも震えてはいません。


「そうだ。

 しかも、かなり厄介なやつだ」


 医者は、針先から目を離さずに続けます。


「江戸じゃ、

 まず見ない」


【――それは、

昨日のことでした。】


 庭舞台。

 朝の空気は澄み、

 夜露を吸った板は、すっかり乾いています。


 鳥の声。

 遠くの通りを行く荷車。

 それらすべてが、

 舞台の外で、静かに鳴っていました。


 花村 紫乃は、

 音音の前で、静かに構えました。


 囃子はありません。

 羽衣も、持っていません。


 それでも――

 舞は、そこにありました。


 足が、板を撫でる。

 音を立てないはずのすり足が、

 わずかに空気を押し、

 その圧が、遅れて胸に届く。


 腕が上がる。

 肘、手首、指。

 順番を間違えない動き。


 布がないのに、

 布が揺れる音がする。


(……きれい)


 美しさだけではありません。

 間。

 呼吸。

 止まり方。


 止まった瞬間に、

 音が消えるのではなく、

 「残る」。


 音音は、息を詰めて見ていました。


 舞が終わり、

 紫乃が、ゆっくりと振り返ります。


「どう?」


 問いは短く、

 答えを急がせる音ではありません。


 音音は、すぐには答えませんでした。


 庭舞台の板を、

 一度だけ、見下ろします。


 板は何も語りません。

 けれど、

 今、踏まれた音の余韻だけが、

 確かに残っている。


(……)


 胸の奥で、

 小さな音が鳴りました。


 それは、違和感ではありません。

 まだ名前のない、

 気づきの手前の音。


 音音は顔を上げ、

 紫乃を見ます。


「……勉強になりました」


 紫乃が、

 わずかに眉を上げました。


「ほう?」


「足の置き方と、

 止まる間で、

 音が変わるのが……」


 言葉を選びながら、

 音音は続けます。


「前より、

 分かりました」


 紫乃は、

 小さく息を吐き、

 口元を緩めました。


「それは、

 ちゃんと見て、

 ちゃんと聞いた証拠ね」


 その言葉が、

 胸の奥で、柔らかく鳴ります。


(……大丈夫)


 今は、

 それでいい。


 稽古が終わり、

 庭舞台を片づけているときでした。


 板を外し、

 道具を運び、

 音がひとつずつ、日常へ戻っていく。


(……針)


 音音は、

 ふと足を止めました。


 羽衣の一件で外し忘れた裁縫針。

 お春に返すはずだったものが、

 道具箱の隅に、残っていたのです。


 拾い上げた、その瞬間。


(……違う)


 音が、沈みました。


 軽い金属音ではありません。

 針が持つはずの、

 澄んだ音でもない。


 胸の奥へ、

 まっすぐ落ちる音。


(……さっきと違う音)


 音音は、

 針先をよく見ました。


 ほんの、

 点ほど。


 透明とも、

 油ともつかない、

 なにか。


 視界より先に、

 音が、意味を結びます。


 甘い菓子。

 器。

 布。

 そして。


(……念のため)


【――だから、

音音は、

ここへ来たのです。】


 町外れの診療所。

 昼でも薄暗く、

 薬と煮沸の匂いが混じる場所。


 表に掲げられた札には、


 医師 榊原 玄庵さかきばら・げんあん


 と、墨で書かれていました。


 玄庵は、

 五十を越えた町医者です。

 芝居小屋の怪我人や、

 夜の急患も断らない男でした。


 音音から針を受け取ると、

 すぐには触れません。


 間を置く。

 確かめる前の沈黙。


「……内弟子」


「はい」


 呼ばれて現れたのは、

 十五ほどの少年。

 名は与吉。

 玄庵の内弟子です。


「火と、試し紙を」


 さらに、玄庵は言いました。


葛城(かつらぎ)を呼べ」


 しばらくして現れたのは、

 二十代半ばの女性でした。


 名は――

 葛城 かつらぎ・えい


 薬師。

 異国の薬や香料にも通じた、

 知識屋です。


 栄は、

 針先を見るなり、

 表情を変えました。


 その変化は小さい。

 けれど、

 音音には、はっきり聞こえました。


(……重い音)


「……これは」


 試薬を垂らし、

 紙に触れさせる。


 色が、

 ゆっくり変わります。


 沈むように。

 逃げ場を失うように。


「猛毒です」


 栄は、

 はっきり言いました。


「ごく少量でも、

 刺さるか、

 口に入れば、

 命に関わる」


 玄庵が続けます。


「しかも、

 この毒は――」


 二人は、

 視線を交わしました。


「異国のものだ」


 その瞬間、

 音音の胸が、

 強く鳴ります。


(……遠い)


「江戸では?」


「まず、

 手に入りません」


 栄は、

 静かに言いました。


「ただし……

 心当たりが、

 ないわけではない」


「どこですか」


 音音の声は、

 揺れていません。


 胸の奥では、

 次の場所の音が、

 すでに鳴り始めていました。


「花街です」


 栄は答えます。


「異国の品は、

 夜の町に集まる」


 玄庵が、

 針を包みながら言いました。


「行くつもりか」


「……はい」


 音音は、

 迷わず頷きました。


【――音は、

人を、

次の場所へ導きます。】


 針の先で鳴った、

 小さな違和感。


 それは、

 やがて――

 江戸の夜へ。


 花街へ。


 舞台とは違う、

 もう一つの“芝居”の中へ。


【――次に踏み入れるのは、

灯りと嘘が、

もっとも美しく混じる場所。


音音は、

その音を、

聞き逃しません。】


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