1-8. 六本木のバー
「一杯どうだ」
黙々と資料を読み進めていた播木の肩を叩いたのは山崎であった。播木は顔をあげた。
「サシで」
そう続けつつ、山崎はグラスを傾ける仕草をしてみせた。肩にカバンを掛けていて、すでに帰宅モードのようだ。
山崎にこのように誘われたことなどこれまでに一度もなかった。しかもサシでなどというからには、当然、なにか自分に話があるのだろう、そう播木は受け止めた。
オフィスにはすでに人影は少なかった。同僚らは帰宅したのかもしれないし、調査のために現場に出ているのかもしれなかった。同じ事案を処理するチームのメンバー同士でもなければ誰がどういう動きをしているかなど知れようはずもない――他の同僚らと行動をともにするなどということも当面はなくなるのかもな、そんな考えが播木の頭をかすめた。
「いいスね」
播木は机に広げていた資料を手早くまとめてバインダにしまった。引き出しに入れ、鍵を掛ける。それから机のしたに置いてあったカバンを手にし、立ちあがった。ほんの数秒であった。
山崎は小さく頷いて歩き始め、播木も続いた。いまだ燻る部屋を出て、足早に廊下を進む山崎は口を開かない。播木も黙ってその斜め後方を歩いた。
エレベータホールで足を止め、ボタンを押すと山崎はネクタイを緩めた。
「タクシーで行こう。俺の行きつけの店がある」
播木は黙って頷いた。
二人はエレベータに乗り込んだ。山崎は車寄せのあるB1のボタンを押す。
地下一階に着き、二人は無言でエントランスの二重扉を通り抜けた。車寄せで客待ちをしていたタクシーの後部窓を山崎はノックした。ドアが開き、先に山崎が乗り込み、播木が続いた。
「六本木」
山崎はそうドライバーに告げた。
飲食店の連なる賑々しい通りから少し奥まった雑居ビルが立ち並ぶ一角にタクシーは停まった。車から降り、播木は建物を見上げた。スナックやバーといった飲み屋の名を掲げた看板が多く目に付く。
周囲を見回し、人が少ないな、と播木は思った。夜の街が一番賑わうはずの時刻である。本来であればこういった場所にはもっと多くの人影が行き交っていてしかるべきだろう。
――不況か。
昨年にアメリカで起きたリーマンショックの影響がじわじわと国内にも押し寄せていた。年度末となる今月の終わりには数十万もの派遣労働者が職を失うと言われていた――これまで播木自身がその影響を肌で感じることはなかったが、職務上、彼はそういった社会情勢を細かに把握していた。
支払いを済ませた山崎がタクシーから降りてきて、周囲に目をくれることもなく真ん前の建物のエントランスへと足を向けた。播木はそれを追った。
ビルの小さなエレベータに乗り込んだ。四人も乗れば窮屈さを感じさせるだろうほどの手狭さだった。山崎が押したのは五階のボタンだ。
一抹の不安を播木に抱かせる――もちろん一切顔には出さないが――ほどの揺れを伴ってエレベータは動き出し、その不安の収まらぬうちに五階に到着した。
降りて出た先は薄暗い店であった。カウンターの他にはテーブル席が四つばかりのバー。テーブルはカウンターの背後の壁にサイドを接する形に配置され、その前後に椅子が並べられていた。ビルの外観からイメージしていた以上に狭いな、と播木は思った。
カウンターの向こうには若いバーテンと中年のママ。客はカウンターとテーブル席にそれぞれ二人ずつ。スーツ姿の男性ばかりだが、サラリーマンという風情ではなかった。あるいは同業者か、と播木は感じた。そういう匂いがあった。
店に入った播木らを認めてママが口を開いた。
「あらあ、山崎さん。いらっしゃい」
山崎は頷いてみせて、一番奥のテーブル席に向かった。奥側に山崎が腰掛け、向かいに播木が座った。すぐに山崎はポケットからマイルドセブンを取り出し、淀みない手つきで一本を咥えた。その先端に火が灯るのを見ながら、播木も自らのポケットを探り始めた。
播木がラッキーストライクの一本を口に咥えたとき、横から火のついたライターが差し出された。ママがテーブル脇に立っていた。播木は炎にタバコをかざし、ひと吸いしてからママに頭をさげた。
「こいつは播木」山崎はママに言った。「俺の後を継ぐ」
「ご栄転ですものね」
「元の鞘に戻るだけさ」
「ご謙遜ね」
その返しには反応せず、山崎は顎で播木を示しつつ、こう続けた。
「こいつを診てもらいたい」
ママは手首をあげ、細い金属のベルトの腕時計に目を落とした。
「そうね……。じゃ、九時からでいかがかしら」
山崎は頷いた。疑問符を抱えつつも播木は黙っていた。
ママは二人の注文を聞き、テーブルから離れた。
店の中に小さな音量で『カリフォルニケイション』が流れているのがそのときになって播木の耳に届いた。
播木はチラと腕時計を見た。八時半を少し回ったところだった。
「オレを診る、とは?」
「診て貰えばわかる」
山崎は即答した。少し間を置いてからこう続ける。
「この店に専属の占い師がいてな。ま、占いという範疇には入らないかもしれないが」
「占い……。それはまた意外な」
そこで言葉を切り、播木は思考を巡らせた。
「それは……、〝彼ら〟に関係することですね」
山崎はニヤリとしたが、頷きはせず、答えもしなかった。
水割りとジンライムが運ばれてきた。乾杯もせずに山崎は水割りのグラスを口に運んだ。
「資料を見て、どう思った。正直に言っていいぞ、こういう場所だからな」
今度は播木がニヤリとする番だったが、それは苦笑に分類されるものだった。
「まさかあんなものだとは思いませんでした――というのが正直な感想ですね。この先、どのように調査を進めていけばいいのかもわからない」
「そうだろうな。かつての俺もそうだった」
山崎は口元でグラスを傾けた。
「自分の思うようにやればいいさ。なんなら放置しといても構わん。そのうちに時が来る――つまり何かが起きる。そんときゃ否が応でも何がしかの対応はせにゃならん、担当者としてな。それから本腰を入れたとしても遅くはなかろう」
「そんなものですか」
「というか、なんだろうな――」
そこで山崎は記憶を探るような顔つきとなった。
「事件のほうがお前を引き寄せてくる。お前はそれについていくだけでいい。連れていかれる先がどこになるか――」
グラスの氷がカランと音をたてた。
「お前には――いや、俺たちにそれは選べん」
播木は無言で山崎の顔を見た。意味ありげな視線で山崎は播木を見返してきた。
「そこで問われるのは『人間性』だろう、という結論に俺は達した。出来事が〝彼ら〟の正体をどこまで開示してくるか、その線引きを最終的に定めるのはお前の人間性だ」
「人間性?」
「いや、そう呼ぶのは正しくないだろう。だが他に適切な言葉が思い浮かばない。人間の器、とでも呼べばいいか。とはいえ、器は大きければいいというものでもないし、形が美しければいいというものでもない。そこが難しい。受容力と規定力、そのバランス――どうだろう、どれも核心を突いていない気がする」
山崎の言わんとしていることが理解できず、播木は眉をしかめた。
「とにかく俺の限界は見えていた。お前なら、あるいは――いい線まで行けるかもしれん。これまで俺は後任者を誰にするかを常に念頭に置いていたし、もう半年以上前からはずっとお前に白羽の矢を立てていた。お前にどこまでの成果が出せるか俺にはわからないが、少なくとも他の連中では手も足も出せぬうちに終わるだろう」
そこで山崎は再びグラスを傾け、播木は黙ってそれを見つめた。
「俺に見る目があったのかどうか、三十分後にはわかる」
山崎はそう言って、ニヤリと笑った。




