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1-5. 電車は揺れる

 僕はひたすらに混乱していた。目の前にいる美女は僕と一緒に暮らすと言うのだ。えーと、いつからにする? と尋ねると、今からに決まってると返ってきた。荷物はどうするのと問えば、さっきも言ったじゃない、私はいつも身ひとつ、荷物なんてない、と。


 なんか騙されているのでは? とも思ったが、そうだとしても別に僕が失うものなど無いのだ。いや、まあ、まったく無いというわけでもないけど、このような美人と一緒に暮らせるという夢のような話の前ではどうでもよいと感じられた。


 あっ、あの、で、でも、僕の部屋にはベッドはひとつしかないし、そ、そもそも、めっちゃ狭いんだ、それにむっちゃ散らかってるし――という、しどろもどろの僕のセリフにトートは、そんなの大丈夫、なんとでもなるでしょ、と答えた。


 むう……。


 ひとまず僕らは店を出ることにした。コーヒー代はもちろん僕が支払った。彼女は荷物がないと言うが、実際にバッグひとつ持っておらず、ポケットに財布をしまっていそうな様子すらなかった。でもそんなことを気にかける余裕はない。とにかく僕の心臓はバックンバックンしていて、お札を取り出す動作にさえぎこちなさを隠すことができなかった。


 喫茶店から出て外の空気に触れたとき、ほんの少しだけ僕に冷静さが戻ってきた。僕は後ろを振り返り、彼女に尋ねた。


「ほんとに君には荷物がないの?」


 彼女は頷いた。


「それじゃあ、今まではどうやって暮らしてたわけ?」


 平然とした顔つきで彼女はこう答えた。


「今まで使ってたものはそのまま元の場所に置いてきただけ」


 ――つまり家出でもしてきたってことなのか。いや、それにしても手ぶらで、ってことはないよな。どういうことなんだろ? ま、なんにせよ、ワケありってことか……。


 なんとなく事情を察したような気になった。前に向き直り、僕は歩き始める――あれ、でも、どこに? あ、本屋に行くつもりだったんだ。別に買いたい本があったわけじゃないけども。


 僕は足を止め、再び彼女のほうを向いた。


「でも着替えとか必要だよね」


 その問いに対し、少し彼女は考える素振りを示した。


「――それはどちらかというと、あなたの問題じゃないかな。私は適当にやるわよ、あるもので。あなたはどうしたいと思ってるの? 私と一緒に暮らすうえで」


 僕は返答に詰まった。


 あるもので適当にやるとは? ああ、テレビドラマなんかでは、男の部屋で一夜を過ごした女が翌朝に(どこかから勝手に取り出した)男のシャツを羽織ってコーヒーを淹れたりするシーンがあったりするけど、そういうこと? 大は小を兼ねる。女性は男物で急場凌ぎができる、と。


 家にある着古しのトレーナーを思い浮かべ、僕は首を振った。あんなもんをこの美しいひとに着せるわけにはいくまい。


「わかった。よし、じゃあ、今から買いに行こう。とりあえず、必要なものを」


 僕のその宣言に彼女は表情を変えることなく、ただ頷いた。




 脇目も振らずに僕は駅まで歩いてきた。なんだろな、緊張していてうまくものごとを考えられなかった。ふと、彼女がいなくなってるんじゃないかと不安になって振り返ると、彼女はすぐ後ろをおとなしく歩いていた。僕は少し歩を緩め、その隣に並んだ。


「電車に乗ろう」


 僕がそう提案したのは、このローカルな駅の近辺にはまっとうな衣料品を売るような店がないからだが、彼女は特に理由を尋ねることなく頷いた。


 券売機で彼女のための切符を買い求めた。僕自身は定期券を持っているので必要ない。切符を渡した。そこでふと思ったのだが、彼女はどうやってここまで来たのだろう――遠いところから来たと言っていたけど。ヒッチハイクとか?


 僕らは改札を通り抜けた。


「そういや君はどうやってこの街まで来たの?」


 ストレートに訊いてみた。


「電車で」


 そう答えが返ってきた。ホームへ向かいながら僕は話を続けた。


「えっとぉ、ちなみに君は、そのぉ、切符を買うお金くらいは持ってる、ってことだよね?」


 そのセリフをしゃべっている間に僕らはホームに上るエスカレータに乗った。体ごと後ろに振り向いた僕に向け、彼女は首を振った。


「私はお金なんて持たない。必要なときだけ」


 ん、どういう意味だろ――。


「電車に乗るのにお金は必要じゃん」


 僕はそう返した。エスカレータの終端に来ていたので体をひねって前に向き直り、ホームに出た。少し歩いて適当な場所で立ち止まった。


「切符はどうしたの? そのときには」


「持ってなかった」


「へ?」


「改札を通らなかったから」


 それって、無銭乗車……?


「切符って改札を通るのに必要なだけでしょ?」


 唖然となっていた僕は、わずかに気を取り直して口を開いた。声はかすれていた。


「改札を通らないと駅には入れないじゃん。それに出れもしない」


「そんなことない。だったら駅員はどうするの?」


 返す言葉がすぐには見つからなかった。駅員はどうするんだろ? そのときちょうどホームに電車が滑り込んできたので、僕はとりあえず話を打ち切った。


 平日の昼下がりの電車は、さほど混んでいなかった。僕が普段乗っている時間帯とはまるで客層が異なる。


 電車に乗り込んだ。空席も目立っていたが、目的地は二駅先なので座るまでもないだろう。乗り込んだ側とは反対側のドア横のところまで進んで、僕はその隅に肩で寄りかかった。彼女は僕の真ん前に来て、ドア窓から外に顔を向けた。


 結果、僕は彼女の横顔を間近に観察することになった――喫茶店で向かい合わせに座っていたときには、とてもまじまじと彼女の顔を見るなんてことはできてなかった。


 ああ。


 それを言葉で言い表せるほどのボキャブラリを僕は持ち合わせていないのだが、なんというか、つまりそこには、神による完璧なる造形物があった。


 触れるだけで壊れてしまいそうなほど繊細な


 何者をも近づけさせぬ高貴さをたたえ


 それでいて何もかもを包み込む寛容さを秘めた、その――


 僕はどうすれば……。


 電車が動き出した。窓の外に向けられていた彼女の視線が左右に揺れた。僕はどうすれば、どうしたらいいのか――脈絡のない疑問が僕を突き動かそうとしていた。もちろん答えなどありはしない。ひたすら心臓が脈打つのが感じられるだけだ。


 加速していく風景を彼女は眺めていた。僕がその横顔から目を離せなくなっていることに気づかないのだろうか。


 ガタンと電車が揺れた。彼女がバランスを崩すのを僕の視線は捉えていたが、ドア脇に体重を預けていたために咄嗟に反応することができなかった。よろめいた彼女はその手を伸ばし、僕の右腕に掴まった。依然として僕は動けなかった。


 彼女は僕を見た。目が合った。その唇が、ゆっくりと微笑みを形作った。僕は呆然とした顔になっていたはずだ。


 電車が揺れたのはその一瞬だけだったが、彼女は僕の腕を掴んだままだ。慌てて僕は彼女から視線を逸らし、窓の外へと向けた。


 僕の腕を解放した彼女の掌がそのまま下へと降り、その指が僕の手の甲に触れた。それから僕の小指を撫でるように。


 頭から思考が消え去った。心臓ははち切れそうだった。僕は彼女のその手を捕まえた。それ以外の選択肢がなかった。


 僕らは手を握り合った。彼女の指にグッと力が入った。


 彼女が僕の顔を見つめているのがわかったが、僕は目を合わせることができなかった。窓の外を流れる風景がただただ僕の視界を過ぎていった。全神経は右手に集中していた。体が熱くなっているのが感じられた。


 ああ、このまま時間が止まってくれはしないものか――。


 唐突にそう思った。けどそれはほんの一瞬のことで、次の瞬間には、そうだ僕はこれからこの女性と一緒に暮らすのだ、これまでの無意味だった人生が一気に塗り変わるんだ、本当の人生がスタートするんだ、などといったセリフが自分自身に言い聞かされるように浮かんでは消えていった。


 電車はすぐに目的地へと到着した。


 目の前のドアが開き、僕らは手を繋いだままホームに降り立った。そう、まるで恋人たちのように――いや、僕らはすでに恋人同士だった。昔からそうだった。

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