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1-3. トート

「私はトート」


 僕の質問に彼女はあっさりそう答えたのだった。「名前くらいは教えてもらってもいいよね? ほら、なんて呼べばいいかわからないからさ」そんな遠慮した訊き方になった。「なにも教えないのがルール」だなんて言われたものだから。


 しかし、トート?


 一瞬、「とうこ」とかの聞き間違いかな、と考えたけど、彼女の声は明確に「トート」という不可思議な名を告げていた。


「それは……、上の名? それとも、下の?」


 そう僕は続けた。


「上も下もない。ただのトート」


 ニックネームかな、と僕は思うけども、彼女の口ぶりがそれ以上の質問を拒絶するかのような響きだったので、それ以上は訊けなかった。


「あなたは?」


 彼女はそう続けた。


「え?」


「あなたの名前」


 彼女は僕を知っているのだと思っていたけれど。名前は覚えてない、ってこと?


「君は僕のことを知ってるんじゃないの?」


「今生の名前はまだ聞いてない」


 コンジョウの名前? なんのことだろ――とは思いつつも、とりあえず僕は返した。


大野直斗(おおのなおと)


 僕らは今、喫茶店の窓際にある小さなテーブルを挟んで向かい合わせに座り、注文した飲み物が出てくるのを待っているところだ。持てる勇気のすべてを振り絞って僕は彼女をお茶に誘ったのだった――そんなナンパめいたことをしたのは生まれて初めてのことだったけど。「お茶を飲みたいの?」彼女はそんな、どう返せばいいのか困るセリフを返してきたが、その後はむしろ積極的にこの喫茶店に向かった。近所にこんな店があることを僕は今まで知らなかった。


 住宅街のなかに唐突にある小さな喫茶店。繁華街のチェーン系列のカフェにしか足を踏み入れたことのない僕にとっては微妙に敷居が高く感じられた。


「こんな店、あったんだね。知らなかった。君はよく来るの?」


 僕は窓からの景色に目を向けつつ、世間話的に尋ねた。


「いいえ、初めて」


「じゃ、店の存在だけ知ってた、ってヤツ?」


「んーん」


 彼女は首を振った。む? それにしてはあの公園からなんの迷いもなく真っ直ぐにこの店に向かったようだったけど……。


「そもそもこの街に来たのは今日が初めてだし」


「え、そうなんだ……。じゃ、どこ住んでるの?」


 彼女は少し不思議そうな顔で僕を見た。


「今日からはココ」


「へえ。今日、こっちに引っ越してきたんだ。じゃあ、荷解きとかで忙しかったんじゃないの? ごめん、お茶なんかしてる場合じゃなかったかな」


 彼女は首を傾げた。


「荷物なんてない。私はいつも身ひとつだから」


「へえ、なんかカッコいいね」


 そのとき店員がやってきて、僕らのテーブルにコーヒーのカップを並べた。オーダーする際にはメニューも見ずに彼女は「あなたと同じものにする」と言った。


「砂糖は?」


 テーブルにあったシュガーポットを引き寄せながら僕は尋ねた。彼女はただ頷いた。


「何杯?」


 続けて訊いて、ようやく彼女は言う。


「じゃ、二杯」


 僕は砂糖を二さじ、彼女のカップに入れた。それから自分のカップにひとさじ。本当は僕も二さじのつもりだったが、なんとなく見栄を張ってしまった。


「ミルクは?」


 ちっちゃなミルクポットを取りあげた僕の問いかけに対して再び彼女はただ頷いた。


 彼女の表情をうかがいつつ僕は彼女のカップにミルクを注いだ。結果、止めどころがわからずに少々入れ過ぎてしまったようだ。残りのミルクを全部自分のカップに垂らしたけど、褐色の液体の色はあまり変わらなかった。


 スプーンを手に僕が自分のカップを混ぜると、彼女も同じようにした。僕がカップを口に運ぶと、彼女も。いつになくコーヒーが味わい深く感じられた。彼女も美味しそうにカップを傾けていた。僕は話を続けた。


「これまではどこに住んでたの?」


 彼女は再度首を傾げた。


「さあ……、あそこはなんて街だったかな」さも関心なさげに彼女は答えた。「遠いところ、ずっと遠いところ」


 つまりは言いたくないということかな、と僕は察し、質問を変えた。


「ふうん……。でも、なんで引っ越してきたわけ? 仕事の都合とか?」


 またもや彼女は不思議そうな顔で僕を見た。


「直斗さん。あなたにはまだわからないの?」


「え?」


 彼女がなにを言わんとしているのか、僕には見当もつかなかった。


 彼女の眼差しがフッと和らいだものに変わった。


「私の目を見て」


 言われるがままに僕はそうした。


「思い描いて――あなたの望む暮らしを」


 僕の望む暮らし――?


 そう言われてなぜか僕の脳裏にふと浮かんだのは、僕と彼女が仲睦まじくひとつの部屋で生活している様子だった。


「あ……」


 僕は言葉が出ない。発言を促すかのように彼女は首を傾げた。


 頭のなかでは彼女と一緒の生活のイメージが確固たるものとなり、僕はもうそれを脳内から追い出すことができなくなっていた。


「どうしたい? あなたは」


 トートはそう続けた。僕は答えるのに躊躇した。そんなこと初対面のひとに向かって言えるわけがないじゃないか。でも、頭のなかのイメージはますます膨らんでくる。僕は手にあったカップをテーブルに戻した。それは皿の上でカタカタと音を鳴らした。


「さあ、言って。あなたの希望を」


 彼女の黒い瞳がまっすぐ僕に向けられていた。


「僕は――、き、君と」


 彼女の口元に笑みが浮かんだ。


「君と一緒に暮らしたい」


 な、なにを言っているのだ、僕は――。


「いいわ。そうしましょう」


 満面の笑みで彼女はそう応えた。

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