4-4. ラウンジにて
壁越しにくぐもって聞こえていた音楽が止んだ。『世界』が伝えてきたという言葉、その真意を探ろうと堂々巡りを続けていた播木の混乱した思考も、それとともに途切れた。
彼は今、アーケイディアと呼ばれる船の高級ホテルのラウンジを思わせる一室にいる。丸いテーブルを挟んだ斜め向かいに座っているのは【薬師】だ。思考が中断したことで、あらためて彼は自分がこの少女と一緒にいることを不可解に感じた。
どうにも体に力の入れようがないほど、低く、柔らかなソファだった。
同じソファに身を沈めた少女は、特に話をするでもなく、出されたコーヒーを美味しそうに啜っていた。
播木はもちろん、さまざまな質問をしたかったが、いざ〝彼ら〟のひとりを目の前にしてみると、それを実行に移すことができなかった。相手はあくまでオレのことを海事局の職員だと思っているはず、自らの正体をこちらが認知しているとは気づいていまい、もしオレの本当の職務がバレてしまえば斎藤のように記憶を消されてしまう恐れがある、迂闊なことはできない――そう播木は考えていた。
「さっき君の言ったことだが」
ようやく播木は口を開いた。
「うむ」
マナは相槌を打った。話を聞くつもりはあるようだった。
「『今日起きる出来事』とはなんなんだ。何か事故のようなことが起きるという意味に感じられたのだが」
「いかにも」
マナは答えた。続けて何かを言う様子はなかった。仕方なく播木は問いを重ねる。
「どういうことなんだ。いったい何が起きる」
少女はチラリと播木を見やった。
「何が起きるのかはワシにもまだわからん」
退行催眠時に斎藤の語った言葉を播木は思い出した――〝彼ら〟自身は未来の成り行きを理解しているわけではない。『世界』の導きで彼らは必要とされる場所に自然とたどり着く、その場に欠けている必然性を補うために。
この場合の「必然性」とは何だろうか――。
組織を経由して播木はこの内覧会に出席する予定の来賓リストを入手していた。そこには総理大臣を筆頭とした錚々たる顔ぶれが記載されていた。各省庁の高級官僚、経団連の会長を含む経済界の重鎮が数名。さらにはテレビなどで一般にも名の知れたIT界の先端的研究者である西野仁の名も。こういった顔ぶれの揃った場でもし万が一のことがあれば未曾有の大事件となるだろう――言ってみれば、後年の歴史の教科書に載るレベルの事件となりうる。そう彼は考えを巡らしていた。
どうすべきか。すぐに本部に連絡して首相の出席を取りやめさせるべきか。だが無理だ。何が起きるかもわからないという状況で本部側が応じるはずがない。せめてもう少し具体的な根拠が必要だろう――。
「だが、さっきも言うたように心配は要らん。世界が良きに計らう。お主はそれこそ大船に乗ったつもりで見物しておればええ。それが此度のお主の役目であろう」
実際、大船に乗っとるわけだしな、と続けて少女は声を立てて笑った。
それが今回の自分の役目――心の内で考えていたことを少女にズバリと言い当てられ播木は困惑した。この少女は人の心が読めるのか? であれば自分の正体もすでに見破られているのだろうか。言い知れぬ不安に彼は襲われた。
播木は黙り込んだ。しかし席を立つことはできなかった。
思い出したように音楽が再び鳴り出した。低音のモコモコした音が微かな振動とともに耳に届いた。播木は、ある意味、蛇に睨まれた蛙のような状態だった。
はたして「大船に乗ったつもりでよい」というマナの言葉を信じていいのだろうか、オレはこんなところで時間を潰していないで「今日起きる出来事」が何であるかを可能なかぎり調査すべきではないのか、しかしどうやって? どんな出来事なのかもわからないのにどう調べようがある? ヒントはこの少女にしかない――そんな思考が播木の頭では延々と渦巻いていた。
結構な時間が経過したが、その間、ラウンジにはほとんど人の出入りがなかった。ソファに座っていたのはマナと播木の二人だけだった。
顔はあげていたが、マナは目を閉じて座ったままだ。何かを待っているかのようにも見えた。播木もただ同じようにするしかなかった。
そのまま昼過ぎとなり、ラウンジにようやく動きがあった。新たに四人の人物が足を踏み入れてきたのだった。播木はそれとなく観察する。うち二人は白人男性だ。一人は若い女性で、残る一人が先ほど船のそばで言葉を交わした夢雲の青年だった。播木は彼の名を思い出せなかった。一度で人の名を覚える彼にしては極めて珍しいことだった。それだけ別なことに心を奪われていたのだ。
彼らは持ってきたスーツケースを入り口近くに置き、それから夢雲の青年が三人を奥の席に案内した。播木は目を細めてその様子をうかがった。
「いったんこちらでお待ちください。医務室について確認してきますので」
青年が言ったのが聞こえた。女性がそれを白人らに通訳しているようだが、その内容までは聞き取れなかった。
「私はこの場所で結構だ、アスピリンさえもらえれば。それと、できたらホット・ブランデーをいただきたいものだな」
年配のほうの白人男性が英語でそう言った――イギリス人だな、と播木は思った。男の言葉を女性が青年に向けて訳した。
「わかりました、お待ちください」
そう言って青年はラウンジから出て行った。その際に彼はチラとマナを見やったが、声をかけてくることはなかった。
播木はマナの表情をうかがった。彼女も目を開けていたが、先ほどとは違い青年に対しては何の反応もせず、視線は奥に座った三人に注がれていた。
内覧会に招待された外国企業の賓客だろう、と播木は受け止めていた。そんな名がリストに載っていたのを記憶していた。青年は来日した彼らを迎えに行っていたのだろうと彼は思った。
「佐藤殿、腹が空かんか」
唐突にマナが播木にそう訊いた。彼は戸惑う。
「む。それは空かないこともないが」
「まだ時間もあろうし、皆はパーティーの準備で忙しかろうから、さすがにこの場で食事を所望するわけにはゆかぬであろう。いったん船を降りて、どこぞでワシにメシを奢ってはくれぬか。どうせお主は経費で落とせるのだろ?」
奇妙な提案だ。困惑に拍車がかかったものの、播木としては断る手はない。
「そうか。では行くとしよう」
返事を聞くが早いかマナは立ちあがり、足早にラウンジの出口に向かった。播木もそれに続いた。
扉から出たところでマナは歩調を緩め、甲板へと出る階段に向かった。播木はそのすぐ斜め後方を歩いたが、彼に顔を向けることなくマナは言った。
「あの老人に近寄らぬほうが良い。お主にそう言っておこう」
「老人? 今の三人の中にいた白人男性のことか。どういうことだ?」
「仕舞いには世界が良きに計らうとはいえ、ひとりひとりの分際からしたら巻き込まれぬに越したことはなかろ。余計な苦しみを味わわずに済もうというもの」
「あの男が今日の出来事に関係するということか?」
その問いに少女は、一瞬、播木に視線を向け、すぐにまた前を向いた。
「わからぬが、そうやもしれぬ。禍々しいものを感じた。鳥肌が立つほどのな」
確信があるわけではないのか、と播木は幾分、意外に感じた。
「なぜそれをオレに教える」
マナは前を向いたまま返した。
「お主は面白い。少しばかり他人と思えなくての。お主とは深く関わるほどの縁がないようなのが残念じゃ」
オレのどこが面白いというのか――播木は考えるが、もちろん何も思い当たることなどなかった。
マナはふいに立ち止まり、播木に向き直った。
「すまぬがワシはあの老人のことを至急、小林に告げねばならぬと思い至った。食事はまたの機会とさせてもらえんか」
そう言うとマナは播木の返事も待たずに踵を返し、上階へと走り出した。播木は追いはしなかった。一人取り残されて彼は思った――さて、オレは今、船の中にいる。この残された時間でいったい何ができるだろうか――。
くぐもった音楽が流れ続けていた。




