1-2. セクション・ゼロ
かつて、出向を命じられた播木基哉がこのオフィスに足を踏み入れて最初に思ったのは、どうやら此処は世間一般の常識が通用する場所じゃないぞ、ということだった。
なにせ部屋には煙が充満していた。
社会の模範たるべく官公庁が率先してオフィスの分煙化を推し進めて久しく、いまや大企業から中小にいたるまで事業所内での禁煙は常識だ。その存在が秘匿されているとはいえ、此処は官公庁に分類される組織の存する建屋である。それまで自分の体を緻密にメンテナンスすることさえ仕事の一環とされていた精鋭部隊に所属していた播木にとって、この部屋の状況はまるで自分が昭和の古い刑事ドラマの世界にタイムスリップしてきたかのような錯覚を生じさせた。
そんな彼も、今ではいっぱしの喫煙者である。
郷に入っては郷に従え、という。オフィスにいる限りはどのみち煙を吸うことになるのだ、学生時代以来の喫煙習慣が戻ってくるのにさほど時間はかからなかった。なにせ此処での仕事はひたすらに神経を擦り減らすものであり、皆がタバコを吸うのも或る種の必然と言えた。故に室内での喫煙が特例的に認められている――そういう瑣末なところにもこの部署の特殊さが現れているのだった。
セクション・ゼロ、公式には存在しないとされている組織。播木が此処に出向してから二年が過ぎようとしていた。
「ちょっといいか」
そう声をかけられ、播木は口にしていたラッキーストライクを手元の灰皿に押し付けて消した。声の主は山崎である。彼は指をくいくいと動かし、ついて来るよう促した。播木は席を立った。
フロアの隅にある打ち合わせ用の個室のひとつに連れて行かれた。狭い空間に小さなテーブルがひとつと椅子が四つ、壁には薄汚れたホワイトボードがあるだけで、窓はない。山崎は播木を先に中へと入れ、後ろ手にドアを閉めた。
「引き継ぎはもう終えられたのですか」
椅子に腰をおろしつつ、軽い口調で播木は尋ねた。職場では先輩にあたる山崎が今年度末で出向が解除されて警視庁に――内閣府直轄のこの組織には人材を育成する機能が存在せず、人員は警察庁と防衛庁からの出向で賄っている――戻るのは周知の話であり、もう残すところは数日というタイミングであった。
山崎は即答せず、手にしていた分厚いバインダ――相当に年季の入った――をドサっとテーブルに置き、播木の正面の椅子に腰掛けた。そして腕を組み、前に座る若者を見据え、ひと呼吸置いてから口を開いた。
「あとひとつを残してな」
それがこの場に連れてこられた用件か、と受け止めつつ、播木は「ほう」と口にした。だがそういう話であれば本来は上司を通すべきものである。自然と彼の顔つきは訝しむものになった。
「播木。お前を見込んで、そのひとつをお前に託すことにした」
言われた播木は黙ったまま山崎を見返している。
「秘匿された調査任務だ。上層部でさえその内容は知らされていない。これを知っているのは、長官と、歴代の担当者だけ。担当は常にひとり。一子相伝ってトコかな」
話を理解していることだけを示すように播木は小さく頷いた。口は閉じたままだ。
山崎は続けた。
「その任務の内容を聞いた時点でお前にはそれを断る自由はなくなる。したがって断るのであれば今が最終チャンスなのだが」
そこで言葉を切り、山崎は目の前の後輩の反応をうかがうような表情となった。
「中身をまったく知らされぬうちに引き受けるかどうかを決めろ、と?」播木は苦笑気味の顔つきである。「オレが断らないということが山崎さんにはもうおわかりなのですね」
山崎は表情を崩さずに頷いた。
「ま、そういうことだ」
播木は椅子に座り直した。
「お話を伺いましょう」
その返事に山崎は再度頷き、机上のバインダを無造作に引き寄せた。そこから一枚の紙を取り出して机の上に置き、指をついて播木の目の前にスライドさせた。
そこには二列にわたって数十の項目が箇条書きされていた。各項目の後ろには年月日が記載されており、最初のものは『国鉄南浦和事故(昭和37年6月4日)』、最後は一昨年に世間を騒がしたばかりの『リブポート粉飾決算事件(平成19年1月21日)』だった。中には『NAL37便墜落事故』のように播木が物心つく前の出来事でありながら今でもニュースなどでよく耳にするものであったり、『首都鉄道サリン事件』といった子供心に恐怖を覚えた記憶の残る事件なども含まれていた。
「なんですか、これは。戦後日本における主要な事件のリスト? にしてはマイナーなものもありますね、『大宮市で少年が植物状態から回復』昭和四十年、とか――」
「彼らが関わった疑いのある出来事の一覧だ」
播木のベタな感想混じりのセリフを遮るかに山崎は答えた。
「彼ら?」
不審顔の播木に向けて山崎は頷き、少しテーブルに身を乗り出すようにして続けた。
「不便なことに彼らには呼び名がつけられていない。前任者の誰もが適切な呼称を思いつかなかったのだろうな――かくいう俺もだが。あるいは、次に担当する者がヘタな先入観を抱かぬよう、あえて名前をつけなかったのかもな、先達らは」
「はあ」
「とにかく彼らには呼び名がない。もっとも、そのリストに載ってる個々の出来事に関わった当事者たちは、それぞれ、まちまちの名称で呼んでいたようだがな。自分らから彼らがどう見えていたかを示す名で――ときには『天使』、はたまた『悪魔』。『天女』の場合もあれば、『鬼子』だったりもする。『死神』だとかな」
播木の眉根が寄り、口から声が漏れる。
「は……」
そんな播木の様子に構うことなく山崎は続けた。
「あえて共通点を挙げれば、一見、人間のような姿形はしているけども、人知を超えた能力を持っている、といったところだろう、彼らの特徴は。それともうひとつ。彼らは、見た目のうえでは若者か子供であるが、決して歳はとらないと言われている」
いきなり妙な話になってきた――播木の表情が硬くなった。彼は非科学的なものを一切受け付けないタイプの人間である。少し考えを巡らせてから、こう返した。
「ああ、なるほど。つまり、世間での稀な出来事が、お伽話的な民間の伝承に結びつけられ、いわば都市伝説のようなものとして語られている――そういったものの調査をしている、ということですね」
「もし誰かに訊かれたら、そう答えるといい」
そう言い放って山崎は身を引き、椅子の背にもたれた。手元のバインダにその視線が落ち、沈黙がそれに続いた。播木は口を開きかけたが、厳しさの崩れない山崎の表情をうかがって、続くセリフを待つことにした。少ししてようやく山崎は言った。
「少なくとも俺の前任者は、彼らが実在することを信じていた」
そんなバカな、と播木は思った。だが口を挟むことはしなかった。
「そして俺は――」山崎は視線を落としたまま続ける。「確信はない。だが彼らが存在することを否定できない――いや、それについてはなにも言えない。ただ、間違いないのは、これは俺たちの仕事だということだ。確実に公共の安全に関わってくるだろう性質のものだ。此処をおいて他にこの問題を適切に扱える部署は存在しない」
「そう思えるだけのことを実際に体験された、ということでしょうか」
その問いかけに山崎は鋭い視線を播木に返し、ただ、頷いた。それからこう続けた。
「繰り返しになるが、お前を見込んでこの仕事を託す。見返りの得られるものでもなければ、終わりのあるものでもない。明確な答えが得られるものでもない。だが、長官も、その上の方も、彼らには大きな関心を持っておられる。最重要任務であると受け取ってもらっていいだろう。上司にはお前が特殊な任務をアサインされたということだけが伝えられるはずだ」
そうして山崎の手元のバインダが播木の前に押しやられた。
「目を通せ。質問があれば俺が此処にいるうちに訊け。来月には俺はこの件についての一切を忘れる」




