3-5. 神戸へ
アーケイディア号の艤装。社内で今もっともホットなプロジェクトだ。なにがなんでも内覧会を成功させることが目下の最重要課題となっている。プロジェクト管理オフィスは津島重工神戸造船所内に設置されていて、作業の進捗状況を詳細に把握して社内の関係者との連絡係となる人物が必要――というわけで僕もそこに常駐することになったのだった。
僕の神戸出張に際し、会社はウィークリーマンションを手配してくれることとなった。実家が近いのならそこから通えばいいだろ、なんて話は出てこなかった。詳細は知らない。僕はこう茅野さんから鍵を渡された。
「今回はご家族の同伴もオーケーだそうです。その分の交通費も会社から支給されます」
「ご家族」
鸚鵡返しに訊いてしまった。
「同棲中の彼女もその範疇に含まれるとのことです。小林さんがそう伝えるようおっしゃってました」
茅野さんはにこやかにそう言った。僕は驚かざるを得なかった。
「んっ、小林さんは僕に同棲中の彼女がいることをご存知ということでしょうか」
「いるんですね、彼女」と茅野さんは笑った。「いえ、小林さんは一般論として言っただけだと思いますよ」
「えっ、大野さんは彼女と同棲しているの? ダメよ、そういう重要なことは言っといてくれなきゃ」
席から原田さんが振り向いて声をあげた。もちろん冗談で言っている声色だった。
「えーっとぉ。それは僕のプライベートな話なんで……」
「でも、ほら、泊まる場所を探してあげるにしても、男ひとりなのか、それともカップルなのかじゃ、選びようが変わってくるじゃなぁい?」
「お相手がどんな方なのかによっても違ってきますものね」と、茅野さんまでジョークに乗ってきた。
「そうよそうよ。……で、どんな人なの?」と原田さん。
「黙秘権を行使します。でも、すごい美人とだけは言っておきます」
「きゃーっ、すごい美人だって。大野さん、スミに置けないわ」
「しっかり記憶しておきます」茅野さんも言った。
そんな社長室でのやりとりの翌日、僕はトートを連れて新幹線で神戸へ向かったのだった。僕はいつも飛行機は使わない、特に深い理由があるわけではないけども。
二人分の着替えをひとつのスーツケースに詰め込んだ。スペースを占めたのは大半が僕のものだった。そろそろ秋になるタイミングだ。トートの秋物の衣服は現地で調達しようと考えた。
出張は二ヶ月ほどが予定されている。船の内覧会が予定されている十一月中旬までである。そこそこに長丁場ではあった。そこでの僕の仕事は、内覧会の準備状況を把握して経営陣に随時報告し、必要に応じて諸々の調整を図ることである。とはいえ全体の進捗管理はバリバリのプロフェッショナルのプロマネがやるし、それぞれの分野ごとに社内外の専門家がリードを務めているので、僕はそういう人たちから報告を聞いて回るだけだ。ひと口に言えば、時間のない経営陣のために状況を要約するのが僕の役割といったところだろう。
僕とトートは神戸の街にやってきた。津島重工神戸造船所から徒歩で十分くらいのところに僕らの仮の住まいはあった。スマホの地図を見ながら僕らはその場所へと向かった。
白いセンターラインのある車道の脇を、スーツケースを引きずりながら歩いた。トートは僕の前を行った。しばらくして彼女は立ち止まり、目の前にある建物を見上げた。僕も足を止め、スマホの地図を確認した。そこが目的地で間違いなかった。
ごくありふれたマンション風の建物。築年は少し古そうだ。だが作りはしっかりとしている印象である。僕は頷いてみせ、「三〇一号室」と告げた。彼女も頷き、建物のなかへと足を向けた。
エレベータはなかった。僕は両手でスーツケースを持ち上げ、狭い階段をのぼった。トートはどんどん先に行ってしまった。僕が三階の廊下に出たときには、彼女はもう一番奥にあるドアの前で待っていた。
早足にそこまで歩いて、僕は鍵を取り出した。ドアを開けると、彼女はスッとなかへ入った。最初に彼女を自分の部屋に連れて帰ったときのことをなんとなく思い出した。
綺麗な部屋だった。1Kだが僕の部屋よりかは若干広いように見えた。トートは部屋の奥まで行き、窓を開け、ベランダに出た(そう、僕の部屋と違ってそこにはベランダがあった)。僕は後から彼女に続いた。
彼女は柵に手をついて景色に目を向けていた。道を挟んで向かい側の建物に遮られてさほど眺望が良いとは言えなかったが、それでも街の雰囲気は見て取れた。
「いい風ね」
彼女が言った。
「海風だな」
僕はそう返して、スマホの地図を見た。ベランダは海側に面していた。が、見回しても海はどこにも見えなかった。ちょうど前の建物と別の建物のはざまに小さく見えたクレーンらしきものが岸壁のある位置を思わせるだけだった。
「あなたの仕事場はどのあたりなの?」
彼女がそんなことを訊くので、僕は地図でそれを確かめた。
「んー、たぶん、あのあたり」
僕は腕を伸ばして、ベランダの正面からやや左のほうを指さした。
彼女はニコリとして頷き、それから体ごと僕を向いた。
「私はここでずっとあなたを待っているから、仕事が終わったら、まっすぐここに帰ってきて」
その様子がなにかとても大事なことを伝えたかのような調子だったので、僕はどう返せばいいのか、すぐに思いつかなかった。そして彼女はさらにこう付け加えた。
「そのことを忘れないで」
このときの彼女の表情は、なんと表現したらいいのだろう、言葉では言い表せない。すべての想いを込めた、とでもいうような。
僕は少し呆気にとられた顔になっていたはずだ。
「あ、ああ、もちろん」
口籠もり気味にそう返すのがやっとだった。
気持ちのいい風が吹いていた。




