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2-9. 採用決定

 どこからか海の匂いがした。地下鉄の駅から地上に出て、ぬるい風に吹かれたとき、それに気づいた。近くに海があるに違いないのだろうけど、このビルの谷間からはどこにあるのかを知ることはできなかった。


 僕は夢雲の本社ビルに向かっている、二次面接を受けるために。その日時と場所を指定する連絡はメールで来た。それ以外の情報はなにも書かれていなかった。こちらとしては言われるがままに出向くしかないわけだけれど、しかし気になるのがいったいどういう部門のどういう職種で僕の採用面接をしようとしているのか、という点だ。提出した履歴書をもとに先方側で検討してくれるという話だったと思うけど、下手をしたらグループ傘下にある生命保険会社の営業担当として採用しようとしている可能性だってゼロじゃない――さすがにそれは悲観しすぎだとは思うけど。


 期待し過ぎないでいればどんなオチにもガッカリしないで済む――僕の人生訓だ。ナゲット社のときには、つい期待をしてしまった。絶対無理としか思えないところを役員面接にまで進んでしまったものだから、これはもうイケるだろうなどと考えてしまった。その轍はもう踏むまい。今回も予想外に二次面接へと進んでしまったわけだが、期待はするまい。どうせ今回の面接もたくさんの応募者を次から次に流れ作業で順に処理していくようなヤツだろう――。


 そう自分に言い聞かせつつ、僕は夢雲本社ビルに辿り着いた。大きさに圧倒されるけども、それ以外はごく普通のオフィスビルではあった。


 受付前のロビーには多くの来客がいた。だが、パッと見、面接に訪れたという風情の人影はなかった。そのことに少し拍子抜けした。僕は受付で名乗って用向きを伝えた。


 迎えが来るというので、ロビーに並んでいたベンチに腰掛けた。


 五分くらい待ったか、といったあたりで、「大野様」と声をかけられた。顔をあげると、すらっとした背の高い女性が立っていて、こちらを見ていた。僕と同世代くらいに思えた――女性の年齢を推測するのは得意ではないけれども。


「はい」


 僕は立ちあがった。女性はにこやかに「ご案内いたします」と言って僕を先導し始めた。セキュリティゲートを通過してエレベータへ。終始、丁寧な物腰だった。


 最上階へ連れて行かれた。


 普通、面接って小さめの会議室とかでやるものだと思うけど、今回、僕が通されたのは奇妙に広い部屋だった。それも、会議室であるには違いないのだけれども、なんというか、まるでハリウッド映画なんかで見るような企業の幹部がずらりと並んで座って会議をする雰囲気の部屋だ。もちろん今はそこに他の誰もおらず、僕は大きなテーブルに揃えられた高級感あふれる椅子のひとつに座るよう促された。


 誰かと間違ってここに連れてこられたんじゃないかとしか思えなかったが、そんな僕の困惑に構うことなく、女性は一礼して部屋を出ていった。


 だだっ広い部屋に僕は取り残された。


 窓の外に目を向けると、東京湾が一望できた。完全に、自分とは縁のない場所に来てしまった、と思った。


 ずいぶんと待たされたような気もしたが、実際にはドアがノックされるまで一分もなかったかもしれない。さっきの女性がお茶を持ってきたのかと僕は思ったが、部屋に入ってきたのは中年の男性だった。面接官か――慌てて僕は椅子から立ちあがった。


 ノーネクタイ、ノージャケットのビジネススタイルのスマートな印象の男性。面接官がよく使うクリップボードを手にしていた。


 男性は僕に座るように勧め、自身も僕の正面に腰掛けた。テーブルが広いので、奇妙に距離が開いた。男は落ち着いた声で話し始めた。


「大野直斗さん、ですね」


「はい、そうです」


 どうやら間違ってこの部屋に連れてこられたわけではなかったようだ。僕は少し安堵しつつ、もごもごした口調にならないように気をつけながら返事をした。


「はじめまして、小林省吾と申します」


「はじめまして。本日は面接の機会を賜りまして、誠にありがとうございます」と、僕は頭をさげた。


「いえいえ、こちらこそ」


 男は気さくな感じにそう返してきた。


 そこから先は、よくある面接的な流れとなった。男はジェントルな雰囲気を崩すことなく質問を重ねていった。時折たどたどしくなる僕の話にきちんと耳を傾けてくれ、ときには僕の話の流れを整理するような形に口を挟んだ。変なツッコミとか、話が遮られたりするようなことは一切なく、僕としては話がしやすかった。だがツッコミ的なものがないことは僕を評価するつもりに乏しいことを意味するのでは、という感じもした。


 やがて、ひととおり話を聞き終えたという態度を男が示し、僕も小さく息をついた。男性はボードとペンをテーブルに置き、こう続けた。


「では、大野さんのほうから我々に何かご質問はありますか? 弊社で働くにあたってご心配な点とか」


 まるで採用してくれるかのような口ぶりだな、と思いつつ僕はこう返した。


「はい、そうですね――。もし御社で働かせていただけるのであれば、それだけでも大変に嬉しく思うのですが、私なりに力を発揮できる分野の仕事でないとお互いに不幸になるだけかと思いますので、採用された場合にどのような部署に配属されるのかが気になります。もちろんどんな部署であってもベストは尽くすつもりでおりますが」


 男は笑顔を見せた。


「ええ、もちろん来ていただく以上、大野さんの力を最大限に発揮いただく場を用意したいと思います。決して楽な仕事ではないと思いますが」


「仕事ですから楽ではないという覚悟はしています。ただ、私はこれまでずっとITエンジニアとしてキャリアを積んできておりますので、それ以外の職種での採用となるとちょっと難しいかな、と思うところもございまして」


 僕がそう言うと、男は虚をつかれたような顔つきをした――一瞬だけだったが。


「ああ――。ええ、もちろんエンジニア職での採用となります。このご経歴でそれ以外は考えられませんね。そこはご心配なく。大野さんには社長室付きのエンジニアとしての採用を考えています。もし弊社に来ていただけるのであれば、ですが」


「社長室付き――。ちょっと具体的にイメージできないのですが、どんなお仕事になるのでしょう」


「ITエンジニアリング全般ですね。企画から雑用まで、幅広く。『何でも屋』的なイメージになるかな。僕らの仕事の源流みたいなものですね。僕らは常に新しいことにチョコチョコ手を出しているんだけど、そういうものって、当然、最初から部署化はされていないわけで、その新しいビジネスの芽となりそうなものを部署として立ちあげるべきかどうかを見極めるまでのフェーズにエンジニアとして参画してもらうことになります。だから悪く言えばエンジニア的雑用みたいな仕事が多いかもしれないですが」


「それは大変に面白そうですね。新しい分野をやっていくのはエンジニアとしても非常に興味を惹かれる仕事ですし、やりがいもありそうです」


 男性は頷いた。


「それはよかった。他に何か質問や、言っておきたいことがありますか?」


 僕は少し考えた――フリをした、と言うべきかもしれなかったが。


「いえ、質問は特にないです。採用いただければ微力を尽くしますので、ぜひ前向きにご検討くださればと思います」


 そして僕は頭をさげた。


 そこで意外なセリフを男は口にした。


「オーケー。では、大野さんを採用します」


 顔をあげ、僕は、え? と思った。いま、なんて言った?


「ようこそ夢雲へ。正式なレターと今後の手続きについては人事からメールが行くんで、それに従ってください」


「あ」


 僕は言葉を失った。面接の場でいきなり採用だなんて――この人は人事部長とかなのだろうか。それにしても、話が早すぎだろう。


 戸惑う僕を尻目に、男性は椅子から立ちあがった。


「本日はご足労いただき、ありがとうございました。大野さんと一緒に働けることを楽しみにしています」


 僕は慌てて立ちあがり、頭をさげた。「あ、ありがとうございます」


 男性は頷き、片手を差し出して僕に移動を促した。




 僕は足早に家路を辿った。電車では座らなかった。駅前のコンビニにも寄らず、自宅アパートに近づくと、ほぼ小走りになった。夢雲に採用された喜びを一瞬でも早くトートと共有したかったのだ。


「ただいまぁ」


 出迎えた彼女は僕の顔を見てニコリと小さく頷いた。


「受かったよ」


 靴を脱ぐのももどかしく、僕はそう告げた。彼女はもう一度ニコリとした。


「受かった――君の応募してくれた会社に」


 僕は続けた。


「よかったね」


 彼女はそう言ったけども、まるでそんなことはもうわかっているとでも言いたげな顔つきだった。僕は拍子抜けしなくもなかったけど、彼女は万事そんな感じなので今さら驚いたりはしない。むしろ自分が少し興奮しすぎだったかも、と思った。


 僕は部屋に入り、上着を脱いだ。


「乾杯しましょ」


 彼女はそう言って、テーブルにグラスを並べた。それから冷蔵庫の扉を開けて、何かを取り出した。見ると、手にしているのはシャンパンの小さなボトルだ。


「え、いつのまに……」


 僕が疑問を口にすると、彼女は平然と答えた。


「さっき買ってきたの。お祝いだからね」


「へえ……」


 なぜ、今日のうちに採用が決まるとわかったのだろう? 単に、いずれはどこかしらに決まることになるであろう再就職決定の日のために買ったボトルが偶然にもその日のうちに役立つことになった、ということか。そうとしか解釈のしようがなかった。


 彼女は僕にボトルを手渡し、僕はその栓を抜いた。そして並んだグラスにシャンパンを注いだ――ちなみに彼女は決して自分では酒を注がない。自分で注いでしまうと(僕がたいして飲まないうちに)あるだけ全部を飲んでしまうなんてことになりかねないと遠慮しているのだろう、と僕は思っている。


 僕らは乾杯した。


「独占期間もお終いね」


 美味しそうにグラスを傾けたあとで、彼女はそう口にした。


「え、なんの話?」僕は尋ねた。


「私が直斗さんを独占していられたのが、もうお終い、ってこと」


「アハハ、でも僕が君のものだってことには変わりないじゃないか」


 まだ採用決定の高揚状態が続いているのか、早くもシャンパンの酔いが回ったのか、僕は口にもしたことのない歯の浮くようなセリフを言い放った。


 彼女は声を立てずに笑った。


「でも一緒にいられる時間は少なくなっちゃう」


「仕方ないじゃないか。仕事をしないことには生きていけない」


「そうね、仕事は大切だもの」


 彼女の言葉に僕は頷いた。


「仕事をして金を稼がないと、僕らも一緒に暮らせなくなるだろ。僕が働くのは君のためのようなものだよ。そうでもなきゃ――」


「違う」


 僕が言い終えないうちに彼女は口を挟んだ。


「仕事をするのはね、」


 彼女はそこで言葉を切り、目を細めた。その視線はどこか遠くに注がれていた。そしてその綺麗な唇から言葉が紡がれた。


「世界のためよ」


 と。

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